から
阿寒 兵衛太郎
から
木曜日の午後。
打ち水。八百屋のトマト。安売りの靴屋。安売りの服屋。どこかのお店の風鈴の音。いつもと同じ、人のまばらな駅前通りである。
そんな中を、馬乗り袴に墨色の着物と、その上に洒落柿色の紋付といった出で立ちでゆうゆうと歩く男がいた。寂れた商店街には似つかわしくないその恰好で、それに、額から首筋から、ぐっしょりと汗をかいている。しかし男はそんなこと気にする様子もなくずんずん歩いてっいた。それどころか、男は鼻唄交じりにスキップまでするほど上機嫌だった。時々ショウウィンドウに映る自分の姿を見つけると、息をハアハア言わせて駆け寄って行って、また、襟をピンとしてからちょっとポーズをとってみたりして、その度にそこに映る自分を満足げに眺めた。
男は、五十歳にして初めて念願の袴と紋付を手に入れて完全にはしゃいでいた。
興奮に息を弾ませたまま、男はいつの間にか歩いていた道をひとつ外れた通りに入っているのに気付いた。
おや少し浮かれすぎたかな、と思ってきた道を引き返そうとした、その時。
くしゃり
と、音がした。
その音は、男のすぐ後ろから鳴ったようだった。男がはっと振り返ってみるとそこには生卵が一つ割れてあった。
と、貧相な格好の青年が男をめがけて一直線に走ってくるのが目に入った。
「ッらあッッ!」
という叫びとともに、青年はまた卵を男に向かって投げつけた。
先ほどまでの幸せな興奮がまだ体の中に残っていて、男は、今の状況に全然頭が追い付いていかなかった。
だから、今、腕に感じた鈍い感触と、紋付の袖についているドロっとした粘液の正体と、青年の振りぬいた腕のフォロースルーとが、それぞれ全然関係なく引き起こされた事かのようにさえ感じていた。
硬直している男に向かって、青年は追撃を加えるための卵をポケットから慎重に取り出し、セットポジションに構えた。
その姿を見て、ようやく自分に身に何が起きているかを理解して、男は戦慄した。
しかしなぜ自分がこんな目に合わないといけないのか、目の前の青年はいったい何を考えているのか、なぜ何もしゃべってくれないのか、そもそもこの青年は誰なのか。何一つわからないという事が男の恐怖をさらに強めた。
青年は卵を構えて、重心を低くした前傾姿勢のまま、深く左足を一歩踏み込んだ。
対して男はまだ金縛りにあったように動けないでいる。男はなにか声を出そうとした。しかし青年の動きはのどの筋肉に指令が伝達するよりも速く動いているように感じられた。
青年はスムーズな重心移動で、構えた卵に勢いを加えている。今にも卵は青年の手から離れるところだった。
男はもはや、この不可解な状況を観念して受け入れるしかなかった。こうなったら最後の抵抗で、男は青年のじっと方を見た。すると驚いたことに、青年の方も男のことをじっと見つめていた。しかも男を見る青年の目は、その男に対するなにか親しみを込めた優しい目つきをしていた。
男ははっと息をのんで、かといって現実が変わることもなく、青年の手から卵が離れ、浮き上がるような軌道で男に向かって放たれた。
びゅぉおおをッ
突然、強い風が吹いた。
男は思わず目をつむって、そして身体は投げられた卵に身構えて力が入っていた。
しかし卵があたる感触はなかなか訪れなかった。なので男は恐る恐る目を開いて青年の方を見た。すると青年は、さっきと打って変わって呆然と立っていて、上の方のなにかを見上げている。
男もつられてその目の向かう先を追った。
そこには、風に吹き上げられてくるくる回転しながら空へと上昇していく卵があった。
***
当然のことだが、交番にはいつも厄介ごとばかりが舞い込んでくる。
木曜日。とても暑い日のこと。
初老の男が怒っている。汗だくの顔を真っ赤にして、腕をぶんぶん振り回して怒鳴っている。どうにも収まらん、とか、もっぱつどつかんと、とか言っているのがどうにも要領を得ない。それを婦警が何とかなだめているところだった。
