第2話 わたしたちの意に介さない婚約には、裏がありそうな気配です。
シャンデリアの灯の下、絨毯に映える影が幾重にも波打つ。楽譜を胸に抱いているせいで、片手で裾をつまむのも一苦労だ。
嵐の前の静けさ。その言葉を表すように、誰一人として声を上げる気配はない。
衣擦れと靴音だけが木霊する中を、宰相閣下とロザリンド、近衛兵士を挟んで兄とわたしの順番で階を下った。
「あら、そちらなの」
ローザの問いが、ホールからの歓声に呑まれてしまう。大階段を降り切り、案内人が誘う先は、ホールと反対側に伸びる回廊だった。
ええと……これは、どうしたものかしら。
わたしが離宮を訪ねるのは、今回を含めて片手ほどもない。おぼろげな記憶が確かならば、ここを抜けた先は客人専用の控えの間のはず。
「扉を開けたまえ」
「はっ!」
白い扉口を守る兵士らが首を垂れる。
重苦しい音を立てて、開け放たれた部屋は、想像よりも閑散としていた。
「準備が整うまで、そなたたちはここで待機していなさい」
「お父さま?」
閉ざされた扉を前に、わたしたちは呆然と立ち尽くす。何かいけないこと、しでかしたような覚えはないけど……。
颯爽とホールに乗り込んで、暴慢極まりない王太子と、その取り巻きたちを懲らしめる。そうなるのかと思いきや、わたしはローザとともに控えの間に置き去りにされた。
「美味しいところ、持っていくつもりなの?」
出鼻をくじかれて、ローザは頬を膨らませる。
「理由くらい、お話して下さっても……」
あら、客人専用の控えの間にしては、調度類がいささか質素過ぎやしないだろうか?
気のせいだといいのだけど……。
「とにかく、そちらに腰を落ち着けなさって」
「そうね」
互いに顔を見合わせて、ビロード革の椅子に腰掛ける。遠く離れたホールから、お馴染みのワルツが流れた。
「それにしても遅いわ」
ローザの不満の声に応じて、わたしは暖炉脇の柱時計を確認する。
ものの五分も経っていない。『せっかちな』と、口にする訳にもいかず、わたしは手にした楽譜に目を通す。
「演奏もしない楽譜を読んで何が楽しいの」
ローザの詰問はごもっともだけど、あいにく流行りの物語はおろか、詩篇すら持ち合わせていない。
手持ち無沙汰を慰めてあげたくても、こればかりはどうしようもなかった。
「せめて、史書があればいいのに」
顰めっ面のローザの愚痴に、わたしは面を上げる。
改めて周囲を見渡しながら、
「意外にも簡素な部屋ですのね」
ここに入って感じた違和感を、わたしは遠回しに述べた。
「あなたもそう思う? 鏡と女神の肖像画。柱時計とアレね」
ローザの指差す方に小さな暖炉があるものの、頭上の灯よりも微かな炎に肌寒さを覚える。
「まさか、調度類の横流し?」
ローザの鋭い指摘にハッとする。宰相閣下の意がどこにあるのかを、わたしは今更ながら気づいた。
柱時計の長針が天を示す頃、遠くで奏でるワルツが終盤に差しかかる。
「あら、おいでになさったみたい」
「ええ」
待ち人らしき靴音が、こちらへと近づく。
外では、近衛兵士の慇懃な挨拶が続いているみたいな。
しばらくして、開かれた扉口に兄が立っていた。少しばかり、うんざり気味の面持ちでもって。
「パーティーだが、中座で一応の話がついた」
「あら、中止でもよろしいのに」
すくっと立ち上がり、意味あり気にローザが微笑む。
「部外者は、件の男爵令嬢だけだからな。中座でよいそうだ」
『クイーンズカレッジ』は、下級貴族並び豪商の子女の通う予科と、伯爵家以上の令嬢の通う本科と別れている。
『卒業パーティー』への出席は、伯爵家以上の令嬢らに限られている。
にもかかわらず、王太子殿下は婚約者たるローザを放り出して、曰くつきの男爵家の令嬢を同伴させていた。
「お父さまは人の好すぎるのよ」
切れ者の兄を相手にローザが毒づく。肩をすくめる兄のやるせない眼差しから、わたしは素知らぬふりを決め込む。
そんな顔されても、どうしようもないのに……。
「いつまで、あのような真似を続けるつもりでしょうか」
「あの方の廃位は、とっくに決まっているから。そうよね。お義兄さま」
「部外者を……。パーティーから追い出すだけではない?」
案の定と言うべきか。兄がため息をつく側で、ちゃめっ気たっぷり、ローザは片目を閉じて微笑む。
昔から、ローザがこんな形で笑う時は要注意。『敵に回していけない相手』とは彼女のためにある格言だ。
「あら、あなただって。あの令息との関係を終わらせることが叶って、嬉しいわよね」
「えっ?」
わたしたちが相容れぬ仲だと。ローザあからさまな物言いに、胸の奥底で複雑な苛立ちが芽生える。
認めたいけど認めたくない。婚約者に未練がある訳でもないのに、言い表せない感情が去来する。
「もっとも、私たちの婚約は、次の『王太子』が決まるまでの時間稼ぎの意味しかないから」
「それは……」
「時間だ」
「そうね。これ以上はよしましょう」
無駄話のお開きに、ローザが先んじて歩き出す。『時間稼ぎ』の意味を問うのは止すとしよう。
「急ぐぞ」
「はい。お兄さま」
わたしたちは、ホールに続く回廊に向かった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます