最終話

 そのまま、隣町の自宅に向かう。

 

 何故か、自宅の明かりがついていた。誰かが、僕の家にいる。

 

 案の定、愛美がソファに腰かけており、テーブルの上にはビールの缶が二つ並んでいた。

 その横にコンビニの袋が所在なさげに置かれていた。

 

「仕事の帰りにビールを買ってきたの。どこ行ってたの?」

 

「父が倒れたと聞いて、地元の病院に行ってたんだ」

 

「そっか。他には?」

 

 他にはという質問に疑問を覚える。他には特にない。彼女と会っていたことしか。

 

「他には?とは?病院に行って帰ってきただけだよ」

 

「違う。いつもと顔が違う。何かあったの?」

 

 愛美は僕の顔をじっと見つめる。僕は、愛美に近づき、顔を傾ける。

 しかし、彼女が手でそれを制す。

 

「そうじゃないの。何かあったでしょう?教えてほしいの。貴方のことを」

 

 愛美の真剣な眼差しを見れば分かる。これはいつもとは違う。思えば、愛美の顔をこんな風にまじまじと見たことはなかった。愛美に興味がなかったのだ。

 

 愛美は大学でも、僕の後をずっと付いて歩き、他の女と遊ぶ僕を咎めず、ただ泣くだけだった。

 僕はそんな愛美に同情はするものの、それ以上の感情は持たなかった。

 愛美は今も、昔も僕を追いかけている。それこそ学生の頃、彼女を追って、彼女に縛られていた僕のように。

 

 僕は愛美のことを初めて考えていた。

 

 それは、愛美との関係性や、これからどうしたいのか。

 分からないのだ。

 

 彼女にずっと縛られ続けていた僕には。

 彼女との関係がなくなり、もう哀れな感傷もなくなった。

 

 しかし、彼女がいない生き方がわからない。

 

 いままで、彼女のことを想い、彼女の曲を聴くことこそが最大の幸福だと考えて生きてきた僕には。

 これからの自分のビジョンが見えてこない。彼女の音楽を現実逃避に使っていたのも事実だが、本当に彼女という存在がなくなれば、僕の生きる目的がなくなったといっても過言ではないのだ。

 

 ただ、愛美はこんな愚かな僕にただ一人ついてきた人間だ。愛美のことを考えなければならない。それは、使命感のようでもあり、これからの自分というものを考える上で必要なことでもある。

 

 しかし、愛美に今、何も言えないのは、やはり彼女の存在が大きい。

 

「今はごめん。何も言えない。ただ、少し待ってくれないか?」

 

 僕が愛美に言えるのはそれだけだった。

 

 愛美は釈然としない顔をしていたが、納得はしていた。いつもは無理やり納得したような顔でただただ泣いていたのに。

 しかし、もう愛美をこれ以上、僕の感傷や、馬鹿な人間性に付き合わせたくない。

 

「もう、こんな関係は僕も君も望まないことだろう。だから、いつでも離れたいと願うなら別れてもいいんだよ。僕は君に相応しい人間ではないから………ね」

 

 僕の言葉は途中で遮られた。

 彼女の平手が僕の頬を捕えたからだ。

 

「なんで勝手に決めるの?私は一義が好きだよ。でも分かってたの。貴方がずっと他に好きな人がいることぐらい。ずっと見てきたもん。それくらい分かるよ。いつもクラシックを聴いていて、いつも暗い顔をしていて。それでいて寂しがり屋なところも。今までも付き合ってると思ってたのは私だけかもしれない。でも好きだから。私からは離れない。」

 

 そう言い切る愛美の顔は涙でぐちゃぐちゃになっており、いつもの彼女ではなかった。しかし、酷く美しく思えた。

 

 初めて会った人のように思えた。

 

 泣き顔なのに、澄んだ目で僕を睥睨する彼女のことを心から切なく思った。

 

 僕は愛美の何を見てきたのだろう。愛美はすごく美しくて、こんな僕には勿体ないくらいの女性だ。僕と愛美との関係性にも終止符を打つときがきたのかもしれない。

 

「明後日、また来てくれないか?そのときに、同棲の話も、これからの話も考えておくから。本当にごめん。……待たせてしまって」

 

「わかった。待ってる」

 

 そういうと愛美は顔を洗ってくると洗面台の方に行った。

 明後日は彼女のコンサートの日である。彼女との勝負はまだついていない。まだ迷っている自分は本当に酷く愚かであり、救いようがない。

 