「えぇ、えぇわかりましたから、ですが順番にお話をお聞きしないと、いけませんから。」
すっかり困った顔をして時々きょろきょろとあたりを見回している。
「だからな、俺は何べんも言うとるじゃろて、んでもちとも収まらんのやゆうて、ええか、ええか」
男はそういって、よりいっそう顔を真っ赤にしながら、半ば泣きそうになりながら怒鳴った。
「この紋付はな、この着物もな、この袴も襦袢もな、一万だか、二万そこらの代物やないが言うて。俺のな、地元のな、仕立て屋さんのな、え、そんならあんた、その仕立て屋さんの目の前でもって言いよんか、言いよるんか、俺の地元のな、仕立て屋さんがな、一所懸命、一所懸命にな、仕立て屋さんちゅうのは、プロやき、プロやきいの、その道一筋のプロにな、え、汚れが落ちんでも新しい物が買えますからて、え、あんたはそう言いよるんか、問題はそこじゃないが、プロや、プロやきいの」
「えぇ、えぇ、ですからそういうことではなくてですね、落ち着きましょ、まずは、えぇ」
外では、油がはねたようにセミが鳴いている。強い風が吹いて、そのうちの一匹が吹いた風に流されてふらふらと交番の中に迷い込んできていた。と、冷房の涼しい風で元気を取り戻したのかセミはまた勢いよく鳴きだした。
しばらく鳴いていると、あたりを見回していた婦警と目があった。
セミはかまわずに鳴き続けた。
婦警はなんでそこで鳴くかなあと思って、何となくその鳴き声に耳を預けた。そのうちに、だんだんその一匹のセミの声だけがはっきりと浮いて、その他の音は全部一緒くたになって聞こえてきた。男のしわがれたキンキン声も、大勢のセミのように遠くなって聞こえた。
そうやいうて、ジッジジー、なんやいうが、ジッジジー、
「うーんとねぇ。うん。それはそうなんだけどね、お父さん。え、まずは事実の確認をしなくちゃいけないから、だからまずは落ち着いて、え、もう分別のつかない年じゃないでしょう。だからね、なんでそんなことになっちゃったのか、私たちに分かるように、教えてくださいよ。」
交番の奥から巡査の男が出てきて、落ち着き払った様子で、それでいて威圧的な物言いで割って入った。
しかしそれは逆に男を挑発しただけなようだった。
「なんやあ、あんたはあ」
男は、首筋から耳から真っ赤に燃え上がらせて俄かに立ち上がった。
「なんで、も何もあるけえ」
男は今にも飛び掛からんとしていた。
巡査のわりに小柄なせいか、男の恵まれた体格のせいか、声量のせいか、その威嚇する姿にはかなりの迫力があった。
「ジジッ」と短く鳴いて、セミはまたどこかへ飛んで行ってしまった。
婦警ははっと我に返ってまた困ったようにきょろきょろした。
巡査はとにかく一旦場を収めたかった。そこで男を無理やりにでも椅子に座らせようと、男の襟と袖をぐっとつかんだ。が、それはうまくいかなかった。なぜかというと老人の長着には、ぬるぬると粘液のようなものが付着していて、巡査の手はつるんと滑ってしまったからだった。つるんと滑って巡査の手と、男の手とが一瞬握り合うような格好になった。しかしそれも束の間で、巡査の手にも粘液が移っていたのに加えて初老の男はぐっしょりと手汗を書いていた。なので巡査は’あれえという間に手がすっぽ抜けるのをただ見ることしかできなかった。
そして何となく気まずい空気が流れた。
「ま、まぁとにかく、怒っているだけじゃいつまでも終わりませんからね。」
突然、巡査はそうとだけ残してさっさと奥へ戻ってしまった。
男も婦警も、その背中を呆気に取られて見送った。
***
巡査は一人になると、大げさにため息をついてから手を洗い、冷たい麦茶をコップに2杯と、救護箱の中からガーゼとか消毒液とか色々をを出して、全部まとめてお盆に乗せた。
巡査は今は給湯室にいて、その隣に交番の応接室というのがある。応接室といっても、そんなに広さはなく、長机とパイプ椅子がいくつかあるだけだった。ただ、その部屋にだけ新調したクーラーがあって、その効きがすこぶるいいので、普段は専ら休憩室や、近所の生意気な小学生が時々やってくるような場所として使われていた。
