第2話 誰にも知られず

 ――あの戦場から数年後のこと。


 刑事である松岡宗次まつおかそうじは、赤野周作との待ち合わせ場所である駅前の広場を、目指して歩いていた。


 平日の真っ昼間。買い物客や観光客でそれなりに混雑した歩行者用のデッキから広場を見下ろせば、ベンチに座ってスマホをいじりながら待つ周作の姿が見える。

 広場の隅に座ってできるだけ目立たないようにしているのだろうが、チラチラと広場に居る人の目線が、周作に集まっている。


 周作の淡い髪色、白い肌、吸い込まれそうな緑の瞳は、日本人ではない父親譲り。そして、日本人の母親からは、華奢な体躯とキメの細かい肌。

 一見しただけでは、どこの国の人間なのかも、男か女かも分からない容姿の周作は、どこか浮世離れした美しさを持っていた。

 周作は、松岡に、幼い頃からその容姿で人目を引いてしまい大変だったのだと言っていた。

 「特に、僕に寄ってくる連中は、変態が多くってね」。なんて、苦笑いする周作を気の毒に思うと同時に、自分もその変態に分類されてしまいそうだと、松岡は自分の心の内を見透かされたようでドキリとした。


 松岡の目からすれば羨ましいくらいに可愛い女性二人組に話しかけられているが、周作はスマホから顔をあげようともしない。耳にイヤフォンもつけているようだ。

 興味ないことを全身でアピールしているのに、よほど自分達に自信があるのか、女性たちは一歩も引かない。

 一人が、周作のイヤフォンに手を伸ばすが、周作は、スッと右手を出して目線も挙げずに周作は制止する。

 さすがに周作の態度になす術もなく女の子たちは、諦めて帰ってしまった。


 女の子が帰ってから次に周作の隣に座ったのは、ロン毛のイケメンだった。女の子が相手にされないのを見て、周作を女だと判断したのだろう。 

 どうするのかと見守っていれば、男が周作の腰に手を回してくる。男がニヤリと笑ってる。

 男は触って気づいたのだろう。自分の勘が正しかったのだと。

 周作は、女だ。

 本名は赤野周あかのあまねだが、周作は、女の自分を隠して生きているのだ。名前まで『周作』という男名に変えて。

 厄介な男に子どもの頃から執着されている……ということは聞いているから、その男から女性としての自分を隠すための偽名なのだと松岡は理解していたが、いつか本名に戻して男装を解く気があるのかは、松岡は知らない。


 周作は、やはりスマホから目を上げることもなく、男の手をひねって、木の葉でも払うように簡単に男の手を引きはがす。関節の動きを知っているからできる技。あまりに簡単にはがされて、男が驚いている。


 この辺りが限界だろう。

 怪我人が出る前に助け舟を出すか。


「周作!」


 広場に着いた松岡が小声で声を掛ければ、弾かれたように周作が前を見て、花の咲いたような笑顔を見せる。

 この大きさの声が聞こえたということは、イヤフォンはナンパ避けのダミーだったのだろう。ピョンとはずんで、周作が抱きついてきた。松岡が来て嬉しかったのだろうか。いやに行動が大きい。

 広場中から、なんであんなムサイ男にとか、おっさんだ……とか、無言の感想が聞こえてくるような気がする。松岡だってそう思うが、事実、周作は松岡に気を許している。


 松岡と周作の関係は、ただの同期。署は違うが、合同研修の際に仲良くなった。他と話したがらない周作は、研修中に松岡にだけ懐いて友達になった。人見知りで友達の少ない周作が、気を許せる相手は、家族以外では、周作の幼馴染の木根元子と同期の松岡くらいだろうと、松岡は思う。


「遅かったね。どうしたの?」


 抱きついたまま、周作が松岡に拗ねてみせる。いやに可愛い。周作らしくない態度。

 松岡としては引き剥がすには惜しい、嬉しい状況ではあるが、どうもそうは言ってられない。

 どうやら、周作は、今からの捜査のためにナンパ男を手っ取り早く諦めさせようとしている。

 確かに付いて来られても困るし、捜査の前に刑事と素性がバレるのも面倒だ。周作の行動から推察したところ、この大げさなリアクションと可愛い態度は恋人設定のつもりなのだろう。


