第7話 必要悪

「ジキルとハイド」

 という話を拡大解釈している二人、岡本と松平であるが、それぞれに発想は違うところに向かっているようだが、どこかで引き寄せられるように繋がっていくかのようだった。

 岡本は、そこから、

「ロボット開発や、タイムマシン」

 というような、

「近未来への科学的な発想」

 が生まれてきたのだし、

 松平は、そこから、躁鬱症であったり、二重人格性であったり、というような

「心理的な、さらにトリック的な発想」

 が生まれてくるのだった。

 二人はまったく違った発想に思いを抱いているように見えるが、どこかで惹かれ合うように、そのうち、岡本は松平のように、心理的な発想に向かい。松平は、近未来を科学的に見るという考えに至ることになるであろう。

 そのことを、二人とも、実は予感めいたものがあるようだった。

 そして、二人がハイド氏に対して、他の人では感じることのないと思うような発想を、お互いに感じていることを、誰が知っているというのだろう。それこそ、

「神のみぞ知る」

 ということなのか、

 この二人に共通して言えることは、

「ジキルとハイドという話は、別に架空の話でも何でもなく、普通の人間であれば、誰にでもあり得ることだ」

 と思っていることだった。

 ただ、この発想は、二人に限ったことではなく、他の人も結構感じていることではないだろうか?

 そういう意味では、二人もそうだが、他の人も、

「自分でも考えているし、他にも同じ考えの人は少なくはないだろう」

 と感じていると思っている。

 そして、

「ジキル博士がハイド氏の抹殺を図るが、実際にハイド氏を抹殺すると、ジキル博士も死んでしまうというのは、どういうものか?」

 と、同一の肉体で、片方の性格を殺したことで、普通なら、その人自身が死んでしまうということはないのだろうが、ここまで、もう一つの人格をお互いが知っているということになると、片方だけが生き残るという発想は、少し違うと思うのも無理もないと思うのだった。

 しかし、本来なら、そう思う方が実に自然なのに、どうして、

「ハイド氏を抹殺したジキル博士までが死を迎えるという結末なのか?」

 と考えるが、それも実は無理もないことなのだ。

 物語性を考えれば分かることで、

「最後に、まわりから、ハイド氏は、もう一人のジキル博士だったということを皆に知ってもらうことになるのが目的である。しかし、言葉で説明しても、普通はそんなバカなことがあるはずはないといって、まず信用してもらえないというのが、関の山だといってもいいだろう」

 と考える。

「しかし、ジキル博士も一緒に死ぬことで、ハイド氏が同じ時期から出てくることはなかったとすれば、ジキル博士は自分の命と引き換えに、ハイド氏の存在を説明したかったのだということになるだろう。しかし、そうなってしまうと、どうにもジキル博士は浮かばれないということになるのだろうが、ジキル博士が、実は自殺をずっと考えているような人間だったということにしてしまうと、ほとんどの人間、誰であっても生きているうちに、一度や二度の自殺を考えるということと結びつけることで、説明できるのではないかといえる」

 と、そんな風に考えるのだった。

 そんなことを考えてきた二人にとって、共通の行き着く先に、

「ハイド氏は、必要悪ではないだろうか?」

 というのが浮かんできたことであった。

 世の中には、いろいろな必要悪がある。

 基本的に、

「悪というものは、この世で必要のないものなのに、なぜか消えずに蔓延っているものでじゃないか」

 と言われるが、確かにそうである。

 では、

「なぜ消えずに残っているものなのか?」

 ということを普通は考えないだろう。

「憎まれっ子、世に憚る」

 と言われるが、それだけだろうか?

 考えてみれば、

「必要悪」

 という言葉が残っているということは、言葉ができるほどセンセーショナルな発想をした人がいて、まわりが、それを意識したということではないのだろうか?

 言葉までできているということは、それだけ、意識する人が少なくはなかったということなので、大げさではあるが、

「社会問題」

 のようなものになっていたといっても大げさではないのではないだろうか?

 ただ、そのわりには、何かがなければ、誰も、

「必要悪」

 などと言う言葉を発することはないだろう。

 というのも、必要悪というのは、

「人それぞれで感覚が違うものであり、どこか微妙なものではないだろうか?」

 と考えられるように思うからだった。

 確かに、必要悪と言われて、何があるのかと聞かれた時、複数回答を可とした場合に、皆バラバラだったりするものだ。

 しかも、誰か一人の回答を、他の数人に開示したりすると、

「えっ? これはありえないでしょう」

 と、他の人が十人中、十人がそういうこともあるかも知れない。

 そういう意味で、

「微妙だ」

 と言ったのであって、それだけに、あまり、

「必要悪」

 という言葉が使われないのではないかと思えるのだった。

 必要悪と言われて。ピンとくるものは何だろう?