そこに今は、青年がたった一人座っている。
その顔立ちも、服装も大きな特徴はなく、膝に手を置いてじっと猫背で座っている姿からは覇気みたいなものを全然感じさせなかった。
といって、その青年の影が薄いかというとそういう訳でもない。実際、巡査は扉を開けてその部屋に入った時から青年の存在をひしひしと感じ取っていた。巡査は最初、小さな子供たちが出入りするようなところに今は青年がたった一人でいるためか、あるいは青年の頬にある真新しい痣のためにそう感じるのかと考えた。
巡査はちょっと大回りをして壁沿いに歩きながら青年の方へ向かった。その間青年の目線はじっと巡査を追っていた。
応接室の扉が閉まると、意外なほど部屋はしんとした。巡査は自分の靴の音と、お盆に乗せられたコップのカタカタ鳴るのに耳を澄ませている。先刻までのひと騒ぎが急に昔のことのように感じられた。
「痛みは引いた?消毒とか自分でできるね。」
巡査はそういってお盆ごと青年の前に置き自分は向かいの椅子に座った。
青年は会釈をして、しかしお盆には手を付けずにじっと座っている。
「あっちは大変そうだったよ。あのおじいちゃん、おじいちゃんって言うほど年もいってないだろううけどさ、まだ雷だったよ。いやこまったよねぇ、ほんと、大げさだよね着物くらいでさ。多分洗えば普通に落ちるぜ、あれくらいは。」
青年はただ黙って巡査を見つめている。
「ただね、俺はあのおじさんが怒るの気持ちもわかるなぁ。だってさ自慢の一張羅に突然生卵なんてぶつけられちゃあねえ?」
瞬間、初めて青年の目が下に逸らされたのを巡査は見逃さなかった。
「なぁ、そろそろ話してくれないか?あのおじさんは、君に、突然、理由もなく生卵を投げつけられたと言ってるんだ。もしも君が関係ないなら、あのおじさんが嘘をついてるって事かい?だとしたらなんで?まぁともかくさ、きみの口からなにか言ってくれないとさ、こっちも困っちゃうんだよね。」
「……僕は……。」
初めて青年がかすれるように声を出した。しかしそこからは尻すぼみになってしまって、巡査には聞き取れなかった。
巡査はまたさもやれやれというふうにため息をつき、
「まあいいや、それじゃ簡単なことから聞いていこうか。」
青年は麦茶を一口飲んだ。
「まずは君、名前は?」
「…………。」
「名前。」
「……△△です。」
「下は?」
「○○です。」
「△△○○君ね、○○君歳は?」
「二十三の歳です。」
「二十三?へぇ、もう立派な大人じゃない。今は何してるの?」
「今、はまだ大学生です。」
「大学生かぁ、ん、今二十三ってことは……。」
「大学二年生です。三回留年してます。」
「へぇ……そうかい。ん、今日は、大学休み?」
「えと……、正直わかんないです。」
「わかんない、なんで?」
「最近は、あんまり大学に行ってないので……。」
「へぇえ、そう。」
青年はきまり悪そうにはにかんでいた。
「○○君、お家は?この辺?」
「ここからすぐです。おばあちゃんと2人で住んでいます。」
「へぇえ、おばあちゃんと。なるほどねぇ……。」
巡査はもう一度注意深く青年を見た。
背中を丸めて座っていて、くしゃくしゃの綿のボーダーT シャツ着ているのが、実際の年齢よりも幼く見える。少しずつ緊張が和らいできたと見えて、相変わらずチラチラ巡査の方をを見てはいるが、時々お茶を飲んだり、消毒液をぎこちなくガーゼにシュシュっとやったりしていた。
わりに健康的な見た目で、受け答えもしっかりしている。果たしていたずらをするような人間には見えなかった。
本当にこの青年がやったのだろうか?だとしたらなぜ?どんな目的があってだろうか。
しばらく考えてみて、しかし答えは出てきそうになかった。
「うぅん、わからないなぁ。」
無意識のうちに声に出ていた。
青年は痣におっかなびっくりガーゼをトントンする手を止めて巡査の方を見た。
「それは、質問ですか?」
