第14話 間違いがあってからでは、遅すぎるのです。
演奏の余韻が、春風に攫われながら、何処にか消え去る。額に滲む汗が耳の脇を伝う頃、観客席から盛大な拍手がわき上がった。
周囲の熱気にたじろぎつつも、わたしは竪琴を抱えたまま席を立つ。重大な局面を乗り切れた達成感から、涙がとめどなくあふれる。
楽長の挨拶も終わり、他の楽士らとともに、わたしは持ち場を離れた。
取り巻きのご婦人方に傅かれて、カタリナは談笑の輪の中で相槌を打たれている。麗俐な眼差しを伺う限り、わたしたちへの興味を、示しているようには見えなかった。
「今度、当家の夜会で演奏を依頼しようかね」
「まあ、王家の許可が必要ですわよ」
うん……? わたしもローザも今日限りで、奏者のお役目は御免こうむる予定よ。淑女方の拍手も途切れがちな中庭を抜けて、やっとの思いで回廊の内側に踏み込んだ。
今のところ、由々しき事態に発展しそうな気配は感じられない。とにかく、着替えを終えたら、人目につかぬように、ここから去らなければ!
疲労困ぱいの足を引きずりながら、階を一つずつ上る。二階の突き当たりの手前。小さなイコンが並ぶ壁の手前で、わたしたちは歩みを止めた。
「お帰りなさいませ」
敬礼と同時に、護衛の兵士の挨拶を受ける。草木の浮き彫りが施された扉を、彼らが開け放った。
「あらあら、よいご身分ですこと」
ローザったら、もう、一言余計なんだから。
上着を脱いだ出立ちで、
「どうした? お前の好きな、焼きサーモンのサンドリッジだ」
長椅子でくつろぐ兄が、呑気なセリフを吐いた。
兄の素っ頓狂極まりない態度に、わたしとローザは顔を見合わせる。
「野菜の酢漬け入りかしら?」
「そうだが、エメルの好物。ウズラのゆで卵は入っていないぞ」
「お兄さまっ!」
二人とも、そんな風にからかわないで。
「ほら、こっちへ来るんだ」
「わかりました。エメルも参りますわよ!」
「ええ……」
お腹は空いていない訳ない。一つだけでもと、兄に勧められたけど、食べたい気分にはなれなかった。
「ジャム入りのハーブティーにございます」
「助かるわ」
窓辺の椅子に座るわたしの元に、カップが届けられた。
ジブリールさまは、秘策を練ったとおっしゃったけど、わたしもローザも教えてもらえていない。
慎重な質のカタリナさまに、ゆさぶりをかけるって難しそうな。
「ねえ、ローザ。ヴィルヘルムさまのお隣の紳士はどなた?」
例の手鏡の効力が消えたため、庭先で何を話しているかまではわからない。
切れ者で名高いヴィルヘルムさまと、対等に語らうことが出来ているとなると、相応の身分にあるはず。
「アジュール公爵家子息のシモンさまよ」
「二大公爵家の?」
アジュール公爵家の後継者は、ロンヴァルディア帝国への留学経験があったはず。
「ヴィルにオクシタニア語を教えたの、確か、シモンさまだと聞きおよんでいるわ」
隣国からいらしたばかりで、流暢にお話なさるとは思ったけど、そのような経緯があったのね。
ローザの説明に耳を傾けていたら、
「それと、カタリナさまとは幼なじみだな」
兄が情報を捕捉する。
「エメル。お前の前婚約者だが、アジュール公爵の甥だったな……」
ハンスの父君は、ニエル侯爵家に婿入したのだと、戸籍法を学ぶ過程で教わった記憶がある。
「エメル?」
兄の叫び声が、淀みながら遠ざかる。次の瞬間、わたしの意識が漆黒の渦と同化した。
「わたし……」
あれ? か……体が浮いている!
しかも、どこぞのタウンハウスと思しき廊下を、メイドたちがわたしの体をすり抜けて、別室へと去って行く。
とりあえず、メイドたちが向かう場所に行くしかないわよね。
『おめでとうございます』
『ありがとう』
なんだか、場違いな場地に来てしまったみたい。本当に、ここはどこなの?
『二人の門出を祝して!』
祝福の音頭を取る、老紳士の視線の先を辿れば、青年と愛らしい令嬢がはにかんでいた。
これ、貴族の婚約披露パーティーだ! だから、あんなにもメイドたちはてんてこ舞いだったのね。
ふと、華やぎに満ちた二人の真横に、わたしの視線が傾く。まるで、この晴れの日を恨んでいるかのように、壁の花も同然の女性が彼らを睨んでいた。
あれは王后陛下? 怨嗟のこもった眼差しに、わたしの背中に冷や汗が伝う。そうなると、あの二人は黄泉の底に沈んだハンスのご両親……。
にわかに轟く雷鳴と、
「あなた、大丈夫なの」
肩をゆさぶるローザの声によって、わたしは現実の世界にまい戻る。
いつの間にか、暗雲の垂れ込める外は、今にも雨が降り出しそうだった。
暗雲の中で閃光と轟音が、交互に不協和音を奏でる。
「お辞め下さいッ!」
ガラスをゆさぶるほどの、カナギリ声が木霊する。
窓の方へにじり寄った先、残酷極まりない光景に我が目を疑った。
「ウソよ! ヴィルっ」
石畳の上で、ヴィルヘルムさまが仰向けになって倒れている。
「狼藉者を捕らえなさい!」
カタリナさまの号令で、衛兵が一斉に駆け出した。
「動くなッ」
彼らは力づくで、一人の青年を捕縛する。
「そんな……」
眼下の囚われ人の出立ちを見て、
「シモンさま?」
わたしはありのままを口にした。
「ローザっ! しっかりしろ」
床に崩れ落ちる寸前で、兄がローザの身を腕に抱き留める。ローザが倒れるなんて……。
わたしは突然の凶事を前に、全く身動きが取れなかった。
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