第10話

 ピアノに向かう時と同じ姿勢で、彼女はベンチに腰掛けている。

 電車を待っているのだろう。

 

 遠目にも分かるが、彼女は前より魅力的になっていた。大人の色気とでもいうのか、妖艶さも増し、服装も子供の時とは違うシックなものになっていた。


 彼女の長い髪がベンチの背もたれに流れている。絹の様な細さで、風に乗って踊っていた。


 ホームに吹く風が肌寒く、僕は自分のコートを引っ張って、顔をうずめた。

 

 

 

 僕はとにかく、彼女を視界に入れないようにホームに立つ。ここで関わるのは僕の望むことではないと。


 僕はホームから線路を見ながら、電車が来るのを待っていた。平然を装いながらも、早くここから去りたいと逸る気持ちが僕の心臓の鼓動を上げていく。

 それ故に、足音に気がつかなかった。

 

「久しぶりね。待ってたの」

 

 急に聞こえた声は、えらく艶のある大人びた声だが、しかしながら少しばかり勝気な、芯の強い印象を覚えた。

 彼女は僕の隣にいた。

 

 急に彼女が隣に来たものだから狼狽してしまい声が出ない。

 

 また、待っていたという言葉から、僕が来ることを知っていた。つまりは、母と連絡を取っていたことが分かった。思えば、母のせいで彼女と出会い、また再会している。と何か責任転嫁をしている。

 

「………久しぶり。元気だったかしら?」

 

 定型文のような話し方をする彼女を見て、少しばかり違和感を覚える。それはそうだ。僕の記憶の彼女と似ている部分と変わった部分はあるはずだから。

 

「……ああ。久しぶり」

 

 彼女は僕の返事を聞くと、フーッと薄く息を吐いて、少しの間を置いた。僕に話しかけるのに緊張していたのかもしれない。

 

 そうして、化粧を纏った彼女が僕を見据える。僕は彼女に視線を合わせず、線路を見ていた。


 彼女と会ったことで、感じたのは寂寞感ともいえる、過去に触れたような、そこに訪れる何とも言えぬ寂しさと切なさであった。

 新しい彼女を見ているのに、昔の彼女を重ねて見ている。

 

 彼女は僕から視線を逸らすと、ホームから見える、コンサートホールを指さす。

 

「私、今度あそこのホールで演奏するの。て、お母さんから聞いていないかしら?」

 

「い、いや聞いているよ。すごいね。おめでとう」

 

「ありがとう。………あの。無茶なお願いかもしれないけれど、私は貴方には聴きに来てほしい。私がどれほど上手くなったか」

 

 彼女の大きな双眸が僕を捕える。

 表面が濡れていて、光って見えて、それが昔は眩しく思えた。

 

 知っている。

 君が上手くなったことは知っている。

 何度CDを聴いたか。それこそ、ⅭⅮが擦り切れるほど聴いていた。彼女の演奏はもう僕の知る音ではないことも知っている。

 

 僕は苦笑いをしながら、首の後ろを掻いて彼女に言う。

 

「予定が合えば行くよ。また、最高の演奏を期待している」

 

 なんだろう。子供から大人になって変わったことは、嘘をついても罪悪感など微塵も覚えなくなったことだろうか。

 嫌気が指す。

 

「そっか。じゃあ、また勝負しよっか」

 

 彼女は突拍子もないことを言う。

 

 僕は眉間に皺が寄るのを感じ、指でそれを解す。

 

 彼女に会えて少なからず喜んだのも事実だ。しかし、今更、彼女の遊びに付き合うつもりは毛頭ない。彼女の言動に苛立ちを覚える。


 しかし、それが表面に出るほど、僕は素直ではなくなった。

 

「言い方が悪かった。僕にも仕事があるから、予定はわからないんだ。だから、行けるとは断定できない。すまない」

 

 僕はまたエヘラエヘラとなんとも言えぬ笑みを顔に貼り付けた。

 いつの頃からか、覚えたこの表情は、知らない人間と話すときに出来上がったものだったかもしれない。

 

 彼女は僕の目を見て、何故か一瞬、悲しそうに笑った。目を細めて、口端が少し上がっている。しかし、翳がかかっている。

 

「ねえ、もう学生じゃないんだよ。貴方の嘘には付き合わないよ。もちろん、私も貴方を裏切る演奏はしない」

 

 彼女の目が僕と合う。昔のようなどこか切なさの残る瞳ではなく、意思を持った強い眼差しだ。彼女は変わっていた。

 演奏も人間性も。誰が、何が彼女を変えたのか?無論、僕ではないことは確かだ。

 

「来れるなら来てほしい。私も少ししたら、また海外に戻らないといけないから、次に日本に来れるのがいつになるかわからないの」

 

「分かった。行けたら行くよ。で、勝負ってなに?」

 

 僕はやけくそになり、彼女との会話を早く切り上げようとする。

 

「貴方が私の演奏を最後まで聞き終えたら、私の勝ち。貴方が途中で席を立ったら貴方の勝ちでどう?」

 

「それは勝負事にならないよ。勝敗を誰も確認できないから」

 

「勝敗は私の演奏を聴けばわかるわ」

 

 彼女の自信満々の顔が酷く懐かしく思えて、昔のようで、それがまた錯覚させてしまう。明日からまた学校で会えるのではないかと。またやり直せるのではないかと。


 そんな馬鹿な感傷がふと心に現れると、視界が歪んでくる。

 どこまで馬鹿なんだろう。どこまで情け無いのだろう。

 

