第9話 幸せの先は不幸だ

俺はベッドの上で寝転がり。

 今までの日常を振り返ってみた。一言で表現すると、あまりにも幸せすぎるのだ。

 マリと一緒に過ごすと、俺は思わず微笑みをこぼす。

 でもその幸せの反面、俺は何かどす黒い感情を感じる。


 ……こんなに幸せになっていいのか?


 人生は凸凹である。

 不幸があるから、幸せがある。

 今感じている幸せは、いつかは不幸になるのだろう。

 幸せすぎた罰として不幸が待っているかもしれない。

 そう考えてしまったのだ。

 なぜならば、俺もこのような幸せの時期があった。

 それは母さんが生きていた時の話だ。


 ……昔は3人で笑い合いた。


 俺、父さん、と母さん。3人で一緒に店を経営して、いつも笑い合えたのだ。

 父さんが料理を作り、母さんは童話を読み聞かせる。俺というと、熱心にその童話を聞く。

 楽しい日々が繰り返された。

 こんな幸せが毎日続くと誰もがそう信じていた。

 でも、そんなある日。神はサイコロを振る。出た目は苦だったのだ。


 ……母さんに癌が発見された。


 その寿命は1年もないと医師から診断されてしまった。

 訃報を知った日。俺は泣いてしまった。

 泣いて泣いて涙が枯れても泣き続けていた。

 大好きな人がこれから死んでいくなんて、子供の俺には耐えられなかったのだ。

 大好きだったヴァイオリンも弾けなくなった。

 母さんがいつも上手だね、と褒めてくるから、俺はヴァイオリンを続けていた。

 けど、褒める人がいなくなれば、俺は続ける意味を失った。


「母さん。俺は幸せになっていいの?」


 俺は机に飾っている家族写真を眺める。

 まだ元気な時の家族写真だ。こんな幸せの家庭が神様の気まぐれで崩壊しかけたのだ。

 だから、俺は神を信じなかったのだ。無宗教になったのだ。

 あるのは人しかいない、奇跡なんて糞食らえなんだ。

 

「ヴァイオリン。引いてみるか」


 俺は7年も触っていないヴァイオリンの鞄を開けると、ヴァイオリンを構える。そして演奏しだす。

 奏でる音楽は、素朴で、簡単な曲だ。きらきら星。それは初歩的の初歩的の音楽。

 手を加えていない童謡的の歌。

 七年間のブランクはあまりにも酷いものだ。

 音楽は悪いテンポで、今も吐き出しそうな音符だ。


「……やめだ。やめ」

 

 イラついた俺はヴァイオリンをベッドの上に投げ込む。

 どうやら、ヴァイオリンを復帰するにはリハビリは何日間も必要らしい。

 でも、俺には音楽する意味はない。

 コーヒー屋の店主の息子で、これ以上に音楽を演奏することはない。

 だから、音楽が下手くそでいいのだ。


「母さん。俺、幸せになれないよ」


 そう呟くと、俺は気力を失い、ベッドの上に寝転がる。

 力を失い、微睡の中に落ちていく。

 眠りの国へと旅立ったのだ。


※※※


 夢をみる。

 それはとてもとても幸せな夢。

 父さんがいて、母さんがいて、俺がいる。

 みんなは笑い合い。一緒にオムライスを食する。

 机の上に大きな大きなオムライスが置いてあり、俺はスプーンで掬い上げる。

 母さんにあーんとし、食べだす。

 

「美味しいね」

「うん!」


 母さんはそれだけを言って、笑って俺の方を眺める。

 俺はこの時の自分が好きだった。

 みんながいて、笑い合えるのだから。

 でも、幸せすぎることは罰なのだ。

 幸せ過ぎれば、罰の不幸が訪れる。

 

 母さんは立ち上がり、どこかへと歩いていく。

 俺は母さんの背中を見て、疑問符をあげた。


「母さん?」

「ごめんね。春樹。わたし、ここにはいては行けないの」

「母さん?」


 俺は再度そう尋ねるが、母さんはどんどんと前へと歩いていく。

 慌てて、俺も立ち上がり、母さんを追いかけようとする。

 でも、距離が全くにも縮むことはなかったのだ。

 届きそうで届かない背中が痒く感じた。


「待って! 母さん!」


 どんどんと遠く離れていく、母さん。

 影法師のようにどんどん遠くへ、遠くへ。

 俺は涙べそをかいて、全力疾走する。

 でも、追いつくことはできない。届きそうで届かない背中が惜しくて、悲しい。

 まるでアキレスと亀のパラドックス。アキレスは亀に決して届くことはない。できるのは届きそうで届かない場所に届くだけだった。

 それでも、俺は諦めたくない。息を荒くして全力疾走する。


 母さんの背中を追いつけるために、俺は靴を投げ捨てた。裸足で母さんの後を追う。

 それでも届くことはない。

 何より、母さんの背中がどんどんどんどん離れていく。

 

「なんでだよ!」


 俺は咆哮する。

 悔しさと悲しさが混ざり合い。感情を爆発させていた。

 

「なんで、母さんは俺を捨てていくんだよ!」


 俺がそう尋ねると、母さんは一度立ちとまり、踵を返すようにこう答える。


「それはね……」


 ……幸せすぎるから罰が下されるんだよ。


 儚い笑顔を浮かべる母さんに俺は転倒する。

 両足は限界に達していた。前へと進むことはない。 


 ……なんでだよ。

 

 なんで、母さんは死ななくてはならないのだよ。

 俺はあまりにも悔しさに、床に崩れ落ちた。

 走れなくなった自分が情けない。

 怒りと絶望のあまりに、俺は床を強く叩いた。血が流れ出た。が、痛みは感じない。

 その際、母さんはどんどんと遠く離れていく。

 無力な俺はその背中を黙って見守ることしかできないのだ。

 

 ……俺は無力な人間だ。


 こうも、母さんを救うことはできないのだから。

 悔しい。あまりにも悔しすぎて、涙が血に流れ出す。

 そこで、マリは俺の背後から現れる。


「マリ?」


 彼女は俺を見下すように眺めると、ゆっくりと口を開く。


「何もできない人間が、幸せの特権を得られるわけがない」


 それもあまりにも冷たい声で発せられた。

 心臓に刃が抉られるような鋭い声に俺は崩れ落ちる。

 彼女もまた、俺の元から離れていって行く。


「うわあああああああああああああ!」


 最後に俺は絶叫をすることしかできなかった。

 


 ……そこで、俺は目を覚める。

 

 りんりんりんりん、と目覚まし時計が俺を悪夢から救い出せたのだ。

 汗びっしょりの体で俺は上半身を起き上がる。

 

「くそ。悪い夢を見たな」


 久しぶりに悪い悪夢を見た。

 母さんの夢はいつもそうだ。母さんがどんどんと遠くなる夢。

 母さんが死んだ頃はその夢をいつも見ていた。

 医師から睡眠薬を渡されたこともあった。

 ストレスだと、言い渡されたことがある。


 俺はそう思うと、窓の外を眺める。

 猫が一匹、こちらを覗き込んでいた。雉虎だ。

 俺の顔を見ると、大きな口を開けてにゃあーと鳴いた。


「はは。お前が羨ましいよ。雉虎」


 なぜか猫を嫉妬する俺。

 だって、猫は後悔することはないからだ。

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