第6話 自分を信じられない男

 世の中には、自分のことをどうしても信用できないと思っている人がいる。その人は、自分が信用できないと思うのは、

「肝心なことに限って忘れてしまうからだ」

 と思っている。

 というのは、肝心なことを忘れるというのは、さぞや、

「自分にとって、都合のいいことだけを覚えておこうと思う気持ちに表れではないか?」

 と思ったのだが、実はそれはおかしいと自分で思っている。

「覚えていないといけないと自分で思っているのだから、それは、自分に都合がいいとは言い難いのではないだろうか?」

 というのも、理屈としては通る気がする。

 彼が、自分のことを信用できないことを自覚したのは、

「元々、子供の頃から忘れやすい性格だった」

 ということだ。

 その頃は、正直、

「自分に都合の悪いことを忘れてしまうんだ:

 と思っていた。

 子供だからこそ許される感覚であるが、そう考える方が楽ではないか。

 つまり、

「自分に都合のいい悪いということを、分かっていないのではないか? あるいは、納得できていないからではないか?」

 と考えるのであった。

 彼は名前を、松平博という。

 松平は、子供の頃から忘れっぽい性格だったことを、実はまわりに隠していた。

「忘れっぽい性格だといえば、誰も寄ってこない」

 と思ったからだ。

 しかし、その性格を直さないと、人に迷惑をかけるということも自覚していて、だからこそ、陰で治そうとしていたのだ。

 だが、そんな努力は見る人が見れば分かるものだ。

 小学4年生の頃の担任の先生は分かっていたようだ。

 いや、それまでや、それ以降の先生も分かっていたのかも知れない。わかっていて、敢えて触れなかったのだとすれば、その理由はどこにあるというのだろう?

 それを考えると、小学4年生の注意してくれた先生を。最初は、

「何でいうんだ。こっちは必死に隠そうとしているのに」

 と思った。

 さすがに皆の見ている前で、それを公表するような下種な真似をする人ではなかったが陰でこっそりと言われるのも、何か気持ち悪い。

 そもそも、陰でコソコソすること自体が、松平は嫌いだったのだ。

 だから、この性格をまわりに知られないように治そうとしている自分が嫌いだった。

 そのうちに、

「自分を嫌いになる自分が嫌いだ」

 と思うようになったのだ。

 というのも、

「まるで、禅問答のようじゃないか?」

 と、まるで、

「裏の裏は表」

 だと考えていたのだ。

 松平という男も、どちらかというと、理屈っぽく考える方だった。

 さすがに、算数の最初で、

「一足す一は二」

 という計算の理屈が分からないといって、三年生くらいまで悩むということはなかったが、確かに最初は違和感があった。

 ここは、違和感なく突破すれば、気にすることはないのだ。

 突破するほどの力と無意識な感覚はなかったが、

「気が付けば、突破していた」

 ということであろうか?

 それを思うと、松平が自分をなかなか信じられないと思えることも、少しずつ分かってくる気がした。

 小学生の頃、人の秘密を、平気で暴露する、

「なんと無神経なやつなんだ」

 と感じるようなやつが確かにいた。

 そいつの本心は、

「俺が、少しでも、人のことが分かるんだということで、まるで人にはない能力を持っていることで、マウントを取りたい」

 と思っているのではないかと思うようになった。

 それだけ、彼は、自分が目立ちたいという思いを持っていて、それが、まわりに、

「無神経」

 だと、どれほど思わせるのかということを分かっていないということだろう。

 だから、

「マウントを取りたい=目立ちたい」

 という気持ちではないかと思うと、

「目立ちたい」

 と思う人は、どこか高圧的な感じに見えるのだ。

 皆が皆、そうだというわけではないだろうが、そうだと思うと、目立ちたいと思う人には、どこか警戒心を持つようになったのだが、それは、自分もどちらかというと、目立ちたいと思うところがあるからで、自分の中に、

「マウントを取りたい」

 という思いが、見え隠れしていると思うと、自分が少し嫌になっていた。

 ただ、自分は無神経ではないと思う。人が嫌がることは、自分だっていやだという理屈が分かっているので、人が嫌がることをしたくはない。

 だが、知らず知らずのうちにしているのか、たまに、

「「お前って、無神経なやつだな」

 と言われて、ショックを受けてしまい、もう何も言えなくなり、しばらくの間、人と話すのも嫌になる時期があった。

 そんな時期は、相当ショックであった。普段と同じ景色を見ているはずで、光景に変わりはなにのだが、何かが違うと感じるのだ。

 それは、見えている位置に変化がないので、すぐには気づかないが、

「そうか、背景色が違うんだ」

 と思うと、後ろに浮かんでいる景色の全体的な色が違うということなのだろう。

 その色は、黄色が飼って見えるのだ。すぐに背景色が違っていることに気づかなかったのは、そこに既視感があったからではないだろうか?