「いやぁね、君がそんないたずらをする人には見えないから……。っひょっとしてあのおじいさんと面識があった?」
「いえ、ないです。」
「そっかぁ、そうだよね。じゃあわかんないな、やっぱり。」
会話が再び途切れた。
巡査は青年のもっと内面を探ろうと別な質問を探した。
「あのう、」
すると今度は、青年が話を切り出した。
「あのう、やっぱり怒っていましたか、あのおじさん。」
巡査はちょっと顔をしかめた。
「そりゃもちろん怒ってたよ。目を三角に釣り上げてね。」
「そうですか……。」
「いやでもな、あのおじいちゃんも別に悪い人じゃないと思うぜ。ちゃんと謝れば……」きっと許してくれるさ、まで言い終わる前に青年が割って入った。
「なら……。そんなに怒っていたなら、あのおじさんも伝えたかったのかもしれません。僕と同じで。」
「どういう意味?」
「誰でもいいから、一緒にいたい、共有したい、と思わせる力が理不尽にはありますから。」
そんなことを言う青年に対し巡査は、疑問と疑いと少しの興味の目を向けた。
青年は、何を考えているかは分からないが、ただまっすぐに巡査の方を見ている。そしてこう続けた。
「つまりどういう事かと言うと、全部は、僕のしてしまった事というわけです。恨みもないし、きっと罪もないおじさん卵を投げつけたのは紛れもなく僕です。しかし決して、誓ってイタズラなんかではなく、理由があったんです。でも、それはきっと誰にも理解されないだろうと思っていました。それは今だってそうです。でも、それでも僕は話してみたいと思います。僕がどうしてこんなことをしたのか。聞いてくださいますか。刑事さん。」
青年はほとんど一息で言い終えると、グッと残りのお茶を飲みほした。
巡査は、さすがにちょっとびっくりしたが、それでもすぐにこう答えた。
「何さ、むしろ俺の方が聞きたいんだ。これは仕事としてじゃなく、個人的に興味がわいてきたからだけど。君がどんなことを考えているのか、ちょっと聞かせてくれないか。」
「ありがとうございます。……ひょっとして、刑事さんになら伝えられるかもしれません。」
「そうか、そうだといいな。」それから一呼吸おいてこう加えた。
「あと、一応言っとくと、俺は刑事じゃないぜ。」
「……え、違うんですか?だったら、なんなんですか?」
「別に呼び方なんて何でもいいが、お巡りさんとかならいいんじゃないか。」
「わかりました、じゃお巡りさん。」
「おう」
巡査は青年の前のお盆の方に手を伸ばして、まだ手をつけていなかった麦茶を一息で飲み干した。
***
まず前もって言っておきたいことは、僕は自分を正当化して責任逃れをしようとしているわけじゃないという事です。だって僕には特別な事情も、同情の余地もありませんから。この際白状をしてしまうと、僕は自分がどういう経緯で人に卵を投げつけようと思ったのか、自分でもはっきりとは覚えていないのです。少し前の自分が考えていたことが、なんだかしっくりこないような、そんな気持ちがするのです。
あともうひとつ言っておかなくちゃいけないことがあります。
僕は卵を一つは外して、一つはおじさんに当てて、合わせて二つの卵を投げました。ですが、本当は卵はもう一つあったのです。
その卵は少し変わった性質を持った卵でした。そしてそのもうひとつの卵こそが僕の目的で、その変わった性質によって僕は打ちのめされ、理性のタガが外れてしまったのです。
今思い返すと、僕はあの時理不尽というものに酔っていたんじゃないか、なんて思ったりするのです。
その卵がどういう風に変わっていたか、それを言うのは実は容易いことです。
しかし僕は、お巡りさんには説明の言葉でなく、理解って欲しいと思うのです。
ひとつ試してみたいことがあります。
お巡りさんが、今日の僕を追体験するんです。いえ、大丈夫です、そんな大それたことはしません。おままごとと同じ要領です。足りないものを想像で補おうというやつです。ただここには何もないので、最初から全部を想像に委ねるだけのことです。やってみてもいいですか?