 恐らく、今から向かう現場に合わせての行動。あの現場に入っても違和感のない関係の二人として自分達を演出している。

 万一、この広場に居る人間に現場に入るところを見咎められても不自然で無い様に、咄嗟に周作が考えた設定なのだろう。


 細かいことは何の打ち合わせもしていないのに、よく機転が利く奴だと松岡は感心する。松岡は、この周作の対応力を見込んで、今回の協力を依頼した。


 松岡がちらりとナンパ男を見れば、まだこちらをうかがっている。「周作」と声を掛けたのだから、男だと思って諦めてくれないだろうか。


「ごめんな。予定が長引いて」


 松岡は、ドキリとする心を抑えて周作を抱き返す。

 柔らかい抱き心地。

 この美人の体が、女性なのだということを、思い出させる。


 もったいねぇ。あたら美人がよ。


 おおよそ、何もかもが「普通」と称されることの多い松岡には、怪しいヤツに狙われているとはいえ、こんなに美女がどうして男などになる選択肢を選んだのかは分からなかったが、本人が男として生きると言っている以上、それを覆すことは出来ないし、友人としては男同士として接してやりたい。

 そう思ってとっくの昔に心の底に隠した想いは、時々浮かんでは消える。


 ナンパ男は、まだ疑っているようで、こちらを睨んでいる。そりゃそうだ。人目を引く周作と俺では、不釣り合いだと疑っているのだろうと、松岡は判断する。

 ひょっとしたら、「周作」という名前で呼んでしまったのも悪かったか。

 あの時のナンパ男の様子からして、周作が女であることはバレているはずだ。それなのに、男の名前。そして、ムサイおっさんと仲良くしている。

 真実は何かを、あのナンパ男なりの好奇心で見極めようかと思っているのかもしれない。


「周作」


 松岡が呼べば、少しだけ松岡より背の低い周作が上を見る。上を見たところに、軽く額に触れるような優しいキスを落としてやれば、周作が目を丸くする。白い肌が、みるみる桜色に染まってくる。


 周作の指が、松岡の胸の上に殴り書きで小さく『やりすぎ』と書けば、松岡は周作の背中に『まだ疑っている』と書く。

 状況を理解した周作は大人しく松岡の腕の中で松岡のシャツにしがみついている。


 周作は、松岡の腕の中で小刻みにフルフルと震えだす。周作のことだから笑い出してしまいそうなのを堪えているというところだろうか。

 松岡がチラリとナンパ男のいた方を見る。男は、あまりのバカップルな様子に諦めたようでどこかに行ってしまっていた。


「良かった。諦めたようだぞ、ハニー」


 おどけて松岡が小さな声で周作に囁く。二人は、ナンパ男が離れたのを確認して抱き合うのを止めて身を離す。


「やばいよ。笑い出すところだった。何でもやり過ぎは良くないね」


 周作がケラケラ笑い出す。ひとしきり笑って、ハアッと大きく息をする。


 今回は、松岡が周作に依頼して呼び出した。松岡の関わっている捜査の協力を、松岡が周作に頼んだ。捜査目的は、ラブホテルの一室に隠されているはずの拳銃を探し出すこと。


 とある小さなラブホテルが違法拳銃の取引に使われているという情報があった。

 情報源は確かで、実際に執り行われている可能性は高いが、証拠は全くない。だから、証拠を探すべく男女の捜査員がペアになって、ラブホテルの部屋に潜入し虱潰しに捜査しているが、まだ何も見つかっていない。見つからなければ、証拠は何もないから捜査令状もとれない。あまり同じ人間では怪しまれるだろうと、人を変えて捜査している。


 松岡がパートナーに選んだのが、周作だった。他の県警に勤めているとはいえ周作は刑事だし、こんなに臨機応変に対応できる人間を松岡は他に知らない。周作ならば、証拠が見つからなくても、何か糸口がつかめるかもしれないという思いからであった。


