第17話 苦痛と音楽

 昔。俺はヴァイオリンが好きだった。

 それは母さんの前で演奏することができたからだ。

 母さんはもとヴァイオリニストだ。世界各国でヴァイオリンを弾き、人々を虜にさせる。

 そんな魔法が母さんにはあったのだ。

 俺は母さんのコンサートを鑑賞し、いつもこう思った。


 ……いつか、俺も母さんのようにヴァイオリニストになりたい。


 心地のいい旋律と優雅な姿で演奏する母さんは今でも目に焼き付ける。

 観客を虜にさせる圧倒的なパフォーマンスと音楽には誰に見真似ができないのだ。

 母さんが得意な曲はG線上のアリアだ。

 バッハで有名な曲。この曲はG線のみで演奏することを目的につくられたという誤った説が広まった有名な曲だ。

 母さんが演奏するG線上のアリアは人を魅了する。誰もその魅了を解けることはない。誰もが涙を流し、感動し、嗚咽し、観客の心を鷲塚みになるのだ。

 俺も母さんの魔法に魅了され、ヴァイオリンを始めたのだ。

 当時は母さんのモノマネであるが、演奏すると、母さんが褒めるので、俺はヴァイオリンが好きで好きでたまらなかったのだ。

 ある日。母さんは俺にこう尋ねる。


「春樹。あなた、大きくなったら何になりたい?」


 母さんは俺の頭を優しく撫できたのだ。

 俺はその心地よさに俺は目を細めてこう答える。


「母さんのような世界中に轟くヴァイオリニストになりたい!」


 当時の夢は大きく、でかく、広かった。

 何々王に俺はなる! みたいなガキの発想だ。

 世界中にどれだけのヴァイオリニストがいるだなんて知らないまま、俺は堂々とそう答えたのだ。

 一変、ガキの空想なのだと、誰もが笑っていたが、母さんは俺のその夢を笑わなかった。

 母さんは優しく、俺の頭を撫でながらこう伝える。


「なら、頑張らないとね。世界一のヴァイオリニストになるのなら、特訓ね!」

「うん!」


 と、何も苦労を知らないガキがそう答えたのだ。

 それから、毎日。俺はヴァイオリンを演奏する。

 ある日も、雨の日も、風の日も、台風の日も、爽快の日も、俺はただ弾き続けた。簡単な曲から難しい曲までマスターしていった。

 当時は最少年で管弦楽組曲のオーケストラ団に入団したこともある。

 東京で演奏をし、世界を轟かせることもあった。

 俺の演奏はまあまあだ。ただ、年と会わず、突飛した才能があると誰もがそう思ったのだ。

 しかし、うまく行く日は続かないこともある。失敗することも多々ある。演奏ミスったり、弓を弾くリズムが合わなかったり、色々ミスもしている。

 でも、少年だから仕方がないと片付けられる。

 俺はそれが悔しくて、完璧に演奏できるようにマスターした。

 当時の俺は管弦楽組曲第3番 BWVを完璧に演奏できるようにしたのだ。

成功した時には母さんが褒めてくれる。


「よく演奏できたね! 偉いぞ! 春樹!」


 難しい演奏の達成感を得られたのだ。生き甲斐に感じる。

 母さんに褒められるのは、唯一演奏の苦痛から救いでもあったのだ。

 子供の頃は何でもできた。才能がなくても母さんがいれば何でも演奏できたのだ。俺のヴァイオリンの才能は皆無だ。

でも、母さんが一つ言霊を発し、俺にエールをくれると俺は何度だって立ち直せる。心の底から母さんを尊敬していた。

 でも、そんなある日。

 母さんは他界してしまった。

 それは唐突の出来ことだ。母さんの体内から癌が見つかったのだ。

 母さんはヴァイオリンを辞めて病院に通院していたのだ。

 ベッドに寝ている母さんは非力で、何もできず、ただただ死を待つような姿だったのだ。

 俺はその姿を耐えることはできなかった。

 だから、母さんが喜ぶために俺は必死にヴァイオリンを演奏したのだ。


「春樹」

「なあに母さん」


 貧弱な母さんは俺を呼ぶと、俺はベッドの方へと歩む。

 彼女は俺の頭を優しく撫でるとこう告げる。


「ヴァイオリンは世界を救うのよ」

「うん。母さん」


 その意味は俺には知らない。きっと、ヴァイオリンを続けるように暗示したのだろう。

 その後、母さんは他界した。

 他界した日。俺はカノンを演奏する。

 そして、泣いて泣いて泣きまくってどうしようもないほど泣いたのだ。