ありがとうございます。
それでは、想像をしてみてください。
あ……、そういえば、
お巡りさんは普段料理とかしますか?
あぁ、そうなんですか。僕は時々しますよ。
いえ、と言っても簡単なものしかできませんが。
へぇ。
え、じゃあ晩御飯とかどうされてるんですか?外食とかですか。
…………。
え、ご結婚されてたんですか。意外ですね。
えっ?えぇ、はい、意外でした。
はい、
失礼しました。
はい、
そうですね。
え?
えぇ、ですが、
…………。
確かに一見、無意味に感じるかもしれませんが、こういうのは意外に大事だと思うのです。何せこれから僕たちは体験を、想像するのですから……。
…………。
今日、僕が起きたときにはおばあちゃんはもうバイトに出ていて、今日は完全に一人の日でした。
ベランダには多分出かける前におばあちゃんが干した服があって、まだ完全には乾ききってはいなかったですけれど、着ているうちに乾くだろうと思って、その服を着てふらっと外へ出かけました。
と言って、出かけて何かをするという訳でもないのですけど……。何せ今日はとても暑かったですから。
ここから商店街へ抜けたところにある公園わかりますか? そこのベンチにぼうっと座っていました。いつもは大体そのくらいの時間に楽器を背負って公園を突っ切っていく制服の男の子がいるんですけど、そういえば今日は見なかったですね。
結構長い間座って、その後商店街のあたりをぶらぶらして、家に戻ったのは確か午後三時くらいでした。
それで、起きてからまだ何も食べてないなと思って、ちょっとおなかがすいたなと思って、まだおばあちゃんが帰る時刻でもなかったので、自分で何か作って食べようと思いました。
さて、ここの辺りから一緒にやりましょう。追体験。もしかしたら目を瞑ってみるといいかもしれません。
それじゃあ作りましょうか。
オムレツ、僕の得意料理です。
家はカウンターのキッチンで、例えばこの部屋がうちのリビングだとすると、扉から入って右側がカウンターです。手前から順に、水回り、小さめではありますが作業スペース、そして一番奥の壁際にガス台があります。扉を開けてすぐ右手に食器棚。その向こうの部屋の角に冷蔵庫がすっぽり収まっています。
必要なものは大体そろっているはずです。
キッチンの周りは僕のものを使ってください。
24cmテフロン加工のフライパン
ボウルが一応2つくらい
卵を漉すためのざる
菜箸
ゴムベラ
濡らした布巾
フォーク
こんなところですかね。
はい、フォークは卵を混ぜるのに使います。箸よりもよく混ざりますし、泡だて器よりもあとで洗うのが楽ですから。
あとは、材料ですね。冷蔵庫の中にL卵が三つと、バター、があるはずで、あとは塩コショウがここにありますね。牛乳は……、まあ、あってもなくてもどっちでもいいです。最近は面倒なので使ってないことの方が多いです。
それじゃあ冷蔵庫の中を確認しましょう。いいですか、何度も言いますが想像をしてみてください。取っ手に手をかけたときの重みから何から、想像してみてください。
冷蔵庫の重さ、内の食材の重さ、それから扉と枠戸をくっつけておいている磁石の引き合う重さを、です。
さて、くッと力を込めて引くと、内の食材のいくつかがコトンと揺れる音がします。次に扉をとどめるマグネットがグゥワと外れて、目に飛び込んでくるのは、一見乱雑に詰め込まれた食材です。しかしその内には、それぞれ固有な実測的生活のリズムがあります。
わかりますか?
そのリズムは冷蔵庫の一番奥の真っ白な照明と、じわりと肌に触れて来るひんやりとした空気に裏打ちされた静謐さと合わさってひとつの光景を作っています。
いうなれば日常の躍動がそのまま冷やされているのです。
どうですか、想像できてきましたか。
大丈夫です、最初は誰でもそんなものだと思います。
続けましょう。
それでは材料を、まずはバターを探しましょう。
さてどこにあったでしょうか。
あ、扉の裏のポケットにありませんか?一番上の段のポケットです。小さいソースとか、チューブのワサビとかがある段の。
ほら食べるラー油の後ろにある黄色い箱です。
どうですか?
