第8話 大団円

 自分の中に、もう一人の自分がいることに気づいている人はたくさんいるだろう。しかし、もう一人の自分が別の肉体で存在しているかも知れないということを、可能性としては信じているが、そこまで考えて人はなかなかいない。

 それは、皆、

「心のどこかで、ドッペルゲンガーの存在を恐れている」

 ということではないだろうか?

 そんなに有名ではない気がすると思っていたドッペルゲンガーの話であるが、若い女の子など、

「聞けば話としては、オカルトとして、興味を持つような話だとは思うが、聴く人ほとんどが、ドッペルゲンガーを知っている」

 というではないか。

 しかも、

「見たら死ぬ」

 というところまで知っているという。

「どうしてそんなにたくさんの人が知っているのか?」

 と考えると、

「本当は皆が知っているべきことで、それを知らなかった自分がおかしいのではないか?」

 ということを思った。

 つまり、自分が知ったのは、大人になってからで、

「自分が大人になるまで知らなかったことを、他の人が知っているわけはない」

 という、根拠のない自信めいたものが、松平にも岡本にもあった。

 二人には、

「そういうまわりに対して、自分勝手にマウントを取りたがるかのような思いがあるくせに、自分に自信がない」

 という不思議な共通点があった。

 しかも、そのくせ、

「基本的には、自分が知っていることは、皆が知っている」

 と思っているのだ。

 だからなのか、自分が知らなかったことを、まわり皆が知っていたということを、不思議とは思わず、逆に、忌々しいという感覚で感じる。それが次第に自分を信じられないようにしていったのかも知れない。

 それも、本人に意識なくである。

 そのうちに、とどめのようにまわりから、何か指摘を受けてしまうと、

「人から叱られた」

 というよりも、さらにショックな感覚が自分の中に芽生えてしまい、それがいいのか悪いのか、考えさせられてしまうのだ。

 岡本のように、科学的な発想をしていると、どうしても理屈的になってしまう。

 ちょっとしたことでも理屈に合わないことは、頭にのこってしまい、ショッキングなこととして、その後に感じることに対しての、何かの理由付けにしてしまう。

 となると、意識は決していい方には働かないだろう。

 どんどんネガティブになっていき、最後は自分までが信じられない。

 しかも、一度信じられなくなると、どんどん深みに嵌り、

「負のスパイラル」

 を形成してしまうのだった。

 それが恐ろしいと感じてしまうと、気持ちは保守的になり、何かがあった時、

「悪いのは自分なんだ」

 と思うようになるだろう。

 というのも、悪いのが自分だと思うと、気持ちは楽なのである。

「人のせいにして、押し付ける方が楽なはずなのに」

 と自分でも分かっていながら、どうしても押し付けることができない。

 それだけ、闇が深いというのか、鬱状態に陥っていることで、何をやっても、悪い方にしかいかないと思うからだろう。

 悪い方にしか考えが及ばないと、結局自分ばかりが自信を持てなくなってしまい、やはり、

「自分にできることは、まわりも皆できるんだ。だから、まわりができることでなければ、この俺にできるわけはないんだ」

 と思い込んでしまうのだろうと感じるのだった。

 松平の方は、どうしても、ハイド氏の、

「必要悪なのか?」

 というところにこだわっているようだった。

 必要悪なのかどうなのか、

「別に自分には関係のないことだ」

 ということで、それほど頭の中で考えようとしない岡本に比べて、松平は、どうしても、必要悪だと思いたいのだ。

 それは、きっと、

「自分は、ハイド氏のように、実は影の男なんだ」

 と思っているからだ。

 何かのきっかけで表の世界に出てきてしまったが、本当は裏の人間であり、そのことに対して、

「分かってくれる人など、誰もいないだろう」

 として、そもそも、必要悪というものを、まわりの人が意識はしているかも知れないが、

「タブー」

 ということで、誰も意識はしながら、触れてはいけないものだと思っていると感じていた。

 しかも、まわりは、松平を、

「あいつは、タブーな存在だ」

 ということで、

「口にするのも、恥ずかしい」

 と思われていると感じていた。

「エロの世界のように画すべき性格を持った男?」

 と思った時、

「それだったら、まるでこの俺が、必要悪のようじゃないか?」

 と感じた。

 考えれば考えるほど、悪い方に向かっていき、

「必要のない。絶対悪なのかも知れない」

 と思うようになったが、

「なぜ、自分が悪なのかと思い込んだのか?」

 その理屈が分からない。

「自分が悪なのだ」

 ということが最初からデフォルトで存在し、そこからすべてが始まっているのだ。

 彼の原点はゼロではない。マイナスから始まっている。つまりは、

「除算方式」

 では考えられないということだ。

「ゼロに見えたとしても、本当のゼロではなく、限りなくゼロに近い微々たるものであったとしても、ゼロとの違いは、その存在の有無にある」

 ということになる。

「限りなくゼロに近い存在」

 というのは、どんなに小さくても、伸びしろという余裕、いや、

「遊びの部分」

 が存在するのだ。

 それさえあれば、

「どんなにも先に進んでいくことができる」

 といえるのではないか?

