ep11 今やっとの自己紹介

 眩しくて、寒い。風が髪を揺らしながら肌の傷に染みる。

 彼女は目を開けた。双眸に映るのは雲の丘に雲の波。空は暁の色へと少しずつ染めていき、まだ夜の色を残す。海の水平線から顔を出すのは朝日だ。安吾と一凛。空の色を変え、全ての建物や生き物たちに平等に照らす。

 下には駿河湾と日本平。そして、遠くには少し雪化粧した富士山と街が一望でき、一凛はびっくりした。彼らは空の上におり、裂け目から出て落下している。彼女は首を向けると、離れていく裂け目は勝手に閉じられていく。もとより啄木がこじ開けたものであり、安吾が連れ戻せたら勝手に閉じる手はずとなっている。帰還の札を使おうと手はず通り行おうとした時だ。

 安吾は諦めたような声で呼びかけてくる。


「……あさがおさん」

「……なに?」


 朝の空気を感じながら一凛は、安吾に抱き締められていると気付いた。顔を上げて、彼を見る。


「僕がこの状況をなんとかしますが、その前に一つ聞きます」

「何?」

「……貴女の中で、僕を連れ戻すほどの価値がありますか?」

「うん」


 不安げに聞かれるが、一凛は即答した。安吾は虚を突かれ、彼女は安吾を強く抱き締め返した。彼とちゃんとあえて、腕にいる。安吾の胸に横顔をつけて実在しているのだと感じ、安堵する。

 ふっと息を吐き、彼女は微笑んだ。


「まだ貴方としてないこと、まだたくさんあるから。

いったよね。約束と自己紹介だって果たしてないって。もう大切なものを手放したくない、もう間違えたくないと思ってこの行動をした。その自分を誇れる。だから、私が自己紹介したら名前で呼んで」


 名を名乗る行為や、多くの遭遇した出来事に一凛の罪悪感がなくなったわけではない。少しだけ罪悪感がなくなって軽くなったぐらい。だが、その少しでも十分に自分に自信が湧く。

 耳にして安吾は息を呑み、抱き締める力を強くする。何粒か雫を宙に舞わせ、彼は嬉しそうに呟く。


「──ああ、本当に朝顔のように素敵な人だ」


 黒い闇が一瞬だけ安吾たちを纏うと、彼は変化した姿を現した。しかし、前に見た変化の姿とは異なっている。黒い燕尾服に白い手袋。執事の様だが動きやすいように改良してある姿だ。黒の革靴は武具のように見える。安吾は目に仮面をしてない。人の耳の部分にはたれ耳のような獣の耳。額には鬼の角がある。背中には翼があるが、長い黒髪は結ばれず宙に舞っていた。

 姿が異なっていることに、一凛は気付く。


「安吾さん。前に見たときより姿が……」

「ちょっと力の出力の仕方が変わりましてね。それも、貴方が楔になったお陰なのでしょう。まったく、無茶をします」


 安吾は笑いながら言うと、一凛は目を丸くして驚いた。


「……わかってたの?」


 彼女の付けている勾玉のネックレスを見て、彼は苦笑する。


「そりゃ、わかりますよ。僕も組織の半妖なのですから。……だから、価値の有無を聞いたのですよ」

「価値あるに決まってる!」

「……喜ばしい即答です」


 照れながら言い、彼は翼を動かす。体勢を整えながら宙に浮き、彼は体の向きを地上に向ける。降り立つ場所の目星は立っているらしい。安吾は一凛を抱えながら有度山の山頂にめがけて、翼を動かしていった。





 朝日は駿河湾だけでなく伊豆半島や富士山。光当たる場所に朝日を与える。有度山である山頂から見える風景は日本平と呼ばれる。

 安吾は山頂にある石碑近くに降り立ち、変化を解く。一凛と別れる姿であり、その背後から声を掛ける人物がいた。


「おかえり。安吾」


 振り返ると微笑んでいる啄木がおり、安吾も笑みを浮かべる。


「ええ、ただいまです。啄木──」


 ばしっと強い音がする。啄木は片手で安吾の拳を受けてていた。安吾は凄まじい剣幕で相方を殴ろうとしており、一凛は彼の怒気に口を閉じる。安吾は目を細めながら唇を動かす。