よかった!見つかりましたか。あとは、卵ですね。
ありますか?
あ、よかった。ありましたね。卵ポケットにちょうど3つ。
だんだん慣れてきましたね。
それじゃあ卵も取り出しましょう。三つしかないので、慎重にひとつづつやっていきましょう。
ゆっくりと、卵に手を伸ばしてください。ゆっくりと、そのうちひとつに手が触れたなら、そのまま指先を滑らせて、親指、人差し指、中指の三本を卵の中腹あたりに持っていきます。
卵の表面はなでると分かりますが、意外にツルツルじゃなく、少しザラザラしていると思います。
そうして卵をつまめたなら、三本の指でゆっくりと上に持ち上げて、それを身体の方に引き寄せます、そうしたら最後に手首を返して、手のひらの上にポトンと卵を落とします。
オムレツに使う卵は通常よりサイズが大きいので、割にずっしりとした感触があるはずです。
ありがとうございます。
これで一つ目の卵が取れました。この調子で残りの二つもお願いします。
さて、そうです。手を伸ばして、触れたなら指先で、表面をなでて卵の腹に引っ掛ける。ゆっくり持ち上げて、身体の方に引いて、手首を返してポトン。ずっしり。
ありがとうございます。これで二つ目です。
このまま最後の一つも、
ん、どうしたんですか?疲れたんですか。
頑張ってください。
あと一つですよ。
ここ頑張らないと、この先持ちませんよ。
ゆっくりと。
ゆっくりとでいいですから手を伸ばしてください。
もちろん想像をして、です。
あぁあ、そんなにぎゅうっと目を瞑らなくても大丈夫ですよ。リラックスをしてください。ゆっくりでいいですから。ゆっくりで。
さて、
ぐぐぐっと手を伸ばして、指先がそっと卵に触れたら優しくなぞって……。
しっくりくる場所、見つかりましたか?
見つかりましたね。
そうしたらさっきと同じように持ち上げて、またゆっくりと身体に引き寄せる。
そうして、手首を返して、
手のひらに落とす……。
その前に、ひとつ言い忘れてたことがあります。
実はその最後の卵、
一切の重さが消失しています。
***
「■■■!!!■■゛■■■゛■■■■゛!!!!!!」
突然、どすの利いた怒鳴り声が聞こえて、巡査と青年は同時に目を開けた。
「お巡りさん、いまのは……。」
「あぁ、大丈夫だろ、多分。」
巡査は関わりのないそぶりをした。
「そんなことよりもさ、さっきの話だ。うん、なんていうか、よく意味が分かんなかったぜ。なんだって?重さが、消失しているだって?」
「つまりは、空っぽだったんですね。」
「……空っぽ。」
「不思議ですよね。」
「そりぁ、確かに不思議だけども……。だからと言って、たったそれだけのことで。」
「……それだけ?」
「中身がからの卵。うん、確かに特殊だね。俺はそんな卵見たことも聞いたこともないからね。……ただ、中身がない、ただそれだけともいえる。そんなもの不思議だったね、の一言で片付くことじゃないのか?僕が聞きたかったのは、君がいったい……いったいどうして……。」
「どうして人に投げつけることになるのかわからない。ですよね。仮にどんなにか想像を膨らますことができたとしても、結局は想像ですから限界があります。お巡りさんは、さっきまでの話を聞いてみて、試してみて、率直にどう思われましたか?」
「……うん。正直に言うと、そうだな。期待をしすぎてしまった。というか、なんだか拍子抜けしてしまったというか……。いや、まぁわからなくはなかったけれど、ごめん、うん。まぁ、そんな感じかな。」
「そうですよね。僕も話し始めた最初のうちは、本気で想像さえすれば、きっと僕と同じような体験ができるんじゃないかと思っていたんですけれど……。すぐに、ちょっとこれは厳しそうだぞ、と思いました。」
「あぁ、やっぱ君もそうだったんだ。」
「だから、途中からやり方を変えました。」
「どう変えたの?」
「過剰にもったいぶって話しました。」
「なんで?」
「お巡りさんをがっかりさせようと思ったからです。」
「……。なんで?」
「それはですね……」
それは、僕を打ちのめした正体のうちのひとつが、それだからです。
それというのは、いうなれば、当然起こるべきことが起きなかった時に、行き場をなくした感情。とでも言いましょうか。
僕はお巡りさんに、必要以上に期待をさせるような言い方をしました。
お巡りさんも必然、衝撃的なこと、そうでなくともなにか大それたことを予期したと思います。だからお巡りさんも、不審がってはいたものの、たくさん想像力を働かせて、僕に寄り添ってくれた。きっとそうだと思います。最後には、それに見合うだけの驚きや、衝撃があると思っていたからこそです。
それなのにどうでしょう、実際に聞かされたのは!
