無能と呼ばれたとしても

三鹿ショート

無能と呼ばれたとしても

 毎日のように見下され、罵倒されることが繰り返されたとしても、慣れることはない。

 心ない言葉をぶつけられれば、怒りを抱き、悲しみ、涙を流したくなることは自然のことだろう。

 そのような態度を示されることがないように自らを磨けば良いのだろうが、私にとって努力とは、無駄な行為に等しかった。

 どれほど時間をかけたとしても、新たな知識が身につくことはなく、右から左へと通り過ぎるだけだったのである。

 ゆえに、他者からの評価が良くなることはなく、私は辛酸を嘗める日々を過ごさなければならなかったのだ。

 だが、彼女と出会ったことで、私の世界は変化した。

 彼女は地面を舐めるような生活を送る私に、手を差し伸べてきたのだ。

 その手が汚れることも厭わず、彼女は私を引っ張り上げると、

「この世を去った方が幸福ではないかと思うほどに侮られたとしても、生き続けることを選んでいるあなたは、強い人間だと私は思うのです」

 笑みを浮かべた彼女のその言葉は、私の涙腺を容易に崩壊させた。

 そのような温かい言葉をかけられたことは、生まれて初めてのことだったからだ。

 私にとって、彼女は女神のようだった。


***


 手を差し伸べてくれた謝礼として、私は彼女のために行動することを決めた。

 食事を作り、職場まで自動車で送迎するなどの行為に、彼女は困惑したような様子を見せていたが、やがてそれを笑顔で受け入れるようになった。

 そのような生活が半年ほど続いた頃、不意に彼女が私の手を握りしめながら、

「これほど共に多くの時間を過ごしているのです。恋人という関係に至ったところで、あまり問題は無いのではないでしょうか」

 その甘い声に、私の脳は痺れた。

 気が付けば、私は彼女との初めての夜を過ごしていた。

 人生において、このような経験をするとは想像もしていなかったため、夢でも見ているのでは無いかと思った。

 しかし、隣で寝息を立てている彼女の姿を見れば、これが現実であると信ずることができた。

 もしかすると、彼女と出会うために、私は生き続けていたのではないだろうか。


***


 職場の同僚が私にその問いを発してきたのは、突然のことだった。

「あなたの恋人には、兄か弟が存在しているのですか」

 私は首を横に振った後、何故そのようなことを訊ねるのかと問うた。

 その言葉に、同僚はこのようなことを告げることはどうかと思うのですがと前置きをしてから、

「先日、とある飲食店において、男性と二人きりで食事をしている姿を目にしたのです。実に楽しげな様子でしたので、親戚か何かかと」

「友人や同僚ということもあるのではないだろうか」

「それにしては、格好がやけに煽情的だったのです。普段着ならば違和感は無いでしょうが、あなたの恋人は、日頃からそのような格好なのですか」

 そう告げられ、私は困惑した。

 常の彼女の格好は、色香を振りまくようなものではない。

 私と共に外出をするときですら、色気を感じさせるような衣服を着用したことはなかったのだ。

 それから同僚が何かを話し続けていたが、その言葉が私の耳に入ることはなかった。


***


 彼女を疑っているわけではないが、同僚の言葉が気になってしまい、私は尾行することを決めた。

 少し離れた場所から彼女を観察していると、やがて彼女はとある商業施設の中へと入っていった。

 そして、迷いの無い足取りで公衆便所の中に消えた。

 しばらく外で待っていたところ、やがて彼女が姿を現したのだが、私は目を疑った。

 彼女の格好が、煽情的なものへと変化していたからだ。

 私と共に生活をしている自宅を出たときとは、明らかに異なっている。

 わざわざこのような場所で着替えるということは、その格好に意味が存在していることに他ならない。

 胸騒ぎを覚えながら尾行を続けたところ、やがて彼女は一人の男性に手を振って近付いて行った。

 そして、接吻をした。

 二人は笑みを浮かべながら手を繋ぎ、飲食店で食事をした後、とある宿泊施設の中へと消えていった。

 これは、完全なる裏切り行為である。

 私はその場で崩れ落ちたが、気に留める人間は存在していなかった。


***


 言い逃れをすることができないように、彼女が男性と食事をしているところに、私は直撃した。

 私が姿を現したことに彼女は驚いていたが、相手の男性は口元を緩めると、

「彼が、例の」

 その言葉が引っかかったために、私は相手に問うた。

「例の、とはどういうことだ」

 怒気を帯びている私の言葉に対して、相手の男性は余裕の態度を崩すことなく、

「執事、もしくは、手伝いの人間だという意味だ」

 男性は財布から紙幣を取り出すと、それを私に見せつけるようにしながら、

「きみが彼女に貢いだ金銭は、我々の遊興費として実に役立っている。これからも、彼女を支えてほしいものだ」

 私が目を向けると、彼女は大きく息を吐いた。

 そして、私に告げた。

「あなたのような人間は、少しばかり優しくすれば、簡単に心を許すものだと思っていました。ですが、騙していたわけではありません。あなたが人生における心の支えを得ることができるようになった代わりに、私はあなたから金銭を得ていたのですから、互いに利益が存在しているでしょう」

 その目つきは、私を見下している人間たちのそれと何も変わりが無かった。

 私は洋卓の上に置いてあった食事用の刃物を手にすると、それを迷うことなく、彼女の首に突き刺した。

 店内が騒がしくなるが、私が手を止めることはない。

 逃げようとした相手の男性の襟首を掴み、床に引き落とすと、その顔面を思い切り踏みつけた。

 何度も踏みつけているうちに、男性の声が聞こえなくなったが、それでも行為を止めることはない。

 やがて、私は駆けつけた制服姿の人間たちに捕らわれ、然るべき場所へと連れて行かれた。

 事情を聞いた人間は同情を示してくれたが、それは何の意味も無い。

 其処で、私は初めて後悔を覚えた。

 このような行為に及ぶことができるのならば、これまで私を馬鹿にしていた人々に反撃すれば良かったということを。

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無能と呼ばれたとしても 三鹿ショート @mijikashort

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