 既視感というのは、

「初めて見たわけではなく、視界として、記憶の中なのか、意識の中に入っているものではないか?」

 といえるだろう。

 意識の中と記憶の中、どのように違うのかというと、

「記憶の中というのは、一度意識したところから、時間が経ったことで、意識から離れ、記憶としての感覚に移ったということだが、意識というのは、最初から記憶として残そうかどうしようかを寒暖するための機能であり、そして意識を持っている間、それが自分の行動を抑止するものだ」 と感じていた。

 だから、記憶は最初からずっと続いていくものだが、意識の場合は、最初にそれを残すかどうか、つまり、記憶の方を残すかどうかを考えているのだった。

 意識というのは、そもそも、能動的な感覚で、記憶は受動的なものだ。

 だから、

「意識にはなく、記憶にだけ存在しているというのは、そこまで強く思ったわけではないが、記憶として残っていることなので、それが夢の世界と頭の中が混乱してしまうことなのかも知れない」

 と感じる。

 ただ、意識というものが強すぎると、そして、それが後ろ向きの思いだったりすると、その時自分が、

「鬱状態に突入したのではないだろうか?」

 と思うのではないだろうか?

 鬱状態というものを考えた時、

「元から自分に備わっているのかも知れない」

 と感じる。

 それはまさに、

「ジキル博士の中にいた、ハイド氏のようではないだろうか?」

 と感じるのだった。

 ジキル博士とハイド氏は、お互いにまったく別の性格が宿っているかのように思える。

しかも、それは正反対の性格である。

「そんなことは、分かり切っていることではないか」

 と他の人はいうかも知れないが、それは、実際に小説を読まずに言われていることを自分で解釈しているから、そう思うのだろう。

 しかし、それは、皆が思うことのはずで、

「自分だけが違う」

 というのはおかしなことだ。

 しかし、そう思いたいという感情が強いと、ハイド氏に、ネガティブな面しかない人間だということを余計に感じたいのだろう。

 ということは、

「ジキル博士が、躁状態の自分であり、ハイド氏が、鬱状態の自分だ」

 ということになるだろう。

「躁鬱症は、ずっと繰り返していて、そこからは抜け出すことは困難だ」

 ということになれば、その周期が問題だったりする。

 人によっては、毎日変わるものかも知れないし、一月ほどが周期の人もいるかも知れない。

 松平本人は自分の躁鬱状態を、2週間ほどだと思っている。それ以下でもそれ以上でも、続けていれば、相当きつい状態に一気に上り詰める気がしたからだ。

 最初の頃は、自分に躁鬱があるなど思ってもみなかった。しかも、思春期という微妙な時期に感じるようになったわけではなく、思春期が終わってから、結構経ってからのことだった。

 そして、躁鬱症の存在を感じた時、周期を繰り返すこと、そして、自分の中にもう一人いるということが、分かった時でもあった。

「きっと思春期の時に気づいていたとしても、自分の意識がどこまで、躁鬱症というものを受け入れたか分からないだろう」

 つまり、躁鬱症という状態を、

「夢でも見ているのと同じ感覚になるのではないだろうか?」

 と感じたからだった。

 確かに、躁状態の時には、鬱状態を、鬱状態の時には躁状態を意識することができない。それは、

「自分がなれないだろう」

 と感じることであり、

「自分の中にはないのではないか?」

 という感覚に陥るわけではなかったのだ。

 だが、それはハイド氏という存在を考えた時、

「自分の中にもいるのではないか?」

 と思うと、本当なら、

「いるわけないじゃん」

 と言って、納得いく感覚を得ることで、笑い話として終わらせられるのだろうが、一瞬でも、その存在を感じてしまうと、次第に大きくなってくるのを感じる。

 それは、感じたことで自分の感情の奥に、

「鬱状態」

 という部屋を作り、格納してしまったのか。それとも、

「そもそも、鬱状態は存在していて、鬱部屋がないだけではなかったのか?」

 と思ったが、どっちにしても、鬱部屋がほしいのは当たり前だった。

 自分の中の鬱状態は何をしでかすか分からない。その覚悟がなければ、早いうちであれば、取り消すことができるかも知れないと感じる鬱状態の意識に、翻弄されてしまうのではないだろうか。

 だが、ハイド氏は、ジキル博士でいる時には意識ができない。つまり、このように生を感じる時に自分の中で、気配を消そうとしているハイド氏を捉えることができないからだろう。