中身のないオチ、期待だけが空回り。どんなに考察しても、深読みしても地に足つかずに上滑り。とんだ拍子抜けだったと思います。でもそれでいいのです。今回に限り、それがいいのです。
今日、僕に起こった感情も、多少種類の違う肩透かしではありますが、感情の発信源はきっと同じなのですから。
また別の例えを出すなら、
僕が小学生くらいの頃に、こんな錯覚で遊んでいたことがあります。
こう、机の上に手を出して、右手と左手のちょうど真ん中くらいの場所に鏡を垂直に立てます。そして鏡の方を覗き込みながら、右手と左手をちょうど鏡写しみたいに動かすんです。右手を左に動かすんなら、左手は右に動かす、といった具合にです。
そうしていくうちに、鏡写った自分の手と、鏡を隔てて向こうにある本当の自分の手との境がわからなくなってきます。
そうなった状態で、あらかじめ鏡のこちら側、つまり鏡に映る側においてあったなにか軽い物、ティッシュなんかがちょうどいいですが、をさっきと同じように両手を動かしつつひょいと摘まみ上げてみるんです。
すると、鏡に映る手と、鏡の向こうにある何も触っていない手とを錯覚した脳が、両の手がそれぞれティッシュをつまんでいると勘違いをするんです。
さらに、勘違いをした脳は、ティッシュの触れている感触だけを鏡の向こう側の手に送るのです。
実際には何にも触れていないので、重さとか反発とかは感じずに、ただ感触だけがある。
このムズムズした感じ。ふわっと内臓が浮くような違和感。
そんなような感覚に近いものがあるかもしれません。
でも、明らかに違うのは、からの卵には道理がないのです。
その卵の真に特殊なところは、ただ空っぽであることではなく、何の意味もなく空っぽなところです。鏡の錯覚には、自分の脳ミソを騙してやろうという意思があり、そして実際まんまと騙される快感のようなものがありました。
それなのに、卵には、何の目的もなく、そして何の前触れもない。
そしてそれこそがもうひとつの正体です。
僕はそれを理不尽だと思いました。それが言葉の意味として本当に正しいのかどうかは分かりません。でもあの時僕はそんな得体のしれないなにかに打ちのめされたのです。確かに、僕は打ちのめされました。
僕はからの卵を持ったあの時、頭で理解するよりも速く、ひじの先の方からピンッとしびれる感じがしました。そのしびれはあっという間に全身に広がっていって、足の先までしびれてしまって、僕はその場にがくがくと座り込んでしまいました。指先の力も抜けてしまって、うっかりその卵を手から落としてしまったのですが、中身のない卵はふらふらと力なく落っこちて、ピンポン玉みたいにこつんとはねて、不規則によろよろ転がりました。卵が完全に静止した後も、僕はしばらく動けずに、ヒビひとつさえ入っていない卵をじっと見つめていました。
最初にあったのは、ただ驚きでした。それから次第に理解が追い付いてきて、それでもまだ理解を拒むなにかと理性が戦っているあいだ、絶えず心臓がバクバクとなっていました。それは何かに焦っているようでもありました。
やがてその得体のしれないなにかが、一所懸命持ちこたえていた理性を完膚なきまでに叩きのめした時。
すっ転がっている卵が、まだ卵の形を保っているという事実だけが僕の前に残った時。
僕は、全然、理由は分からないんですが……。
僕は、なんだか笑いが込み上げてきたんです。腹の奥底から湧き上がってくるようなどうしようもない笑いが。とどめようにも、とどめるための理性なんてもう残っていませんから、だから僕は、その場でうずくまってゲラゲラと、ただただゲラゲラと笑ってしまったのでした。
本当になんで笑ったのか、覚えていないです。得体のしれないなにかの正体は、その場にいる人でないとわからないんです。