 まず考えられるのは、

「一般的に考えて、倫理的にアウトであるが、存在しないと、却って社会問題を引き起こす」

 というものである。

 ただ、これを、悪と言い切ったり、仕方がないで片付けてしまうと、必ずそれぞれの派閥から反発が必至なものである。

 まず一つとして、

「堕胎」

 というものがあるだろう。

 堕胎というと、

「人間の命を奪うものだから、それは悪だ」

 と言い切ってしまうと、

「いや、養育能力のない親が産んで、結局孤児院などに預けられることになると、生まれてくるのも、酷だし、社会的にも多くなれば大問題だ」

 ということになるだろう。

 まさに、

「倫理と現実の狭間」

 といえるだろう。

 また、他には、実に危険なものとして昔から言われているのは、〇ボーと言われている人たちである。

 ある意味、風俗やギャンブル業界を守るために存在していると考えると、決して、なくなってしまうわけにはいかないであろう。

 逆に、風俗やギャンブル業界こそ、

「悪の根源だ」

 などと思っている人がいれば、それは大きな間違いである。

 確かに。

「みかじめ料」

 のようなものを必要とすることで、悪のイメージがあるが、これだって、普通に商売をしているのと何が違うというのか、ある意味、怖いのは、表の世界に生きている人間が、中途半端な好奇心だけで、裏の世界に飛び込んだ場合であり、裏の世界を取り仕切る人がいないと、本当に無法地帯になってしまう。

 そんな無法地帯になってしまうと、裏の世界が崩壊することになる。そうなると表の世界も無事ではすまないだろう。

「ジキルとハイド」

 の話で、

「ハイド氏が死んでしまうと、表のジキル博士も死んでしまう」

 ということになってしまうと、裏の世界が壊れたその瞬間に、

「表の世界も、一瞬にして消え去ってしまう」

 ということに理屈的にはなるだろう。

 そんなことがあってはいけないために、彼らは存在していると思えば、彼らのことを、

「裏社会での警察」

 といってもいいのではないか。

 そう思うからこそ、

「彼らは必要悪と呼ばれるのだ」

 と説明がつくのではないだろうか?

 実際の必要悪というものがどういうものなのか、正直分からない。

 しかし、必要悪の反対である。絶対悪というものがあるというが、その違いがどこにあるのかというのも、難しい。

「そもそも、絶対悪というものが存在するのだろうか?」

 ともいえるのではないだろうか?

「悪というものを、犯罪と同じ位置に捉えると、少し違った発想になるのではないか?」

 と考えている。

 というのは、

「犯罪を犯したから、避難されるのか?」

 それとも、

「非難されるようなことをしたから、犯罪なのか?」

 という考えである。

 どちらも同じことのように感じるが、その視点をどこに置くか? そして、答えはどこにあるのか? などということを考えていると、その違いが判ってくるのではないだろうか?

 つまり、ここでいう非難というのは、

「悪である」

 ということになるのだと考えるのだ。

 前者の場合は。少しおかしな気がする。この言葉を全面的に正しいと考えるならば、

「犯罪というのは、そのすべてが、非難されるべきものだ」

 と決めつけてしまい、

「非難されない犯罪はない」

 ということになるだろう。

 もちろん、犯罪は悪いことなのだろうから、非難されることがほとんどであろう

 しかし、そのすべてを悪だと考えると、

「では、やむを得ず犯したものも悪ということになるのだろうか?」

 ということになる。

 例えば、

「違法性阻却の事由」

 のように、正当防衛であったり、緊急避難などは、法律で裁かれないと書かれている。

 だとすると、

「これは、悪ではないか?」

 と考えると、悪にしてしまう自分がいる。

 だが、それは、一足飛びであり、自分で本当に理解できているのか? ということが問題だ。

 だから、ワンクッションという意味での。

「必要悪」

 という存在があってもいいのではないかと思う。

 必要悪というものに対して。

「絶対に一つしかない考えだ」

 というのも、どこかおかしな気がするのではにあだろうか?

 そういう意味で考えると、必要悪というものが、

「どこか曖昧ではあるが、ハッキリさせてしまうと、その柔軟性が失われるという意味で、難しい解釈になる」

 と考えるのは無理もないのではないか?