「ジキル博士とハイド氏」

 のことをもっと知りたいと思っても、なかなか知る機会もない。

 本屋か図書館に行けば読むことはできるのだろが、あるかどうか分からないと思っている時点で、

「本当に見つけることができるのか?」

 と感じてしまう自分がいるのを想像してみた。

 自分における躁鬱状態を考えてみたことがあった。

「鬱状態の時と躁状態の時で違うと感じるのは、まず、目の前の広がる全体的な色で、その次に感じるのは、身体全体に漂っている感覚の違いだ」

 と思っていた。

 視覚と感覚ということであるが、きっと他の感覚もそうなのだろうが、強く感じるのは、この二つなのだ。

 まず。視覚の場合は、全体的に見える色ということで、躁状態の時は普通に見えるのだが、鬱状態に入ると、そこは、全体的に、満遍なく黄色かかっているのだ。

 そうまるで、黄砂の時期の車窓のような、何か少し汚らしい黄色である。

 そう思った時に感じるのが、

「夕方の日差しの強い」

 という時であった。

 その暑さは、身体中にだるさが漲っていた。

 昼間のうだるような暑さのせいで、夕方にはすっかり体力を消耗し、食欲すらわいてこないような、

「バテた」

 という感覚、それが、

「身体中に漂う感覚」

 だったのだ。

 このけだるさは、身体全体で熱を受け止めたことで、表に発散されない熱が、身体に籠ってしまい、そのままけだるさになるのだ。

 そうなってしまうと、普段は受け付けるものを受け付けなくなり、何をするにも億劫で、身体の機能の中でも、重要な部分が停止してしまう。

 しかも、そこに、

「欲」

 というものまで停止することで、制御不能にさえなってくるだろう。

 つまり、食欲も、性欲も失ってしまうと、

「この俺の存在価値なんて、どこにあるというのだ?」

 と考えさせられる。

 普段は、いや、今まではと言った方がいいだろうが、結構いい加減に生きてきたことで、自分の存在価値はおろか、自分を顧みたりなどもしたことがなかった。

 そんな自分だったので、

「欲に没頭するのが、この俺なのかも知れないな」

 と、本来なら、あまりいい意味で使われない欲というものを、

「自分の存在意義」

 という見方で考えるという、一種の、

「免罪符」

 を切っているかのようだった。

 免罪符がそのまま言い訳なことは、当然分かっている。

 しかし、だからと言って、欲を否定しようとは思わない。

「問題は、欲以外に、自分の存在意義を持てないことにあるのであって、考え方に問題があるのではないか?」

 と感じた。

 そう考え方なのであるが、

「欲というものは、一般的に言われているものに限られる」

 と考えていた。

「食欲や性欲、支配欲などというものを欲というのだ」

 と思っていた。

 食べなければ死ぬという食欲はしょうがないとして、他の二つも、

「どこがまずいというのか?」

 と考えるが、言葉的に、あまりいい意味で用いられることはない。

 しかし、性欲を、

「子孫繁栄、種の保存」

 という観点から考えれば、なくてはならないもので、そのために、神が与えたものではないだろうか?

 と思えるのだが、それが自我と結びついて、エスカレートすると、性犯罪と呼ばれるものに発展し、ロクなことにはならないということで、性欲は一般的に、あまりいいたとえとして使われることはないだろう。

 支配欲もそうである。

「誰かが中心になって、支配できるカリスマがなければ、社会全体がなりたたないのではないか?」

 と考えると、一概に悪いことだとは言えないだろう。

 確かに、

「人間というのは、支配できる力を身につけると、配下のものに対して、どうしても軽んじて見てしまうことで、独裁に走ってしまうことになるだろう」

 と思えるが、それを抑えるために法律があったり、民主主義の場合には、権力分散の見地が、随所に見られる。

 だから、そんなに、

「独裁者の存在」

 を前面に出してしまい、支配者のカリスマ性を脅かしてしまうと、そこは、無政府となり、完全に無法地帯となってしまうだろう。

 そうなると、軍部による台頭であったり、今までは政府に抑えられていた、中途半端に力を持った無数の、

「反政府主義者」

 たちが現れ、混乱が巻き起こり、市民生活などまともに遅れなくなってしまう。自由という言葉はタブーとなり、誰からになるのかは、分からないが、独裁の道になることは分かり切ったことである。

 人間による、人間の支配というのは、別に人間だけではない。

 本能を中心に生きる、他の生物には当たり前のことである。

 しかし、人間は他の動物と違って、

「欲望のために、平気で人を殺す」

 という、唯一の動物である。

 ただ、それは、

「人間というものが、唯一欲望を持っている」

 からであり、ある意味、

「本能と生存のために同胞や、他の動物を殺す」

 という人間以外の動物とどう違うというのだろう。

「人間は欲のために人を殺すが、動物はしない」

 と言われ、人間がいかにも、野蛮で卑劣な動物に聞こえるような書き方をしているミステリーなどがあるが、それはあくまでも、ミステリーとして、人間を描いた時の、

「人間の人を殺す意義」

 ということを表し、小説をさらに面白く読者に感じさせるための、一種のプロパガンダのようなものである。

 読者も、半分はそのつもりで読んでいるので、それを言葉にされると、余計に、

「洗脳された」

 ことになり、そのくせ、洗脳とは決して思わない。

「洗脳こそが、人による人の支配の根底にあるからだ」

 といえるのではないだろうか?