 病院の最寄りの駅のホームで会ったとき、彼女の左薬指にはめられていた指輪を思い出す。彼女はもう前に進んでいる。親も年老いていく。愛美も思いを提示した。僕だけが変わっていない。僕だけが。

 あの時、彼女と別れた放課後の音楽室にいる。

 

 愛美が買ってきたビールを冷蔵庫に入れようとしたとき、缶の淵に水滴が溜まっていた。彼女はいつもビールを買ってくるとき、二つ買ってくる。そのことになんの感謝の念も抱いていなかった。

 僕は一つの缶を冷蔵庫に入れると、もう一つをそのままテーブルに置いた。

 

 

 

 彼女のコンクールの日。

 

 抜け殻のようになっていた自分の体は吸い込まれるようにコンサートホールに入り、席に着いた。

 

 パンフレットで演目を見たが、知らない曲だらけであり、始まりと終わりの時間だけを確認した。

 

 ホールの席に腰を下ろし、パンフレットを眺めているうちに開始時間が訪れたようで、ホール全体の照明は消えて、彼女が舞台に現れた。

 思えば、彼女の舞台での姿は中学の合唱コンクールくらいしか知らなかったが、スポットライトに照らされ、衣装を纏い、化粧をして着飾った彼女は綺麗だった。

 

 今まで見たことがなかった姿を目にし、どこか現実味のないプロの演奏家というものを思い知らされた。

 僕らは同じ人間ではなかったのだと感じた。

 

 彼女の演奏が始まった。

 

 それは知らない曲なのに、耳にすっと何の違和感もなく入ってきた。

 彼女の音はやはり変わっていた。いい意味でだ。

 

 あの頃、本当にこの人と学生時代を共にしたのかと疑いたくなるほど神々しく、他を圧倒する音。

 あの時のような、どこか幼さを感じる一面は消え去り、凛とした大人の演奏。

 

 ピアノから放たれる音の粒は、ホール上に響き、時として美しい光景を見せ、時に荒々しく燃え盛る炎のように激しさを魅せ、観客の心に刻まれる。

 

 ホールに入る前はどこか憂鬱だった僕の思いも彼女の演奏に飲み込まれた。

 このホールにいる人間が皆、彼女の音に魅了されている。

 

 彼女は表情一つ変えず、その曲ごとの色合い、性格を表していく。

 

 しかし、どこか懐かしい。

 

 完璧な演奏の中にやはり昔の頃の色が出ているのだ。

 手が跳ねる癖や、感情が入ると瞬きが多くなるところ。

 

 それこそ、音の系譜とでもいうのか、彼女の小学校から高校までの音もどこかに見え隠れしている。

 

 僕は逃げ出したくなった。

 

 彼女の音を聞き続けると、いろいろなことを思い出すのだ。途端に涙があふれて、その場を去りたくなる。

 それでも、響き続ける彼女の音を最後まで聴いていたいと願う気持ちが僕を席に吸い付ける。

 

 いついかなるときでも鳴っていた彼女の音。

 

 ある日、隣に美少女が引っ越してきた。

 

 それは、小学校の時に出会った気難しい女の子。中学校で一緒に演奏した小悪魔な女の子。

 高校で別れた女の子。

 すべて君で。今の君につながる。

 

 彼女の音から過去を旅し、今の彼女に追いつくと、それは悲しみや切なさだけではなく、喜びも生まれてくる。

 

 僕は幸せだった。友達などいなかったが、彼女がいたから。

 

 彼女の演奏をそばで見守り、今、こうして再会できたから。

 幸せだったのだ。

 

 ならば、もう求めるものなど何一つない。

 

 彼女の音楽に涙し、落ちるならば上がる方法もまた彼女の音楽が教えてくれるから。

 僕は彼女の演奏を初めて聞いたあの朝のように彼女を見守った。

 

 そうして彼女の演目は幕を閉じた。

 

 ショパン、ベートーヴェン、ラヴェルと彼女の演目は今までの集大成であった。

 すべての曲を弾き終えたのだ。

 

 僕は彼女が立ち上がり、礼をし、幕が下がればもう終わりだと思った。

 

 この先彼女に会うこともなくなるだろうと。

 

 これで、僕と彼女は本当に終わりを迎える。

 僕は流れる涙を手で拭って、歪む視界の中で、彼女を見た。

 

