7 8月の別離3

 港の近くにある浄化センターの屋上には、多目的広場の公園がある。午後の5時以降はあかず、花火大会までは開かれない。今は閉鎖されている多目的広場の公園。遊具や歩いて足ツボができる場所もある。『わんこ』は公園の上に降り立ち、ゆっくりと歩く。体の節々が痛い。

 内側から何かが変わっていく。芝生の方まで歩いていく。浄化センターであるせいか、臭いもするが『わんこ』から放つ腐敗臭のほうが強い。


「あ……ぁあ……アア」


 ボロボロと涙を流しながら、嗚咽を口から出す。

 手が人の感覚ではなくなる。足も人の感覚ではなくなる。人でなくなるのは仕方ないと思っていた。だが、実際は怖い。自分が自分でなくなるのは怖かった。

 芝生広場の中央。彼女は体を震わせてうずくまる。


「ワイ……ョ……コわイヨ……イタイヨ……イタイヨ……クゥーン……クゥーン……」


 自分の声がかすれ、濁っていく。彼女は震えながら、犬の怯えた声を出し頭を抱える。彼女の姿に完全に犬へ近づいており、痛みが酷くなった。愛犬が怒っているのだと彼女は思い、口から謝罪の言葉が出てきてしまった。


「ミヤコ……ミヤ、コ。ゴメン……ご、めん……ね」


 足音が聞こえる。『わんこ』は気づいてゆっくりと顔を上げた。足音の主は彼女の目の前で止まり、跪いて顔を合わせる。


「あさがおさん」

「……あん……ごさん」


 呼ばれ、彼女は濁った声で名を呼ぶ。安吾は目を開けて彼女を見ており、『わんこ』は彼の瞳から自分の姿を認識した。

 狼とも犬と言えない、黒柴犬の模様だけが犬という形を把握させてくれるだけ。手足は鋭い爪。服はなんとか着れているが耳も体も尾も、禍々しいものとなっている。顔も化け物に相応しいものとなっており、『わんこ』は涙を流しながら自嘲する。


「……ハハ……ワタシ……バケモ、ノダナ……」

「貴女は化け物ではない」


 断言されるが、『わんこ』は首を横に振る。自分の姿や腐敗臭を放つ様はもはや人の域ではない。痛みがひどくなり、彼女は苦痛の声を上げた。目を瞑ると、周囲に温もりが纏う。

 気付くと安吾に抱き締められていた。翼に体を包まれ、背中にも安吾の手が回っている。角と耳が生え、仮面はしていない。変化しているらしく、安吾は彼女の耳元で質問をぶつけられる。


「もう一度、いいます。貴女の姿は、本当に呪いだと思うのですか?」


 声を出すほど余裕はなく、彼女は苦痛の声を噛み締めながら首を縦に振る。犬の姿となり、与えられ変わっていく痛みに苦しむ。呪い以外にないと思っていたときだ。


「違いますよ。貴女のその姿は、ミヤコさんが貴女を守ろうとしている証拠。愛情なんです」

「……エ」


 言われ『わんこ』は呆然とする。安吾は彼女の顔を見合わせ、話を続けた。


「犬神は血筋により受け継がれるもの。他所の犬が眷属になる。犬神になるなんて難しいです。愛憎ではなく、純粋な愛情だけもつ犬は犬神になれません。貴女の姿はミヤコさんの呪いではなく、ミヤコさんの抵抗のために起きた姿と今までの奇行なんです。周囲の人間が貴女の姿を認識できないのは、貴女が見ている愛犬の姿は、ミヤコさんが今まで必死に抵抗している証なんですよ」

「……テイ……」


 彼女が呆然としていると、近くからわんと犬の声がする。懐かしくて聞き慣れた声に、『わんこ』ははっと横に目を向ける。透明な姿の成犬の黒柴がいた。ハッハッと尻尾を振り、『わんこ』に鳴く。


「……ミヤ……コ」


 名前を呼ぶと、黒柴のミヤコはわんと嬉しそうに鳴いて尻尾を激しく振る。両耳を間を少し伸ばし、顔もニッコリと笑ってみせる。彼女が見た愛犬は、あのときのように敵意を向けて威嚇していない。ミヤコを見た途端、痛みが無くなった。