 ラブホテルへの侵入。だから、周作には、普段よりも中性的な服装でと依頼した。相手はいつどこで見ているか分からないから、なるべく自然なカップルのふりをしたい。


 とりあえずは、狙い通り特に疑われることもなく目的の部屋には侵入できた。

 シャワー室のついたピンクがかった照明の部屋。鏡張りの壁の前に大きめのベッドが備え付けられている。ベッドわきの冷蔵庫の上には、避妊具やティッシュが備え付けられ、大きめのテレビを操作するためのリモコンも置かれている。


 早速、松岡も周作も探索を始めるが、突然、周作が甘い声を上げ始める。


「ああっ! やだ。そんなに、がっつかないでよ」


 色っぽいセリフな割に棒読みな周作の言い回し。

 驚いた松岡が周作の方を見れば、手話で『盗聴器を見つけた』と、言ってくる。

 周作が外したコンセントの裏側に黒い四角い物が張り付いているのが見える。

 周作は、まず盗聴器があるだろうと予測して、それらしい場所を探していたのだろう。

 こんな防音の利いた外からは様子が伺いにくい部屋ならば、周作が犯人ならば、当然盗聴器を置いて不審な動きをする者がいないか監視するだろう、と推察の元の行動。

 周作の思惑通り盗聴器は仕掛けられていた。


 盗聴器は外さない。外せば、犯人に捜査していることがバレてしまう。


「がまんできるか。何日会えなかったと思っているんだ」


 松岡も周作に合わせて声だけ演技しながら、捜索を続ける。盗聴器があるならば、この部屋が当たりの可能性が高い。

 客がこの部屋で怪しい動きをしないかを今も見張っていたのだろう。緊張がはしる。


「先に、シャワー浴びたいの……。飲みながら待っていてよ」


 風呂場を捜索しながら、相変わらずの感情のこもらない言い回しで周作がのたまう。

 シャワーの水栓が開いて、水音がする。

 シャワーを浴びているように見せかけるための効果音なのだろう。手元は、排水溝の中から風呂桶の裏まで一心不乱に証拠品を捜索している。


「待てるか。早く来い」


 松岡は、冷蔵庫を開けて、中を探索する。見つからない。ティッシュケースも開けてみるが、はずれだった。アメニティの中も不審な物はなかった。


「来て」


 そう言いながら、水栓を閉めて風呂場から戻って来た周作が、ベッドカバーを引っぺがす。


「やだ、激しい!」


 がさがさと大きくなる探索の音を誤魔化すために、周作がひときわ高く嬌声を上げながら、二重になったマットレスを一枚持ち上げる。


 ――あった。


 黒い銃が丁寧に弾丸もいくつか添えられてマットレスの間に置かれている。松岡がスマホで証拠写真を撮る。

 シャッター音が、部屋に響く。


「写真なんて撮らないでよ。駄目だってば」

「いいだろ? お前の顔、残したいんだよ」


 シャッター音を誤魔化す演技をしながら、外で待機している捜査員に松岡が写真を送り、連絡を取る。


 元に戻したベッドサイドに座り、周作は声の演技を続ける。

 どうでもいいが、かなり棒読み。

 

 周作の意識は捜査に集中しているから、当然と言えば当然なのだが。

 まあ、盗聴器越しの声だ。温泉の質は極めて悪いはずだ。

 バレはしないだろう。

 松岡は、そのまま周作の適当過ぎる演技を注意せずに流す。


 ここで突然声を止めれば、疑われるし、最悪犯人に逃げられてしまう。『犯人の目星は?』演技を続けながら周作が手話で聞けば、『まだ特定はしていない。掃除夫か支配人か。従業員だとは思うんだが』と、松岡も手話で答える。松岡のスマホでは、外の捜査員とのやりとりが続いている。


 『待って、ドアの前で気配がする』


 周作が気づいた。周作に言われて注意を向ければ、微かだが物音が廊下からする。『くそ、犯人か。捕まえたいが、まだ礼状が届かない。できるだけ自然な形で捕まえたい』松岡が焦る。あくまで、自分たちは捜査員ではなくて、ただの巻き込まれた客を装いたい。礼状無しの違法捜査をしたとあっては、後々に支障をきたす。