 と考えるのだった。

 必要悪というものを、言葉くらいは知っていて、そして漠然と考えている人も少なくはないと思う。しかし、その曖昧さがいいのか悪いのか、賛否別れるところであろう。逆にそこも柔軟性の一つなのではないかと思えるのだ。

 そういう意味で、

「ハイド氏が必要悪だ」

 とは、

「ジキルとハイド」

 という話から発想するのは、無理があるだろう。

 一足飛びに考えてしまうことになるからだ。

 あの終わり方を考えると、ジキル博士が死んでしまうというのは、ある意味、ジキル博士の、

「自業自得だ」

 といえるだろう。

 その理由が、

「絶対悪であるハイド氏を生み出したのだから、必要悪ではない」

 という思いである。

 そもそも、絶対悪というものの存在も疑わしいと二人は思っていた。

「まったく必要のないものが、この世にあるということになる」

 という考え方で。それは、一種の、

「暗黒の星の否定につながる」

 と考えたからだ。

 暗黒の星というのは、ある天文学者が創造したものとして、どこかで見たような気がしするものであるが、

「星というものは、自分で光を発するか、あるいは、光を発しているものに反射する形で光っているものだ。しかし、天体の中には、自ら光を発することもなく、光を反射させる能力のない、暗黒の星が存在するという」

 という発想であった。

 この星がいつか、地球にぶつかるという話であったが、架空の話なのか、それとも、何かの根拠に基づいて、天文学者が本当に提唱したものなのかは分からない。

 しかし、そこまでの発想は、

「言われてみれば、確かにあり得ることだ。どうして、今までそのことを感じなかったのだろうか?」

 といえるものであった。

 必要悪というのも、そういうものではないだろうか?

 しかし、この場合の

「暗黒の星」

 は、絶対悪に匹敵するだろう。

 悪であり、まったく必要としないもので、この世に存在してはいけないものだ。だからこそ、この発想をする人は実に少ないのだ。

 ということは、今の世の中で、

「悪」

 と言われているものの、そのほとんどは必要悪ということになる。

 そうなれば、必要悪の存在を否定するのであれば、世の中から悪はなくなってしまうことになる。それは絶対にありえない。つまりは、それだけ悪が必要なのだからだと言え恵右であろう。

 ハイド氏も必要悪だったとすれば、ジキル博士の死は、まったくの無駄ということになる。

 もし、この考えを作者が持っていたとすれば、ジキル博士の死に対しては、ハイド氏を呼び出したことに対しての自業自得と、二人が同一人物だということを、最終的なトリックとして、読者にセンセーショナルな形で植え付けることになるということになるのだろう。

 必要悪としての、面目躍如だといっていいだろう。

 もちろん、同一の時間軸で、別次元という、

「パラレルワールド」

 の存在が、

「同一次元の同一時間軸に同じ人間が存在していることにより、その存在を知った人間は死んでしまう」

 という、

「ドッペルゲンガー」

 というものの存在の理由付けをしているのだとすれば、パラレルワールドというものを、ジキルとハイドに当てはめて考えたとすれば、

「ジキル博士のやったことは、ドッペルゲンガーへの挑戦であり、パラレルワールド説を、完全に覆している」

 ということになるのだ。

 そういう意味で、ジキル博士は最初から、罪深き人間ということになり、死というものは、最初から確定していたといってもいい。

 だから、ハイド氏が死のうが生きようが、最終的に、ジキル博士の命はなかったわけで、ジキル博士によるハイド氏の抹殺は、まさに、

「立つ鳥跡を濁さず」

 という、ことだったのかも知れない。

 最後における、

「ハイド氏の死」

 というものは、ジキル博士における、

「罪滅ぼし」

 と、

「自殺への道連れ」

 ということだったのだろう。

 だからと言って、ハイド氏のようなもう一人の自分を殺すことで、ジキル氏も死んでしまうということが正しいのかどうなのか、議論は続くだろう。

 実際に起きることと、モラル的なことが、合うのか合わないのか、それによって、世界の成り立ちというものも変わってくる。

 そういう意味で、

「ハイド氏が本当の必要悪なのかどうか?」

 ということになるのだろう。

 ただし、

「ドッペルゲンガーを見れば死ぬ」

 ということは、これまでに、いろいろな著名人が、ドッペルゲンガーを目撃したばかりではなく、本当に命を落としている。そういう意味で、ドッペルゲンガーのオカルト的な都市伝説は、脈々と受け継がれていき、本当に、

「ドッペルゲンガーを見ると死ぬ」

 と言われることが、パラレルワールドの発想が、ドッペルゲンガーの理由付けと言われるようになったのか?

