遅いまえがき

 のっけから妖精のホットケーキなどというものを話題に出してしまったことで私自身のことにほとんど触れないまま話が始まってしまった。食にまつわるエッセイを連載するのならそれらを食する立場にある私のこともある程度触れておくのが道理だろうから、ここから先は多少つまらない話になるだろうがご容赦願いたい。


 私はホラー小説を専門とする物書きである。とはいえ文系畑の人間というわけでもなく、会社勤めの傍にぽつりぽつりと趣味で書いていたものを当時の彼女、つまり今の妻の強い勧めでたびたび出版社に持ち込んだり文学賞に応募したりしていたのだが、すげなく断られたり落選したり突き返されたりしているうちに、まあいろいろと紆余曲折あってついに五年前、長編小説『腐指』で泥眼ホラー大賞という畏れ多い賞をいただき、駆け出し作家としてデビューさせていただくに至った。

 こう書いていても今なお自分ではそれほど実感が湧かないのだが、ともかく私は世間一般的に小説家と呼ばれるものになったらしい。しかし自分で書いたものでどうにか生計を立てるようになっても小説家という薫り高い肩書にはどうも慣れず、たまの依頼で雑誌のインタビューを受ける際などは

「物書きです」

 と名乗るようにしているはずなのだが、発売後にその記事を読んでみるとしっかり『ホラー小説家』や『ホラー作家』と書かれているのがどことなく悔しいというか、この誌面で紹介されている自分という存在はひょっとすると自分とは別の次元から来た並行世界の自分なのではないか、インタビュアーの前で得意げに自著について語る自分を私は天井からじっと見下ろしていたような、まばたきすらできないまま天井に張り付けられている私の眼下でべらべらと創作論を述べ立てるもう一人の私がわずかに目線をちらりと上げて意味ありげにほくそ笑んだのを見たような気がするといえばするのだがこういうことを言うと決まって言われるのは「先生らしいですね」の一言なので、どうも私の頭は物事を深く勘繰りやすい、とうよりも、無意識かつ積極的に妄想の沼へ沈む傾向にあるらしい。

 

 ともかく文章で食っていけるようになった私は、書いたものをこうして切り売りしながら暮らしている。しかし私はどうも創作における燃費が悪いというか、恐らく小説よりも雑多な妄想ばかりを机上で捏ね回しているからそうなるのだろうが、外に出るよりも家の中に、それも作業机の前にいる時間がめっぽう長い。ひどい時など連載の〆切前に自室へ篭って気が付けば一週間も経っており、あの人ついに死んだんじゃないかしらと危惧した妻に救急車を呼ばれたことすらあるくらいで、もし私が本当に死んでいたとしたら今さら救急車など呼んでも仕方ないだろうに、いや話が逸れかけたがそんな風に日がな一日狭い書斎で己の脳と格闘していると否が応でも心身が少しずつ擦り減っていく。世の著名な小説家の方々などはランニングやキャンプといった活動的な趣味を日々の生活のスパイスにしておられることが多いようだが、私はとにかく疲れること、準備に手間のかかることをするのが心底嫌なので、物書きの合間にすることといえば食い物漁りばかりである。台所の戸棚を開けてツナ缶があればこそこそと引っ張り出し、味噌と小麦粉、冷蔵庫にあった使い余りのネギをこれも刻んで一緒くたに混ぜ、ついでに見つけたチューブにんにくも混ぜ、フライパンで両面じっくり焼いたものを自室に持ち込んで一人ひっそり食していると自分の家であるはずなのになんだか居候になったような気がして惨めなことこの上ない。この文章も側にそのツナ焼きを携えて書いているところであるが、していること自体はキャンプ料理とさほど変わらないはずなのに、太陽の下でぴかぴかのシェラカップを操るのと薄暗い台所でテフロンの剥がれたフライパンを操るのとではその合間に果てしなく深く暗い溝があるように感じられてならない。ああ、うまいものが食いたい。

 思えば先日の喫茶店への取材もじつに四日ぶりの外出だった。根っからの出不精の私が唯一積極的に(とも言えないくらいの気持ちで)出掛けようと思う時にはどこかに食い物、それも妄想の粉をうんとまぶしたような特別に奇妙な食い物の影がちらついているのが常である。奇食、いや、幻想食と呼ぶべきか。