「ここがいいのか?」

「そこ。いい……」


 演技しながら周作は考える。あげている甘い声とは全く違う険しい顔。『僕らは、ドアの前の人間をなんとか引き留めておこう』『そうだな。引き留める方法を考えよう』

 手話で相談を進める。


「やだ変態」

「うるせえ、俺の好きにさせろ」


 松岡の言葉に、周作が笑いを必死で堪える。『普段、どんなAV観ているんだ』という周作の手話に『うるせえ。お前も似たようなもんだろうが』と松岡が答えた。


 ◇◇◇◇ ◆◇ ◇◇◆◇◆ ◆◇  


 盗聴器から聞こえてくる音に注意しながら廊下から様子を伺っていた清掃員の男は、ふいに音が聞こえなくなったことに訝しんだ。


 やたら綺麗な人が、むさい中年男と入ってきた。不釣り合いな組み合わせ。何かあるかもしれないと思っていたら、例の部屋に入っていった。清掃員は、ゾッとした。


 清掃員は、既婚女性との不倫が原因で、突然今まで働いていた建設会社に解雇を言い渡された。どうしようもなくなっていた時に見つけたのがこの黒い仕事。違法なことをしている自覚はあるが、五十歳を超えた男にこれだけの収入を約束してくれる仕事は、他に見つけられそうになかった。一時的に次の仕事を見つけるまでのつなぎの仕事のつもりで始めたのに、一年以上続けている。

 表向きは、ラブホテルの清掃員。

 清掃の仕事も、キチンとこなし、その傍らで、この拳銃取引の片棒を担いでいる。逮捕されれば、自分の人生は終わる。そう思えばこそ、前職の電気工の経験を生かして、見つけにくいコンセントの裏に盗聴器を取り付けた。

 盗聴器の音から推察すると、普通に男女の客としての行為が始まったようだった。だが、どうしても気になって、見えもしないのに部屋の前に清掃員は来てしまった。もし奴らが警察ならば、護身用のこの銃で始末して、逃げなければならないだろう。清掃員は、ポケットに隠した銃に手をのばす。


 突然、ドアが開いて、中から例の美人が泣きながら飛び出してきた。大きめのシャツだけ羽織ったあられもない姿。ブカブカのシャツの大きさから考えて、相手の男のものなのだろう。慌てて目の前の物を羽織ったということか。


「おじさん、助けて。聞いて!」


 銃に手をのばそうとした腕を美人にがっちりと掴まれて、清掃員は身動き取れなくなった。美人の胸は小さいようで女性特有の柔らかな感触は少ないが、それでも清掃員はギュッと掴まれてドキドキと心臓の鼓動が早くなるのを感じる。


「おお、どっちの言い分が正しいか、このおっさんに判断してもらおうじゃないか」


 ズボンだけはいて上半身裸の男が、部屋から出てきて、清掃員の逃げ道を塞ぐ。

 どうやら、ただのカップルだったようだ。

 行為中の写真を撮られたのだ、変態行為に我慢がならないと美人がさめざめと泣きながら訴える。先ほど盗聴器で聞いた通りの内容だ。


「もう、こんな酷い男とは別れる」

「そんなの、全部お前が好きだからに決まっているじゃないか。だいたい、お前がすぐ他の男に色目を使うから、心配になるんだ」


 二人だけでやってくれと思うような内容の会話が延々と続く。だが、清掃員を二人は離してくれない。清掃員を挟んで、あれこれと言い合いを続けている。逃げようにも、美人がしっかり腕にしがみついているし、男は通路に立ちはだかって通してくれそうにない。


「おっさんはどう思うよ。俺の言い分が正しいだろう?」

「え? 僕でしょ?」


 間近で、美人の涙で濡れた瞳が清掃員を見つめる。ドキドキする。あらわになった白い太ももが艶めかしい。この足を開いて、今の今まで男を受け入れていたのかと思えば、背筋がゾクリとして下腹部が熱くなる。