 彼女は立ち上がろうとしなかった。

 

 ただ、ぼうっと客席を眺めている。客席の方はただ彼女の音楽にあてられた後ということもあり皆が放心状態になり彼女を見つめている。

 

 彼女は座ったまま動かず、客席を眺めており、僕と目が合うと少し微笑んだ。

 僕は、ああ、なるほどと席に深く座りなおした。

 

 彼女はあの時のことを根に持っていたのかもしれない。

  ここからが、勝負なのか。

 

 彼女はゆっくり手をピアノの鍵盤に置いた。

 

 彼女は、ピアノを再度奏でだした。

 

 もう演目は終了しており、その曲は演目にはなかった曲である。

 

「別れの曲」

 

 客席はどよめき、ホールのスタッフは慌てた様子で誰かに連絡を取っている。

 

 しかし、彼女はどこ吹く風といったように演奏を続ける。

 

 彼女と僕が初めて時間を共にした曲を。

 ゆっくりとしたテンポに、彼女の指は少し震えていた。

 

 皆がパンフレットを見ながら何かを話している間、僕は彼女から目が離せなかった。

 

 騒がしい客席の声もホールスタッフの声も聞こえない。

 ただ彼女の音だけが僕の耳を独占する。

 

 彼女の演奏はすぅと心に入り、今までの情景を思いだす。

 それは悲しみだけではない、初めて喜びだけを素直に感じた曲だったからかもしれない。

 すべてを許せそうな気がした。

 

 彼女が偽の彼氏を作っていたこと。彼女が勝手に海外への出立を決めたこと。なにより、自分の愚かな言動を。

 

 いままでの彼女と僕のすべてを

 

 そして、僕は彼女がこんな風に僕らの別れを惜しんで、また新たな門出を祝福するように演奏をくれたのだから、僕はもうすべての終止符を打つべきなのかもしれないと思った。

 

 だってこれは別れの曲なのだから。

 

 別れの後には出会いがあるものだから。

 それは、ただ過去を清算するだけではなく、未来を考えるということ。

 

 僕は彼女の演奏を聴きながら、今までとは違う考えに至っていた。

 それは、切なさや悲しみだけではなく、どこか希望や喜びといった前向きな考えだ。

 

 彼女の音楽から流れ出る感情がそういった方向にこの何年間かで変化したからかもしれない。

 もし彼女と仲たがいせず、男女の関係になっていて、海外にいる彼女を想い続けることになっていたらと考えてみる。

 しかし、僕はこんな形でも彼女と再会し、また彼女の演奏を聴き、至福の涙を流している現状のほうが幸せなのかもしれないと感じている。

 

 彼女の演奏が終わりに近づくころ、僕は愛美のことを考えていた。愛美は一体、どんなのことを考えて僕といたのだろう。

 なぜ、僕と一緒にいてくれたのだろう。

 

 愛美にも、彼女の演奏を聴かせたいと考えていた。

 

 愛美は彼女の音楽をどんな風に捉えて、どんな言葉を紡ぐのだろう。

 

 僕は愛美とのこれからを楽しみに感じた。それでよかった。彼女の演奏を聴きに来て本当に良かったのだ。

 

 彼女との出会いと別れはこの曲に始まり、この曲に終わるのだ。

 

 彼女は演奏を終えると拍手の中、中学校の頃のような合唱コンクール後に見せた笑顔を観客に向けた。

 

 僕も満面の笑みで彼女が礼をする姿を迎える。

 

 しかし、僕の顔は涙でぐちゃぐちゃになっている。彼女は僕の顔を視認すると、笑って小さく口を動かした。そして、幕は下りた。

 

 僕は小さく「ああ、僕の負けだな。ありがとう」とつぶやくと、その場を後にした。

 

 

 

 僕は今すぐ、自宅に帰りたい気持ちで胸がいっぱいになった。

 

 愛美に。

 いや彼女に伝えよう。

 いままでの僕の人生を。

 また、伝えよう。

 僕たちのこれからを。

 秋の夜風は肌寒いが、僕は体中から幸せな気持ちがとめどなく溢れ、かえって暑くなって火照った体を冷ますのに丁度いいと町を闊歩する。

 

 僕の片手にはビールの缶が二缶入ったコンビニの袋が握られていた。

 


 

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となりに美少女が引っ越してきた件について プーヤン @pu-yan1996

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