「お前、彼女になんてことをさせるのですか。あんな危険な場所にまでいかせて。しかも、死ぬ可能性もあったでしょう。拳一つでは足りませんねぇ?」


 犬神との戦いで聞いたときと同じ怖い声に、彼女はビクッとする。現世に居させてくれる処置を施してくれたのはありがたいと安吾は思っていた。一凛を利用するとは思わなかったのだろう。怒っている理由は彼女を危険な場所に向かわせ、傷付けたことだ。


 啄木は申し訳無さそうに息をつく。


「悪かった。けど、殴るのは後にしろ。今は彼女の傷を治すのが優先だ」


 啄木に言われて安吾は我に返ったらしく目を丸くして拳を離した。啄木が一凛の前の前に来ると手を翳した。何かをつぶやくと、一凛が一瞬だけ光に包まれる。光がきえると、彼女は体を見て驚いていた。

 気持ち悪さや傷の痛みや傷跡がない。体も軽く、彼女は傷のあった場所を触る。


「わっ、すごい」

「オカルト事情で作った傷だからな、こっちの力で直した。まとった瘴気も祓ったけれど、今日一日は休んだほうがいい。禍津に一日いたんだからな。ほら」


 啄木がスマホの画面の時計の日付を見せてくれる。目をとろんとさせながら、画面を見て「本当だ」と一凛は眠そうに言う。彼の言う通り、別の世界にいたからか体力は消耗しているようだ。

 すぐに家に帰りたいと思うが、まずやることは一つある。

 安吾に向いて、彼に声をかけた。


「さて、安吾さん」

「なんですか? あさがおさん」

「やることやる前に、まず一発叩かせて」

「へ?」


 手のひらを息で温めた後、キョトンとした安吾の頬を一凛は叩いた。バチンという痛い音が山頂辺りに響き、ビンタを受けた安吾、啄木はびっくりしていた。安吾はビンタで赤くなった頬を触り、目を丸くしながら「いたい」と言う。

 ビンタをするとは思わないだろう。当時の少女の行動とは思えないだろうが、それほどに一凛は怒っていたのだ。彼女は手をおろし、彼と顔を見合わせる。


「安吾さん。私は、貴方が話せばちゃんとそちら側の事情を汲んだよ。……どうして、何も話さないであんな別れ方したの?」


 圧のある尋ね方をされた安吾は表情を暗くし、口を動かす。


「……あの時はああするしかほかなかった……というのは言い訳になってしまうのでしょうね。確かに事情を話せばよかったでしょう。でも、僕は、貴方に忘れてほしくなかった。僕の独断で行なったことで、貴方を必要以上に傷付けた。……ごめんなさい」


 申し訳なさそうに彼は頭を下げる。仕方のなかった可能性もあることを一凛は知っているが、やり方は気に食わないだけだ。謝る姿を見つめながら、彼女は息をつく。


「このあと佐久山さんを殴るのを取り止めて、これから言う私の言葉をちゃんと聞くなら許すよ」

「……言葉、ですか」


 安吾は顔をあげて、気まずそうにした。彼の表情から悪態をぶつけられるのだろうと予測しているのがわかる。確かに怒ってはいるが、酷くではない。安吾の顔を見ながら彼女は話す。


「私の言葉を顔を見てちゃんと聞いて」

「……はい」


 頷く彼に、一凛は伊豆半島に駿河湾と富士山。静岡の街を照らす朝日を一瞥した。風が彼らの髪と木々の葉を揺らす。心地よい朝の空気を深呼吸で取り入れてから、彼女は口を開いた。


「──私は久世くぜ一凛いちか。高校二年生で、好きなものは玉子焼きと朝顔の花。安吾さんのおかげで朝顔の花が好きなものになったの。私のことはあさがおさんって呼んでもいいけど、これからは私のことを名前でも呼んでほしいな」


 彼女から出たのは悪態ではなく。自己紹介だ。安吾の言葉を失っている間、彼の前に手を出して笑顔を見せた。


「だから、これからもよろしく。安吾さん」


 自己紹介と思わなかったのだろう。拍子抜けた彼はよろしくと出された手を見つめる。一凛の顔を見た後、頬を赤くして口元を緩めたあと彼女の手を優しく握る。


「ええ、よろしくお願いします。一凛さん」


 互いに握手をし出会ったときにできなかった自己紹介が、今やっとできた。一凛はにこやかに笑って、大きく頷いた。二人の様子を見ていた啄木は嬉しそうに笑って見守っている。

 有度山の山頂の日本平と呼ばれる場所にて。

 朝の日差しを受けながら、安吾は初めて彼女の名前を呼んだ。

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