しばらく笑い続けて、ようやく収まってきた時、僕の火照った体は今までに感じたことのない孤独を味わっていました。
とにかく、誰でもいいから、誰とでも分け合ってみたい。そんな感覚がそれからの僕を動かしていました。
…………。
***
青年が事の顛末を話し終えて(それらの多くのことは巡査の理解の範疇を超えていたので、そのたびにつまずいた巡査が何度も繰り返して、)ようやく話し終えて外に出たのは午後六時を過ぎたころだった。
外はまだ明るかったが少し風がでていて、夏が終わりに向かっていくような涼しさがあった。
「まだまだきっと、暑い日はつづきますよ。夏はこれから粘って粘って、それからある時急にパタンと終わるんです。」
青年のつぶやきをぼんやりと聞いていながら、巡査の気持ちはどこか遠くにあった。
巡査と青年の二人が応接室を出たとき、婦警と初老の男の方は既に話しを終えていたらしかった。お互いに打ち解けた様子でなにか談笑をしていた。男はなんだかしゅんとした表情で座っていて、先刻、交番で怒鳴っていた時より小さくなっているように見えた。
応接室から出た巡査を見ると男は、さっと姿勢を正して。
「先ほどは、大変失礼いたしました。」と謝罪した。
「いえいえ、こちらこそ無礼な態度、すみませんでした。」
巡査はそういって笑い、男もつられて微笑んだ。
今度は青年が男に駆け寄っていって。
「僕は……、本当にひどいことをしてしまいました。弁償でも何でもします。本当にすみませんでした。」と、ぺこりと頭を下げた。
「俺も、あんたに怪我させておいて、弁償なんて言えんがの。俺の方こそ、すみませんでした。」
「なら……、」
青年はもう一歩男に寄って、ちょっとはにかみながら手を差し出した。
男は驚いたけれども、照れくさそうに握手した。
それから諸々の手続きを済ませて帰り際、男はその場の全員に会釈してそのまま駅の方へと向かっていった。
巡査と青年はその影をしばらく見送った。婦警は忙しそうに書類に目を通している。
「はいはい、仲直りも、手続きも済んでるんだから、ボクもさっさと帰ったら?」
しびれを切らした婦警が不機嫌そうに言った。
すかさず巡査が、
「家、この辺にあんだろ?途中まで送っていくよ」
といって青年と一緒に交番から出た。
傾いた日差しに照らされて二人は並んで商店街を歩いている。
「そうかぁ。夏は、ある時急に終わるかぁ。」巡査はうわの空で答えた。
「はい。何の前触れもなく終わりますよ。」
「確かになぁ。じゃあさ、季節が終わっていくのだって理不尽て言えるか?」
「んん……、それは、どうでしょうか。季節が変わること自体は前もってわかっちゃってますからね。ちょっと違うんじゃないですか?」
「そうかぁ……。」
また一陣の風が巡査を追い越した。その風は、歩く二人の背中のすぐ後ろから吹いてくるような気がした。
「……なぁ。」
「はい?」
「これは全然関係のない事なんだが、」
「なんですか?」
「君はさ、これからどうするつもりなんだい?」
「えぇと、何がですか?」
「この先の、人生?のこと。」
「ああ……。そうですね……とりあえず、大学はやめようかと思ってます。」
「……へぇ。そうかい。そんで?そのあとは?」
「それは……、そうですね。」
青年はちょっと考えてから答えた。
「YouTuberになろかなと思います。」
「…………そう、頑張れよ。」
それからはお互いに口を開かず、並んで歩いた。
「あ、ここらへんで大丈夫です。今日は本当にご迷惑をおかけしました。」
「あぁ、いや、全然。それじゃ、気を付けて。」
青年は家に帰り、巡査はそのままくるりと来た道をまっすぐ戻った。
からの卵は、今もどこかで飛んでいる。
から 阿寒 兵衛太郎 @bass_sakaguchi
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