「なんだろう。君は変わらないね。わかった。その勝負を受けよう」

 

 彼女は小悪魔的なニヤついた顔で僕を見る。

 僕はそんな勝負受ける意味などないと思いながら、ここで逃げ出すのも癪だとも思っている。


 そして、ここで逃げたら、一生後悔すると感じてしまった。

 結局、どこかでこの生き方にも終わりを作らなくてはならないと感じていたのかもしれない。

 

「じゃあ、待ってるから」

 

 彼女と再会して交わした言葉は多くはなかった。しかし、すごく長い時間に感じた。

 それと同時に、もう会うこともないと悟ってしまった。

 

 もう学生の時のような気持ちは過ぎ去って、心のしこりのようになった彼女との過去。いや、そうしてしまったのは自分だ。

 

 ならばもういいのではないか。

 この気持ちを消化する方法は僕しか知らない。僕にしか出来ない。

 

 ここで変わらなければ、一生この馬鹿な気持ちと生きていくことになる。

 僕は今まで何を後悔していたのだろう。

 

 あの時、本当は彼女に何を言いたかったのだろう。

 どうなりたかったのだろう。

 彼女とどうなって、何を求めて、何を夢見て、そうした果てに何が本心であったのか、何を君に伝えたかったのか。

 口は開いた。しかし口端が震えている。

 上手く作り笑いが出来ない。今の僕は変な表情をしているに違いない。

 

「な………なあ、ちょっと待って」

 

 彼女は僕の言葉に振り返る。そして、僕の顔を見ると瞬きをした。

 そうして、もう一度、僕を見た。

 彼女の表情に色が付いた気がした。

 懐かしい、淡い色合いで、朝日を浴びて、ピアノを弾いていた彼女に戻った気がした。

 

「………ん?どうしたの?」

 

「いや。………多分もう、こんなふうに会って話すこともないと思うんだ」

 

「うん。そうだね。そうかもしれないね」

 

「だからって言うわけじゃないんだ」

 

「う、うん」

 

「だから、その」

 

 酷く長く、酷く苦しい。彼女はもう、気づいている。そうでありながら待ってくれている。

 

 何を言おうか考えている間もなく、僕はその言葉を口にしていた。

 

「だから………好きだったよ。出会ったころから今までずっと。好きだった」

 

 上擦った声に、喉元から息が絞られ、音が鳴る。上気した頬と、微かに震える指先を握り締めた。

 彼女はこちらを見ずに、下を向いた。

 

「そっか。私も好きだったよ。うん。好きだった」

 

 彼女は噛み締めるように言葉を紡いだ。

 その瞬間、体からいろんな感情が空気中に抜けていく感覚があった。

 

 そうか。僕はあの時、この言葉が言いたかったのか。

 いつでも思っていた。彼女は僕とは違うってことを。


 だから、訪れる別れを予期していた。

 しかし、怖かった。その言葉は、有限の時を、いや、そのすべてを壊してしまうかもしれないから。

 いや、そもそも踏み込む勇気がなかった。

 ただ怖かったのか。

 

 なんで、もっと早く気づけなかったのだろう。ちゃんと彼女を愛していたのに。

 

 なんで、あの時、言葉にしなかったのだろう。ちゃんと好きだったのに。

 

 後悔と満足で胸がいっぱいになる。

 何故か涙が頬を伝う。

 なんだこれは。泣いているのに、心は暖かくなっていく。

 

「あの時………あの時この言葉を言っていたら違った未来があったのかな?」

 

「どうだろうね。わからないね。あの当時に私も素直に好きだから演奏を聴いていてほしいって言えてたら変わってたのかな………なんでだろうね。わからないね」

 

 彼女は泣いていた。でも、笑っていた。

 

 こんな簡単なことだったのになんであの頃の僕たちにはわからなかったのだろう。

 僕たちは間違いばかりで、彼女も、僕も、そのほかの周りの人間も傷付けて生きてきた。

 

「なんでだろう。涙が止まらないんだ。昔より大人になったのに、今の方が涙脆い」

 

「大人になって、素直になったんだよ。きっと。私も貴方も」

 

 彼女と僕はそれから電車を見送って、たかが外れたように泣いた。

 そして、お互いの話をした。今までしてこなかったお互いの話。あの日、どう思っていたかとか、今はどうだといった近況まで。

 

 日が暮れるまで。

 昔のように笑い合っていた。

 通学路を歩きながら。放課後の音楽室で。彼女の家で。時には僕の家で。あの頃のように。

 隣に急に引っ越してきた彼女とは道を違えたが、僕は彼女と今、一緒に笑っていた。

 

 ホームに夕日が射して、彼女と僕の影が現れる。もう近づきはしない。ゆらゆらと自由気ままに揺れていて、それは心地がよさそうだった。

 

 彼女は最後に僕に「じゃあ、コンサートの日に」と言ったから、僕は今度こそちゃんと気持ちを込めて「うん。最高の演奏を期待している」と言ったら彼女は今までで最高の笑顔を僕に向けて、僕らは笑いながら違う電車に乗り込んだ。

 

「バイバイ、一義」

 

「バイバイ、咲」

 

  お互いの電車が離れていく。

 僕達の町から離れていく。

 何もないかもしれないが、確かにそこに僕たちは生きていた。僕たちの町。


 ふとピアノの曲が聞こえた気がした。

 それは初めて聞いた彼女の音だった。

 


 

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