第7話 生まれて初めて、当家の秘密を知りました。
ポットのそそぎ口から発した、あの微妙に酸っぱい匂い。わたしの勘違いではなかった。
「なかったは、いいのだけど。ここは?」
右から左、全くもってなにも見えない。授業で習う、創世の神話の『常闇』って、こんな感じなのだろうか?
意識を取り戻しても尚、わたしはあてもなく、無音の世界をさまよっている。
どれくらいの間、浮遊したままだったのか、考えることを諦めかけた時だ。
「今度はナニ?」
不意に、体全体が突風にあおられる。よろめきながらも、わたしの体は地上へと降り立った。そう、ゆっくりとね。
「ん……ここは……」
両のまぶたをゆっくり開ければ、視界の先には、青い麦穂のなびく田園が広がっていた。
「楽園にしては、ちょっと平凡すぎない?」
平凡と言うよりも、見覚えのある風景だと認識するべきかな。
ーーゾワッ……。
脚元から吹き上げる、突風のざわめきに身を翻すと、淡いオレンジ色の花が咲き誇っていた。
ここは……そうだ! トマスモア伯爵領にある『希望の丘』に違いない。
『クイーンズカレッジ』に入寮する以前の、兄と遊んだ懐かしい日々が甦る。
「あら、おかしいわね」
春まだ遠い、今の時期だと花は、数輪しか開かないはず。
それに、先ほどから頬をかすめる風も、ほんのりと暖か味をおびているような?
ええと……卒倒してから、もう、春真っ盛りの季節に入ってしまったのかしら……。
散りゆく、アプリコットの花びら見上げていたら、
「エヴァっ! 待てって言っただろう」
背後から声がかかる。
『エヴァ』って誰なの? 率直な疑問から、わたしは後をふり向いた。
「リーったら、本ばっかり読んで、ちっとも遊んでくれないから」
ちょっと、わたしったら、見知らぬ少年を愛称で呼んでいる。
「父上が、誕生日に下さった魔導書なんだよ」
魔導士の見習いらしき出立ちの彼が、息を切らせながらわたしの側にやって来た。
わたしは今、『エヴァ』と言う名の少女の記憶ないし、意識と同化中ってことかしら。
「ほら、これを見てよ」
「えっ?」
風に飛ばされた花びらを掴んだ途端、握り拳が白い輝きを放つ。
「どうだい」
開いた掌の上の花びらは、いつの間にか平たい宝石に変化していた。
「すごいわ」
「だろ?」
懐かしい思い出……ではなくてよ!
これは、『エヴァ』なる少女のも。
なんとなく、聞いたことあるようでないような。
「風が冷たい。館に戻ろう!」
彼が差し出す、別の手を取って。わたしは丘の小径を下ろうと、スカートの裾を手繰り寄せる。
ああ、やっぱり。目の前の少年だけど、ジブリールさまに似ていらっしゃるわ。
ーーでも、待って……。
ジブリールさまは、わたしより十歳も年長なの。幼い頃の彼に会えるとか。絶対、あり得ない……。
ーーザザザッー。
再びの風が、わたしの頬をなでる。
周囲がグワんと歪んで、花も少年の姿も、全て遠くへと押し流される。
次の瞬間だった。
「エスメラルディーナっ」
「お母さま」
ピンと横に広がる緑の天幕。ここは、普段から寝起きする、わたしの寝室だわ。
「お目覚めにございます」
言うよりも早く、侍女長が部屋から出て行った。
「いけない。マシューは……それより、お父さまとお兄さま、大丈夫ですの?」
ぼやぼやしていたらダメ。我が家存続の危機に瀕しているのだから。
「落ちつきなさい。何人たりとも拘束されてはおりません」
「はい?」
母の呆れ顔を見て、己の立場を思い出す。
イヤだわ……国母に立つべき者が、取り乱してはいけない。
あまりの羞恥心から、再び寝具の中にもぐり込む。
「エスメラルディーナ」
威勢よく開かれた扉から、未来の陛下のご登場に、みなが一斉にかしこまる。
「よかった……」
誰もが敬意をあらわにする中で、真っ直ぐこちらに来て下さるの、とてもうれしいのだけど。もう少し、周囲に気を配って差し上げた方が……。
他人のこと、言えた義理ではないとわかっていても、そう思わずにいられない。
「それより、唐突で済まないが、ここを離れる準備を進めてくれないかな。エスメラルディーナ」
「申しますと?」
展開が早すぎてよ! 現実への理解に苦しむわたしを見て、母がため息をつく。
「説明は私が受け持ちますわ」
母曰く、騒動の原因となった代物は、『上水道』からこの館に引き入れる『分水点』で発見されたとか。
「そこに毒を?」
「毒よりタチが悪い」
「えっ?」
なんでも、分水点に配置された浄化石が、禁忌の魔石に置き換えられていたと、ジブリールさまがおっしゃった。
「まさか、あの子を蝕んだ毒が、あなたに害をおよばせる。それだけは阻止しないと」
「あの……」
母もジブリールさまも、思い詰められている。事情を察してか、メイドたちが次々と扉口に向かう。
待ってよ。これから何が起こるの?
「あなたが生まれる前に、我が家には娘が一人いました。セザールの姉です」
「お姉さま? 一番上の? わたしが生まれる前って……」
生まれてから十七年。初めて知る姉の存在に、わたしは言葉を詰まらせる。
「エヴァンジェリーナ……」
ジブリールさまの口から出た名前だけど、あの夢に現れた『エヴァ』と同じ、ってまさか?
「私の幼なじみにして、最初の婚約者だった令嬢だ」
あっ……やっぱり。でも、待て待て待って下さる。
『教授には、亡くなった婚約者がおられていて。その方が忘れられないのだとか……』
あの噂の『お相手』って、わたしの『お姉さま』ってこと? すると、わたしはお姉さまの身代わりなの。
「その……」
わたしが状況を理解出来るように! 誰か、説明して下さらないと! 困るじゃなくってーー!
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