第2話
項垂れていた三人の頭上で非常ボタンが光った。和奏はパネルに注目する。ボタンは点滅し、スピーカーから切れ切れにノイズが聞こえてくる。
―ガガガ、ザーザー
音域を調整するようにノイズは不安定に大きくなったり小さくなったりする。久しぶりに聞いたため息以外の音に、状況を打破できるのでは、と三人は期待を抱く。
しかし、ノイズは乱れたまま、まるで壊れたラジオのようだ。そのうち音が途切れるのではないか、そう思ったとき。
「大丈夫ですか」
ノイズ混じりに聞こえてきたのは、間延びした男の声だ。とりあえず外部と連絡が取れたことに安堵する。
「助けてください。エレベーターに閉じ込められて、子供もいます」
和奏が緊迫した声で訴える。
「わかりました、大丈夫ですよ」
「どのくらい待てば良いですか」
智志が男の声に被せるように尋ねる。こういうときに大丈夫だ、と落ち着かせてくれるのは常套手段なのだろうが、早く解決の道筋を教えて欲しかった。
「お答えできません」
スピーカーの男は困った調子で言う。やけに事務的な返答に、三人は顔を見合わせた。
しばしの沈黙。
「狭いエレベーターの中でただ待つのは気が滅入るでしょう。時間もたっぷりあることだし、話でもしましょう」
スピーカーから響く声の呑気な調子に、和奏は怪訝な表情を浮かべる。智志も同じ気持ちらしく、同じ顔をしていた。陸人はエレベーターの壁に背中をつけてしゃがみ込む。
「同じクラスに本が好きな女の子がいました。その子は休み時間も放課後も、いつも本を読んでいました」
まるで昔話を語るように、男は語り始める。
「ある日、やんちゃな男の子が女の子の本を取り上げました。ほんのいたずら心です。彼はその子が好きだったのかもしれません」
一体何の話なのだろう、和奏は苛立ちを覚える。
「こんな話が一体何の気晴らしになるんだ」
智志は疑問に首を傾げる。そんなことよりも外界の状況を教えて欲しい。
陸人は先程から黙り込んで俯いている。
「女の子は返して、とお願いしました。でも、男の子はとうとう本を返してくれませんでした。そして、女の子は転校していきました」
スピーカーから流れる声は妙に芝居がかっている。管理会社は緊急時にこんな対応を指導しているのだろうか、和奏はここから出られたら苦情を言ってやろうと決めた。
「森田
陸人が膝を抱えたまま、唇を噛み締めて顔を上げた。
「明里は三年生のクラスで一緒だった。ぼくは気を引こうとして、意地悪したんだ」
和奏と智志は言葉を失って陸人を見つめる。
「管理会社の人が何で君のことを知ってるの、そんなわけないじゃない」
和奏はしゃがみこんで陸人と向き合う。
スピーカーの向こうの人間が気張らしで始めた小話がたまたま陸人の体験と合致したのだろう。何もこんなときにさらに気の滅入る話をしなくても良いだろうに。
「明里は翌日学校に来なかった。次の日も、次の日も。夏休みが終わって、先生から転校したんだって聞いた」
ガタン、と匣が揺れてエレベーターが動き始めた。
「直ったんだ」
智志は声を上げる。しかし、パネルの階数ボタンはランダムに点滅している。
「一体どういうこと」
急激な浮揚感に耐えきれず、和奏は壁に寄りかかる。
チン、と音がしてエレベーターは停止した。扉が開くと、その先は蝉の声が鳴り止まない真夏の教室だった。教室独特の子供たちの生活感のある匂いと、夏の熱気が匣の中まで漂ってくる。
「そんな、ありえない」
智志は扉の向こうに広がる光景に目を疑う。まるで白昼夢でも見ているようだ。しかし、窓の外に並ぶ木立の緑までもくっきり見えた。
並んだ机のひとつに小柄な女の子が座っていた。彼女は足をぶらぶらさせながら本を読んでいる。
「明里」
陸人が呟く。和奏と智志は呆然と女の子を見つめる。彼女が陸人が意地悪をして本を取り上げた少女、明里なのか。
「陸人くん、君だけがここで降りられるよ」
スピーカーから間延びした声が響く。なぜ偶然閉じ込められただけの少年の名前を管理会社の人間が知っているのだろう。
「なぜエレベーターがこんな場所に到着するんですか、それになぜこの子の名前を知っているんですか」
和奏と同じ疑問を抱いた智志がスピーカーに問いかける。
「落ち着いて、あなたたちにもそれぞれの行き先にご案内しますよ」
「私たちはとにかく部屋に帰りたいのよ」
和奏は悲痛な声で訴える。扉の向こうの世界では蝉時雨が鳴り止まない。
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