 それとも逆に、

「ドッペルゲンガーの都市伝説を説明しようとして、パラレルワールドという発想が創造されたのだろうか?」

 普通に考えれば後者なのだろうが、あまりにも、うまく理屈が嵌りすぎているため、やはり、ドッペルゲンガーという伝説があり、パラレルワールドが、別の次元から生まれた発想として存在していて、その説明にピタリと当て嵌まったということだろう。

 ドッペルゲンガーを見たことで死んでいった著名人たちの、死ぬ間際の逸話などを聞いていると、

「いかにも、パラレルワールドの考えが、ドッペルゲンガーが死に絡んだ」

 というのを証明しているのではないだろうか?

 相手が著名人なだけに、

「著名人として、この世に名を遺すような人たちは、ドッペルゲンガーを証明するために、この世に存在していたのではないか?」

 と、彼ら著名人が、志半ばで亡くなるというのは、必ずドッペルゲンガーが影響している。

 つまり、謎めいた死を迎えた人たち、謎に満ちた暗殺だったり、原因不明の病死だったりした人の中には、ドッペルゲンガーが見え隠れしているのかも知れない。

「織田信長、平清盛、蘇我入鹿、坂本龍馬」

 などと言った、

「死んだことで、世の中の時間が100年さかのぼってしまった」

 と呼ばれる人たちの謎の死や暗殺を、ドッペルゲンガーと結び付けたいと思うのも、無理もないことであった。

「では、ドッペルゲンガーは、必要悪ではないのか?」

 という発想が生まれてきた。

 ハイド氏は、自分と同一の肉体を共有していることで、

「必要悪ではないか?」

 という発想があったが、実は、

「ジキル博士の死は、ハイド氏の死と、直接的な関係にはない」

 という発想になった場合、

「ハイド氏は、必ずしも、必要悪ではない」

 といえるのではないか?

 だとすれば、ハイド氏の存在と同じ発想として、パラレルワールドによる理由付けという意味で、似たような発想があるのだということになれば、

「ドッペルゲンガーも、必要悪ではない」

 といえるのではないだろうか?

 しかし、実際に、

「ドッペルゲンガーを目撃した人が死を迎えたのは事実だ」

 と言われていることから、必要悪として、抹殺するのは、恐ろしいともいえる。

 ただ、それは、あくまでも、その人の死を、ドッペルゲンガーによるものだということにしてしまうから問題なのである。

 人の運命は決まっていて、人間に、その運命を変える力はない。あるとすれば、

「いつ、いつ死を迎えるか?」

 ということが分かるという力くらいであろう。

 しかも、その力もかなり前からではなく、実際に死を迎える寸前でなければ分からないというものであり、本人にも、

「それが本当に迎える死の前兆である」

 と、感じさせないためのものだとすると、その前兆として、まるで夢でも見ているかのような、ドッペルゲンガーを見せるという方法しかないのかも知れない。

「人間が死を迎える瞬間を、人間が知るというのは、許されないことだ」

 とするならば、

「夢として、士気を見せる」

 という方法か、ドッペルゲンガーを見せることで、死を感じさせるギリギリの予感として、創造されたものが、ドッペルゲンガーではないだろうか?

 すると、そのドッペルゲンガーを生み出したのは何であるか?

 ドッペルゲンガーというそもそもの存在を生み出せるのは、人間しかいないと考えるのは飛躍しすぎなのかも知れないが、もし、これを生み出したのが、神だとすれば、そこに何の意味があるというのか。

 これまで、神話であったり、宗教の経典のようなものは、そのすべてが、神の手によるものだとすれば、

「人間にそのすべてのヒントを与えるのは、人間を作り出した神としての、当然のものではないか?」

 といえるのではないだろうか?

 もっとも、神話の類をすべて信憑性のあるものだと考えた場合のことであって、その信憑性が、ドッペルゲンガーというものをいかに証明できるかというのは、不透明だ。

 ということになると、

「ドッペルゲンガーというものを創造したのは、人間を創造した神とは別のものではないか?」

 といえるのではないだろうか?

「では、何か?」

 ということになると、出てくる答えは一つしかない。

「それは、人間以外の何があるというのだろうか?」

 というのが、普通の考えではないだろうか?

 ドッペルゲンガーというものが、人間に与えるものとしては、今のところ、

「悪意に満ちたものしか見ることができない」

 ということであれば、

「ドッペルゲンガーを生み出したのは、自分ではなく、自分の中にいるもう一人の自分、そう、ハイド氏なのではないだろうか?」

 ということで、曲がりなりにも、ドッペルゲンガーが、ハイド氏の存在を裏付けることになるなど、

「これを皮肉と言わずに、何と言えばいいのだろう?」

 といえるのではないだろうか?

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