 そんな私の習性をそれなりに知っている妻は私をたびたび食べ歩き旅行へと誘うのだが、私の興味を引くような食い物は往々にして万人受けしないものであることが多く、地方郷土史にぽつりと載っている河童の干物といったものに興味をそそられる私を差し置いて妻は乳父ちちぶ名物の胡桃だれそばなどを啜っている。今もって自然の姿を色濃く残す乳父にはいろいろな山のもの、川のものが棲んでおり、それらをふんだんに使った郷土色もわずかに残っているらしいのだが、河童の干物を、みずちのあらいを、山蜘蛛の卵鍋を食べられるかもしれないという淡い期待はそのまま満たされぬ妄想となって私の頭の中にこびりつき、私は黙ったまま妻の向かいで薄い蕎麦湯を飲んでいる。これではくたびれ損だがまさか嫌がる妻に河童の干物など食べさせるわけにもいかないので私は黙ったまま帰路についた。ちょうど一ヶ月前の話である。妖精のホットケーキと比べて面白くもなんともない。

 こう書いてしまうと身も蓋もないが、妄想と妙な食いもの以外にほとんど関心を持てない人間というものが私らしい。起きている間はペンを握るか箸を握るかのいずれかしかないと冗談めかして人に言うこともあるのだが、そう言うとやはり返ってくるのは「先生らしい」の一言である。

 私は世間からいったいどういう生物だと思われているのだろうか。

 

 前置きが長くなったが私は断じて美食家などではない。先に述べた通りの適当なツナ焼きをふうふうと頬張って満足しているような馬鹿舌の持ち主である。にも関わらず、そんな私が食にまつわるエッセイを連載することになった理由がさっぱり分からないのだ。そんなことを言うとこの仕事を持ち込んでくれた編集部の佐武氏に怒られてしまうかもしれないのだが、いくら考えても分からないものは分からないのだから仕方ないので、初回の打ち合わせの際におそるおそる尋ねてみると、佐武氏は別に怒るでもなく

「今どきはうんちくを傾ける通人のエッセイよりも、どこか親しみのある素朴なグルメエッセイの方が人気を集めるんですよ。そういう意味で、先生のややとぼけた作風はこの企画にうってつけだと思いまして」

 と言って穏やかに微笑んでいる。ちなみにこの佐武氏というのは私の高校時代の友人で、共に文芸部の幽霊部員として暗い青春を過ごした仲なのだが、お互い別々の進路に進んだ筈なのにこうした場でまた顔を合わせるようになるとはどうも妙な心地である。同級生に『先生』と呼ばれるのもまあ妙と言えば妙であるが。

「はあ」

 そう言うしかなかった私はコーヒーを一口すすった。場所は某駅直結のチェーン系カフェである。むろんこんな場所には小人の姿など影すらもなく、スーツ姿の人々が客席の八割を占める中でらくだ色のセーターに身を包んだ私だけが場違いに浮いている。おまけに一昨日から徹夜をしてしまったせいで三割増しにみすぼらしい。そんな私の前に座る佐武氏もスーツ姿なのでなおさら味方に裏切られたような心地がするのだがそんなことはどうでもいい、今の急務はグルメエッセイ連載という未知の領域にあたって私自身を納得させる理由を見つけることである。むろん、原稿料以外の理由を。

「とはいっても、ろくなものを食べないですよ」

 妙に意気込んだせいか薮から棒に口からそんな言葉が飛び出した。もっと他に言い方があったろうと思った時には時すでに遅く舌を離れた私の言葉が佐武氏の耳から脳へと吸い込まれていくのが手に取るように見える気がした。寝不足のまま口を開くとろくなことがない。

「いや、ものを食べることは確かに好きですが、それを題材にエッセイを書くというのはどうも荷が重い気がしまして。普段食べているのなんて執筆の合間に自分で握ったおにぎりだの、味噌玉を湯で溶いたおみおつけだの、妻が作るかれいの煮付けだの、そんなものですよ」

「でもたしか、先生は一風変わった食べ物に興味がおありだとか」

「そりゃまあ一般受けしない変な食べ物は好きですが、好奇心を満足させるために興味本位に食ってみるだけです。食文化などに造詣が深いわけでもないですし、変なものを変なままに口にして喜んでいるだけですよ。はたしてそんな物書きの妄想を食うようなグルメエッセイに需要がありますかね」