 幼馴染の瑞希が俺を心配する。

 が、俺には食欲もなくやる気も失い、亡霊のような毎日を生きていたのだ。

 そんなある日。俺は突飛した行動に出る。


 ……愛用していたヴァイオリンを壊した。


 真っ二つに壊したのだ。

 神への怒りと音楽の苦痛から耐えられず俺はその呪いを打ち切ったのだ。

 神は存在しない。存在するなら、俺たちの幸せを奪うはずがないのだ。幸せすぎたことが罪なのか? 幸福すぎたことに罰を与えたのか? と俺は神を呪う。

 そこから、俺は父さんの喫茶店を引き付くことにした。

 ヴァイオリン少年から一般の少年になったのだ。もう、ヴァイオリンする気がないのだ。だって、褒める人がいないからだ。

 俺にヴァイオリンを続ける意思はどこにもないのだ。全ては母さんの魂と共に消え去ったのだ。

 学校では誰に目立つことなく、平凡な人生を送る。

 誰も、俺が誰も、俺が天才ヴァイオリニスト少年だと気づくことなかった。

 俺は一般庶民に戻ったのだ。

 瑞希は相変わらず俺を心配してくれるが、俺はヴァイオリンを続けることはない。

 母さんの死で、俺のヴァイオリンも死んだのだ。

 亡霊のように毎日を生きて、灰色の世界を這いつくばる自分がいた。

 嫌気がさしたのだ。でも、人生は続いていく。

 母さんがいない人生を俺は耐え続けてきたのだ。

 俺の心の傷は癒えることなく、毎日生きている。生きている意味を忘れて、ただ店の後づきを引き付くしか頭の中にはなかったのだ。

 時々、瑞希は俺を演奏会に誘う。

 でも、俺は音楽が耐えられなかったのだ。聞くだけで、胸の奥に刃が突き刺さる気分になったのだ。

 瑞希には悪いが、俺は彼女を遠さげてしまった。

 理由は音楽が嫌いになったからだ。 


 ……晴れない雨は存在しない。


 けれど、ある日。俺の心に光が差し掛かった。

 マリの存在だ。

 彼女は天使のように微笑み。俺の曇った人生を晴れさせた。彼女の優しさと可愛さに俺の人生は変わっていくようだった。

 彼女と毎日いると、俺の心の傷が癒えていく。

 不思議なことに、俺は毎日夜な夜なに泣くのを辞めたのだ。

 マリのおかげだ。マリが俺の太陽になってくれたのだ。

 彼女が笑顔になれば、俺も笑顔になれる。

 不思議な力が彼女の微笑みに宿っていたのだ。

 決めてはあの日のこと。マリが俺にもう一度ヴァイオリンを演奏するように誘ったこと。俺はすごく嬉しかった。苦痛だったヴァイオリンを弾くのも、彼女と一緒なら不思議に苦痛じゃなくなる。

 俺は家に帰って、部屋で毎日ヴァイオリンを練習し出したのだ。

 汚いテンポになっても、異音を発することがあっても、俺は諦めない。

 マリと隣に演奏できるのを夢に見ている。

 俺は絶対にこの、彼女が建てた企画を成功させるのだ。

 俺とマリがいれば、怖いものはない。

 そう前へと踏み出せたのだ。


「母さん。見ているのかな? 俺、またもヴァイオリンを弾くことになったよ」


 俺は母さんの写真を抱き抱えて、そう呟く。

 写真の母さんはヴァイオリンをもち、演奏している写真だ。

 まだ、元気の頃の写真だった。

 ヴァイオリニスト現役だった頃の写真で、一番尊敬できる時だったのだ。


「俺、マリと演奏できて嬉しいよ」


 マリの前では恥ずかしくて言えないけど、俺は彼女と演奏できて嬉しくなった。

 母さんと演奏しているように感じたからだ。

 マリのピアノ旋律は母さんを思い出す。

 洗礼され、綺麗な旋律は母さんそっくりだ。俺はマリに救われたのだ。

 コーヒー屋の息子で何もできない俺に光を導いてくれたのだ。だから、俺はこの瞬間を楽しむ。この幸せを絶対に手放さないのだ。

 神がいたら俺はそいつをぶん殴っている。

 俺は四葉のクローバーを自ら掴みにいくのだ。この幸せを絶対に離したくないのだ。


「でも、幸せすぎるのは罪だ」


 ……不幸という罰が待っているのだ。

 あの時のように。母さんが死んだ日のように。

 俺は自分を抱いて、涙を流しながら眠りに入ったのだ。

 どうか、不幸が訪れないように、と神ではないものに祈って、微睡の中へとドライブしたのだ。


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