「ええっと……、同意なく写真を撮るなどの行為は、やはり……」


 もぞもぞと清掃員が意見を述べようとすれば、バタバタと廊下をスーツ姿のいかつい男達が走ってくる。


 ――警察だ。


 そう清掃員が思った時には遅かった。清掃員を取り囲み、扉の開け放たれたままだった例の部屋に、スーツ姿の男達が入っていく。


「発見しました!」


 たちまちベッドのマットの間に隠してあった拳銃を発見されてしまう。コンセントの中の盗聴器も瞬時にみつかる。

 清掃員は取り押さえられて、隠し持っていた銃も取り上げられてしまった。狐につままれたような状況に、清掃員が自らの身に起こった事態を理解する前に、逮捕されて連行されていった。

 気づけば、いつの間にか件のカップルは姿を消していた。


 松岡が気に入っている定食屋で、周作は、夕食を奢ってもらっていた。

 青い古びた暖簾のかかる小さな店。天井近くの台に据え置かれたテレビでは、遠い国の戦争のニュースを淡々と伝えていた。誰も気にかけない遠い国の惨状、ニュースは次の瞬間には芸能人の結婚報告に替わっていた。コメンテーターの笑い声が、店内に響く。

 

 周作の頼んだのは、魚定食。ホッケの干物、白ご飯、みそ汁、たくあん、ほうれん草のお浸し。シンプルだけれども、優しい味がする。残念ながらこの後には車を運転して帰宅しなければならないから、飲酒は出来ないが十分満足だった。


「美味しいね。楽しかったよ。松岡と仕事するのは、いいね。松岡はすごいよ、僕の行動にほとんど何も説明しなくても対応してくれる」


 ホッケをむしりながら、周作が笑う。ホクホクした身が温かく周作の胃に落ちていく。


「そりゃ、何度も一緒に仕事しているから。慣れてもくるさ。……今日は、協力してくれて、ありがとうな」


 松岡は、生姜焼き定食を食べている。甘辛いたれの利いた豚肉がどっしりと胃にたまる。満足感の高い人気の定食。定食屋あるあるで、生姜焼き以外の付け合わせは全て一緒。だが、どれも一品一品心のこもっていて飽きがこない。


「これから、署に帰って取り調べとか?」


 ご飯を口に放りこみながら、周作が松岡に聞く。


「いいや、俺はあくまで証人ポジション。俺が取り調べに入ったら、さすがにばれるだろ。だから、捜査からは表向き外れる」

「そりゃそうか。僕らは、あくまで今回巻き込まれた利用客を装いたいんだっけ」

「助かったよ。あんな捜査、お前にしか頼れない」

「あはは、婦警さん相手だと、あんなのセクハラになっちゃう。ごめんね、松岡の好みのド派手なグラマラス美女でなくって」

「だからそれは、……まあいいや、もう」


 周作は、研修の際に松岡が同期の集まった飲みの席で適当に言ったことをそのまま覚えていて、時々こうやってからかってくる。もう何年も前の話。それから、松岡の好みだって変化しているのだが。