 それが自分にはなく、あるとすれば、

「マイナスの伸びしろ」

 である。

 躁鬱のように、バイオリズムがゼロを中心に、描いているのだとすれば、次に躁状態にいける。

 しかし、自分がハイド氏になり切ってしまえば、どれだけ足掻こうとも、ジキル博士に行くことはできないのだ。

 そうなると、考えることは、

「自分を殺すことで、ジキル博士も抹殺しよう」

 という考えだった。

 そういう意味で、

「ジキル博士がハイド氏を殺したのではなく、ハイド氏自身が、自分を犠牲にしてでも、ジキル博士を抹殺したかった」

 と思ったのかも知れない。

 その気持ちは、実は分からないでもない。

 何しろ、ハイド氏というのは、ジキル博士の作り出した妄想の世界であり、ジキルが枷が薬などを発明しなければ、この世に生を受けるはずのものではなかった。

 つまりは、ハイド氏というのは、

「ジキル博士のもう一人の自分」

 というわけではなく、ジキル博士がノイローゼになったことで、

「今の自分とはまったく違う自分を作って、その世界に逃げ出したい」

 と思ったのかも知れない。

 ジキル博士は、精神が混乱している自分の性格を、きっと、

「悪だ」

 と思ったのだろう。

 もちろん、あくまでも、

「必要悪」

 である。

 だから、自分から生まれるハイド氏は、自分と正反対の人間だという思いから、

「きっと正義の人物が生まれているに違いない」

 と思い込んでいた。

 しかし、実際に生まれたのは、極悪非道の人物だった。そういう意味では、フランケンシュタインの最初とかぶるところがある。

「理想を作ろうとして、最悪を生み出す」

 という発想が、物語性を持っているということなのだろう。

 そんなフランケンシュタインをどう思うかということだが、

「必要悪でも、絶対悪でもない悪の存在」

 ではないかと思うのだ。

 つまり、

「悪ではあるが、それは人間が勝手に作り出したもの。滅ぼされたとしても、それは自業自得だ」

 という運命を持っていたとして、それでも、生きるために必死に抗う人間の姿というものが、物語の主題となっていく。

 それを思うと。ハイド氏というのは、

「人間の欲や傲慢さが生み出した悪だ」

 ということになる。

「悪であるハイド氏に罪はない。しかし、悪であることに変わりはない」

 ということになり、

「本当にハイド氏を悪と読んでもいいのだろうか?」

 と思うのだ。

 そこまで考えると、

「必要悪という言葉は昔からあったわけではなく。フランケンシュタインやハイド氏のような人物を作り上げることで、物語にバリエーションを付けたことで、彼らをいかに評価するかということが問題になった時、初めて生まれた概念が、この、

「必要悪なのではないだろうか?」

 といえるような気がするのだった。

「ジキルとハイド」

「フランケンシュタイン」

 という話は、それぞれに独立しているように見えるが、根底の部分で繋がっている。

 そんなことを考えていると、必要悪は、本当に必要だと思うようになった。

「必要悪というのは、本当に悪なのか?」

 というところから考えるべきなのだろう。

 松平は、そのあたりまで考えるようになっていた。

 岡本と松平というのは、お互いに実はニアミスをしていたのだが、お互いに引き合うところはなく、通り過ぎていた。

 ただ、それは、お互いが意識していないだけであり、まわりは、バリバリ意識をしていた。

 そう、まるで二人は同じ人間のように見えているのだ。

 普段は表に出てくることのないハイド氏は、自分が表に出てくると、ジキル博士とは似ても似つかぬ人物になるのだろう。

 当然性格は正反対。誰が気づくというのか。

 だから、物語になるのであって、二人の存在がいかに、脅威な問題なのかということを、一体誰が感じるというのだろう。

 しかし、ジキルとハイドもそうであるが、二人がまったく出会わないことで、この世が何とかなっているのであって。この二人が会ってしまうと、

「タイムパラドックスを引き起こすことになるのではないか?」

 とも考えられる。

 それこそ、この世でのタブー、同一人物が、同一時間帯の同一次元に存在するということで、それこそ、

「ドッペルゲンガー」

 になるのだった。

 だが、それをタブーにしないようにするには。理由付けがいる。そこで登場するのが、パラレルワールドの発想だ。

 こちらは、タイムパラドックスも憑依している。

 となると、

「パラレルワールドというのは、何事に対しても、潰しが利く、言い訳のような存在。もっといえば、トランプゲームなどで使える。オールマイティなカードのようなものではないか?」

 といえるのではないだろうか?

 そんなことを考えていると、今度は、もう一つの疑念が生まれてきた。

 そのことは、岡本氏と松平氏との両方がどうも同時に考えたことのようで、

「もう一人の自分が存在しているのではないか?」

 と思ったのだ。

 つまり、二人は同時に、

「自分はジキル博士か、ハイド氏なのではないか? そして、どこかに、自分と対になる人物が存在している」

 と思った。

 それは、あくまでも、ドッペルゲンガーのような、もう一人の自分ではなく、同じ自分だとしても、見た目も違っている。

「ジキル博士とハイド氏」

 であった。

 そう思うと、急に怖くなった。

「そうなると、自分がハイド氏であれば、少なくとも死ななけれなならないのではないか?」

 と感じたことだ。

 しかし、二人ともその時、

「ジキル博士が一緒に死んでいたのではないか?」

 ということを、すっかり頭の中から消してしまっていたのだった……。


                 (  完  )

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多元的二重人格の話 森本 晃次 @kakku

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