 それを思うと、洗脳は仕方のないことであり、それにより、自分の行動が一種の本人によるものであるという感覚が見え隠れする中で、支配者のカリスマ性のせいで、

「自分の行動は悪いことに見えたとしても、神に許された行動なのだから、悪いことではないんだ」

 という思いを抱くことで、自分が、

「洗脳されている」

 という意識も、

「カリスマに間違いはない」

 という意識も、自分の中で一切疑わずに、当たり前のことのように感じられるのではないだろうか?

 そんな洗脳によってのカリスマ性、それがある意味、他の動物の本能と果たして、どこが違うというのだろうか?

 ミステリーに言われる、

「人間は欲のために人を殺すが、動物はしない」

 というのは本当なのだろうが、ただ、

「人間の欲と、他の動物の本能とでは、何がどう違うというのだろうか?」

 と考えれば、果たして、これについて、納得のいく回答をしてくれる人がいるのかどうか、実に疑わしいものである。

 要するに、

「人間も他の動物も、根本的なところでは変わらないのではないか?」

 と考える。

「俺たちは他の動物とは違うんだ」

 と人間が勝手に思っているから、そう感じるだけで、欲というものをあながち否定できないとすると、人間に対する考えが根底から変わってくる。

 そこで一つの仮定として、

「ジキルとハイドにおいて、本当にハイド氏は、悪なのだろうか?」

 というものである。

 つまり、

「ハイド氏が自分の中に潜んでいないで、ジキル博士だけだとすれば、ジキル博士という存在は聖人君子のような人間になるのだろうか?」

 という考えである。

 そう考えていると、二重人格と呼ばれるものは、基本的には、別の人間を見ているようで、その中に、躁鬱症も含まれるのだろうか? いうことであった。

 確かに躁鬱症を繰り返している時は、躁状態から鬱状態に変わる時、

「ハイド氏が乗り移った」

 あるいは、

「自分の中から、別人格がよみがえってくる気がする」

 という感覚はない。

 どちらかというと、きっかけのようなものがいつもあるのだ。

 躁状態が鬱状態に変わる時は、目の前に見えている景色が、

「全体的に黄色かかってくるのが見える時」

 であり、逆に、鬱状態が躁状態に変わる時というのは、

「トンネルを走っている車が、トンネルを抜ける時、出口から差し込んでくる、一瞬の光を見逃さない自分を感じた時だ」

 と思う時であった。

 このことを、躁鬱状態に入った時、いつも感じている。

 これを感じずに、

「躁から鬱に、鬱から躁に」

 ということはないのだ。

 だから、

「もし、それらの意識を感じ損ねると、どちらかの状態から抜けられなくなってしまい、永遠に、躁なのか鬱なのかという状態に入って、それが正確になってしまうのではないか?」

 と感じるのだった。

 だから、躁状態も鬱状態も、それが性格として植え付けられるまでには、

「躁鬱状態の繰り返し」

 というワンクッションが入ることになるのだ。

 だが、躁鬱を繰り返している様態で、ずっと年を取っていく人もいる。または、いつの間にか、躁鬱症から抜け出し、躁も鬱も忘れてしまう人もいるだろう。

 その人は感情が死滅してしまうような人で、一番希少価値な人ではないかと思うのだった。

 そんなことを考えていると、

「ジキルとハイド」

 の物語で、

「ハイド氏が死ぬことは、ジキル博士の死を意味することだ」

 と考えられるようだが、果たしてそうなのか?

 ハイド氏が死ぬだけで、ジキル博士の性格は生き残るのではないか?

 ただ、身体や精神の半分を形成していたハイド氏はいなくなったことで、確かに聖人君子のような人間が出来上がることだろう。

 しかし、それは、実に脆弱なもので。

「いつ死んでも不思議はない」

 といってもいいのではないだろうか?

 そんなことを考えていると、松平は、次第に人間というものが怖くなってくる。

 本当であれば、他の動物も、もっと自分のことを怖いと思っても不思議はないのだろうが、そうでないということは、

「人間になまじ意識なるものがあることで、恐怖というものも一緒に感じる。それが、人間にだけある、感情というものではないだろうか?」

 といえるのであろう。

 そして、その恐怖を、松平は、

「自分のことを信用できない」

 という感情が一番大きいことが、問題なのではないか? と感じているのであった。

 だから、松平は、

「ジキルとハイド」

 という話を決して忘れることはない。

「自分が生きていくうえでの、バイブルのようなものだ」

 と考えているのだろう。

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