「あ、お前、気をつけろよ」

「何をだよ?」


 松岡に「気をつけろ」と言われて、周作は首をひねる。

 今日のミッションに落ち度は無かったはずだが。


「あのナンパ男」

「え、ああ居たね。そんな奴」

「後一歩俺が遅かったら、投げ飛ばしていろだろう?」

「そりゃ、そうするでしょ? だって、不用意に僕の体に触ってくるのだもの。そのくらい覚悟してもらわないと……」

「ダメだ。ここは日本で、お前は刑事」

「う……」


 松岡の言葉に、周作が不満そうにむくれる。


「いいか? 自分よりも戦闘能力の低い相手を容易く傷つけるのは、良くない。俺たちは、刑事だ」

「良くない……?」


 良くないのか……。

 腑に落ちない表情のまま、周作が松岡の言葉を反芻する。

 父親の仕事を手伝って戦場をウロウロしていた周作。相手を見極める間もなく先手必勝で立ち回っていたはずだ。

 だが、ここは日本。

 そんなことを続けていれば、刑事の周作は、断罪されて下手をすればこの国に居られなくなるだろう。

 それでは、松岡としては困るのだ。


「あれでも結構我慢していたんだけれど。まぁいいや。君がそう言うなら、もう少し我慢してみるよ」


 ヘラリと軽くつくった上っ面だけの笑顔を見せる周作に、一抹の不安は感じるが、仕方ない。


「そうだ。今度僕の手伝いもしてよ。できれば、応援も二人ほど欲しい」

「どうした?」

「弟のフィアンセ……僕の未来の義妹が、あのインテリヤクザに狙われててさ」

「インテリヤクザ……仙石か?」

「そう、嫌になるよね。どうやら僕の正体に完全に気づいたみたいなんだ。せっかく名前まで変えて偽名で生活しているのに、どこでバレるんだか」


 周作は、盛大にため息をついてみせる。


 松岡の勤めている署の管轄に住む赤野優作あかのゆうさくと、その婚約者の青野あおのあおい。

 商才のある青野あおいと一緒に起業したのが、赤野優作と青野あおいの馴れ初めだと聞いている。

 松岡も会ったこともあるが、小柄な可愛らしい女性。大きな目が印象的で、優作はあおいにメロメロだった。


 弟を溺愛している周作は、弟を取られたと散々泣いてグチを言っていたが、そんな周作でさえ納得せざるを得ないほど、あおいは素直で良い子だった。

 弟を泣かせたら許さない! そうあおいに宣言して、優作に周作が叱られていたのは、いつのことだったか。


 その大切な弟の婚約者、あおいをなぜ仙石が狙うのか。


 仙石。表向きは経営コンサルタントを名乗って、業績の悪い店舗や企業に出入りしている。自分の手は汚さずに、取り立ての厳しい真っ黒な闇金を紹介して弱者から搾り取ることをメインの生業にして、さまざまな悪事に関わっているが、なかなか証拠を残さない。だから、警察も黒い男だと分かっているのだが、野放しにしている。


「仙石の奴、お前をずっと狙ってたんじゃなかったか?」

「うん。ずっとね。でも『周作』として生活している分には、結構自由に行動出来ていたんだけれど。今度は、どうも動きがおかしい」

「と、いうと?」

「仙石の手の内にある企業が、弟の会社を調べ、あおいの過去を探っている」

「へぇ……じゃあ、お前に直接手を下すのは諦めて周囲へ手を伸ばし始め……て、また、お前はハッキングしたのか? 違法捜査だと口を酸っぱくして!」

「まあ、そういう些末は今は置いておいて。とにかく、仙石があおいに興味を示しているのは、確かだ。彼女に何をさせるつもりなのかは分からないけれど」


 違法捜査が些末だという意見には異論はあるが、ヤクザに一般人が狙われているならば、警戒をする必要はある。


「僕の住んでいるところからは遠いし、庇いきれなくて。たぶん、仙石は、僕が動けない状況の時に狙おうとするはずだし、今のうちに松岡に協力を要請しようと思って」


 周作が、ニコリと笑う。困っちゃうよねぇ、なんて言いながら、たくあんを口に放り込む。周作の口の中のたくあんが、ポリポリと小気味よい音を立てている。


「分かった。俺も協力してやる」

「助かるよ。何か動きがあったら、連絡するからよろしく」


 そんな話をしていれば、周作の携帯にメールが入る。


「わ、サラだ」

「サラ?」

「そう。知っているでしょ? 僕の傭兵時代の友達」

「あの怖いネェちゃんか。」

「怖くないよ。僕の敬愛する人」

「敬愛ねぇ」


 眼光鋭いサラの姿を思い出して、松岡は身震いする。「お前がシュウを泣かせるようなことがあったら、1秒後には命は諦めろ」そう凄まれたのはいつのことだったか。

 現在は、傭兵は引退してドバイ辺りで金持ち相手に不動産の仕事をしていると聞いた。


「『気をつけろ。面倒な奴が動き出した』だって、何なんだろうね、全く!」


 物騒な文面のメールを眺めながら、ズズズッと、のん気に周作は食後のお茶をすすっていた。


「あ? 面倒な奴?」

「さあ……誰だろうね」


 フフッと周作は軽く笑っていた。

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