11話 モノクローム
楽しい週末がやってきた。
休日、俺は存分に羽を伸ばすことにしている。平日の社会的な生活で消耗した精神力を癒やすために、ぞんぶんになまけることにしている。
俺の休日の過ごし方は決まっている。日中は家事をしたり、ばあちゃんのかわりに買い物をしたり、なにもせずに縁側で転がったりする。
また、土日のどちらかは、翠の家に様子を見に行く。あるいはひとりで黙々とルシオンをプレイしたり、動画サイトで他人のプレイ動画を見たりしている。
そして土日のどちらかの夜は、ルシオンの配信をするのが決まりだった。
いつものお決まりのルーチン。
高校に入ってから、ほとんど崩れることのなかった習慣。
ただし、この休日はどれも満足にできなかった。
俺は、あたかも屍のように、ただベッドに横たわっていた。からだは休めているが、ソーシャル・バッテリーが充電されていく感覚はなかった。
俺はベッドから降りると、パソコンのスリープモードを解除した。ブラウザを開いて、配信サイトにアクセスする。
最後の配信は、三日前だと表示されていた。
俺の配信の常連は二十人ほどだ。俺が土日の夜のいずれかに配信するのはお決まりだから、昨晩なかったということは、今夜あるに違いないと考えているはずだ。
もしかすれば、何人かはすでにパソコンの前で待機してくれているかもしれない。
そのなかには、lili-love-77さんもいるかもしれない。
いや、あるいはもう、彼女は見てくれることもないのかもしれない……。
ほかにだれも反応してくれないときも、lili-love-77さんだけは毎回、俺のプレイにたくさんのコメントを送ってくれていた。
だというのに、俺は……。
そう思うと、俺はどうしても配信開始のボタンを押すことができなかった。かわりにルシオンだけ起動して、ひとりで黙々とプレイした。
プレイ内容は、散々だった。
偉いひと曰く、時間がすべてを解決してくれるものらしい。
あまり自分の実体験はないが、きっとそうなのだろうと俺は思う。べつにこんなこと、長い人生で考えたら、なんでもないようなことなのだ。
なんとかの考え休むに似たり。俺がうんうんと頭を唸らせてもいいことなどなにもない。だから俺はあまり考えないようにして、土日をただひたすらに浪費した。
すると、当然のことながら月曜日がやってくる。
俺は、よくアイロンをかけた制服を着ると、バッグに物を詰めてから、最後にめがねをかけて部屋を出た。
リビングの机から五百円玉を手に取る。ばあちゃんが置いてくれている昼飯代だ。
「かっとばせよ 孫 いい感じにな」
そんなメモ書きも置いてあった。いつもどおりの謎メッセージだ。
昨日ワックスで磨いておいた革靴を履いて、俺は家を出た。
夏のもんわりとした熱気と、やけにさわやかな早朝の光を全身に浴びながら、学校に向かう。
普段となにも変わらないはずの光景だが、俺はどこか、違和感を覚えている。
徒歩でおよそ十分。早朝の学校に着くと、俺はまず、いつものようにメディア棟に向かった。メディア棟は、授業には使われない建物だ。
早朝はほとんどひとがいない。とくに三階は朝だれかと遭遇するほうがむずかしいというくらいで、ここのトイレが、俺の穴場だった。
なぜ、教室に入る前にトイレに向かうのか。
その理由は、明確だ。
俺はここで、委員長になる。
家にひとりでいるときは、俺は委員長じゃなくていい。だからルシオンをプレイできるし、ぐうたらと寝転がって菓子を食うこともできる。
だが、学校ではべつだ。ここでは、俺は堅物でまじめなクラス委員長だ。それ以上でもそれ以下でもない、ただ委員長としか言いようのない存在となる。
いうならば精神の変身だ。放課後また家に帰るまで、俺は委員長にならなくてはならない。
そのために、俺は鏡を覗く。
いつものように、そこには黒縁めがねと短髪の男が立っている。
「……いけるか?」
俺は自分にそうたしかめた。もちろん、いつも声に出しての返答はない。
それでも、いけるかどうかはわかる。
その結果――俺は固まった。
――いけない。
そう、鏡のなかの俺が答えていた。
きょうの俺は、いつものように行動できない。
イヨちゃん先生のところに行って、仕事がないか聞くことができない。教室で自習することができない。朝礼の声を上げることができない。
背筋を伸ばして授業を聞き、あますことなくノートを取ることができない。宿題をやっていないクラスメイトのために手伝ってやることができない。
話しかけられたときに委員長の模範解答ができない。掃除当番に混ざって掃除することができない。
つまり、俺は……委員長でいられない。こんなことは、初めてだった。
俺のなかで、加速度的に焦りが積りゆく。
……どうすればいい? 委員長でない俺は、人前に立つことができない。
すでに登校しているはずなのに、俺はまだ登校できていない。
「ハァ……ハァッ」
どれくらい長く、その場にいたのだろう。気づけば、俺はなんども荒い呼吸を繰り返していた。まるで過呼吸になったかのようだ。
震える手でスマホを確認する。まずい。いつもだったら、とっくにイヨちゃん先生に朝の挨拶に行っている時間だ。
ふいに、トイレの扉が開いた。
入ってきたのは、用務員のおじさんだった。
彼は、洗面台の前で滝のような汗を流している俺を見ると、驚いた表情になった。
俺は――俺は、いったいどんな険しい表情をしていたのだろう。
「き、きみ。具合が悪そうだけど、大丈夫かい」
「あ、う……あ」
俺の口から出たのは、言葉ではなく、ただのうめき声だった。
親切にも心配してくれたおじさんを押しのけて、俺は走ってトイレを出た。階段を落ちるように駆け降りると、来た道を引き返して、校門まで戻った。
一瞬の迷いがあったが、俺は学校を出た。
委員長になれていないのに教室に入るなど、できるわけがなかった。
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