 弁明のつもりがこれでは佐武氏の顔面に汚泥を塗りたくるようなものであるが、佐武氏は涼しい顔で言った。

「現実と幻想のあわいを食という架け橋をもって行き来するようなエッセイなんて、今までありませんでしたよ。奇食や幻想食というものはとかく面白おかしく誇張して書かれがちですが、先生はあくまで日常の延長線として、食欲の先に幻想を見ておられる。妄想を食う、結構じゃないですか。いっそエッセイの題材もすべて幻想食にしぼったらどうです、幻想グルメエッセイという形式で」

「はあ」

 私のためらいを見透かしたかのように佐武氏は声をひそめて言った。

「取材費はこちらで持ちましょう」

「おお」

 知らずのうちに声が大きくなる。物書きで食っているとはいえ収入は決して多くはないのだ。

「乳父にも取材に行きましょうか、今度は河童目当てに」

「ほお」

「もちろん先生にもお調べいただきますが、こちらでも先生の好みに合いそうなものをいくつか探してみましょう」

「おおお」

 すでに私の頭の中は妄想ではち切れそうになっている。棚から黄金餅、渡りに豪華客船、牛に引かれてハワイ旅行どころの騒ぎではない。手帳にメモを書き付けている佐武氏の背中へまばゆいばかりの後光が差しているのが私の目には確かに見えたのだが、恥ずべき意地汚さが見せた幻覚なのだろう。いつの間に私はそれほどの待遇を受けるような物書きになったのだろうか、これからは物書きではなく胸を張って小説家を自称すべきなのかもしれない、と再び妄想の淵へ沈んでいきそうになる私に佐武氏がさりげなく言い添えた。

「有名な話ですが、熊は右手で蜂蜜を舐めるので、蜂蜜の甘みが染み込んだ右の掌が最も美味だそうですね」

 その一瞬、佐武氏の瞳孔がすっと細くなった。まるで蛇のように。

「その理屈で言えば、幻想食を極めた人間の舌はどれほどの美味なのでしょう」

 話し声で満ちていたはずのカフェの中に佐武氏の声がうわんと響いた。妄想に浸った私の脳が見せた幻覚なのかもしれないが、ふと我に帰ると佐武氏はボールペンを手帳に走らせる手を止めてきょとんとした顔を向けている。なんら変わりのない普通の顔である。

「どうかされましたか」

「いや、うん、ううむ、いいですね、やりましょう。書きましょう、はい」

 結局、自分でも訳の分からぬまま二つ返事で引き受けてしまい、その後はリストの上で顔を付き合わせながらエッセイの題材を練ることになってしまった。とはいえその後の打ち合わせはほとんど佐武氏が主導する形で、私の方は意識がいよいよ朦朧とし始めていたので佐武氏の提案にただただ頷くだけの張り子の牛になり、気が付けばセーター姿のまま自室の万年床の中へぼんやりと潜り込んでいた。いやこう書くと佐武氏の口車に乗せられたまま不本意に連載を引き受けてしまったような印象を与えてしまうかもしれないがそうではない、なにしろ仕事とはいえ食いたかったものを思うさま食えるのだ、引き受ける理由は十分すぎるほどにある。あるのだが、あの瞬間、なにか得体の知れない黒いもやがずるりと私に取り憑いて私に首を縦に振らせたような気がしないと言えば嘘になる。あれは一体なんだったのか、食欲の妖怪だろうか。この先、佐武氏の提案通りに幻想食を貪り続けたとしたら、この連載が終わる頃には私そのものが八百枚の舌を持つ化け物に変わってしまうのではないだろうか。だとしたら連載の最後はかつて物書きであった妖怪の舌の煮付けかなにかで締めくくられるべきであろう。そんなものをどこの誰が食するのかは知ったことではないが。

 ともかく私の幻想食エッセイはこうして始まってしまった。無事に連載が完遂するのを願うばかりであるが、のっけから妖精のホットケーキを食してしまった

以上はもはや運を天に任せるばかりである。

「次は人魚なんてどうでしょう」

 どこか弾んだ佐武氏の声が耳から離れない。ということで次回は人魚を食う。

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八百枚の舌 江古田煩人 @EgotaBonjin

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