 瞬間に安吾が彼女の胸に目掛けて手を突っ込む。物理的に貫通させるのではなく、すり抜けて彼女の体に手を入れたのだ。何かを伸ばすように安吾は手を進め、動きを止める。


「さあ、彼女から出ていってもらいましょうか!」


 真剣な顔で勢いよく彼女から黒いものを抜き取る。その黒いものは黒柴のミヤコよりも大きく、母親のときよりもどす黒く獣としての原型を保っていない。

 黒いものは遠くへ投げ出され、芝生の上に倒れた。鼻にくる腐敗臭は近くからしなくなった。だが、風に乗って腐敗臭は漂ってくるため元は消えていない。

 黒いものが抜き取られ、彼女は倒れようとする。安吾が受け止めた。痛みや疲れで起き上がる力がない。彼女は倒れたまま彼の切なげな表情を見る。


「……犬神を取った代償は少なくはない、ですか」

 

 安吾は彼女を地面に優しく横たわらせた。翼が勢いよく動くと、黒いものが叩き飛ばされる。黒いものは四肢で着地した。透明な黒柴は威嚇をするが、安吾がその黒柴の前に手を出す。


「ミヤコさん。貴方は貴方の主人の傍らに。あの犬神は僕が倒します」


 黒柴──ミヤコは言葉を理解できるのか威嚇をやめた。安吾は犬神と対峙する。犬神は安吾に駆け出した。高く飛びかかり、大きな化け物の口を出す。いくつもの鋭い牙があり、彼女もろとも食べようとしているようだ

 襲いかかろうとしている犬神に、安吾は歪んだ笑みを浮かべる。


「待ち遠しかったですよ。この時を──凶流星」


 低い声色で言霊が吐かれ、犬神の大きな口の中に赤黒い火の玉が現れる。誤って口にしてしまい犬神は驚く。が、安吾が赤黒い火の玉を拳で勢いよくぶん殴り、無理やり犬神の口の中に入れる。犬神がリアクションする間もなく赤黒い炎の玉は爆発を引き起こす。

 吹き飛ばされ、犬神は地面に倒れた。犬神に赤黒い炎が燃え移り、苦痛の声を上げてもがき苦しむ。芝生や周囲を燃やさず、ただ犬神だけを燃やす。

 犬神の近くに安吾がおり彼は犬神の首を両手で掴む。力強く捕まれ、犬神は苦痛の声を更に上げた。燃やされながら更にもがき苦しむ。四肢を激しく動かしているのが、苦しんでいる証拠。


「お前は、あさがおさんを操ってこういうふうにミヤコさんを殺させて殺したんですよね? なら、同じ目にあってもらわないと」


 安吾は笑みを浮かべながら、首を絞め続ける。犬神は苦しみながら、苦しげに声を上げる中、彼は楽しげに笑っていた。


「あっはっはっ! 僕がつかめないと思ったのですか? 残念ながら僕は犬神と似たようなものなんですよ。感情があるなんていい気味ですね。読み取れるのが驚きと恐怖なのがさいっこーです!」


 高揚したのか笑い声を上げ、更に犬神を強く掴む力を強くする。次第に犬神の声が聞こえなくなってくる。


「消えてください。次現れたら殺しますので」


 瞬間、安吾が何を言うと手を動かしグチャッと音を立てる。母親の犬神と同じように首を潰したのだろう。犬神は黒い靄となって消え、安吾の体に吸い込まれていく。その光景を見て彼女は不安になる。気付くと目の前に彼がおり、優しい表情で彼女を抱き起こした。


「終わりました。貴女の中から犬神はいなくなりました」


 思いの外、あっさり終わった。

 彼女は名前を呼びたいが、声を出す力もなく眠気が襲ってくる。犬神の黒い靄を水も取っていたが大丈夫なのか。心配している彼女の気持ちを読み取ってか、頷いて話す。


「僕は大丈夫。あの犬神の呪いの元を僕の中に還元させただけです。僕は元より犬神に近い体質ですから」


 だが、安吾は苦しげな顔で話を続ける。


「ですが、犬神は血筋や家系に受け継がれるもの故に体の一部のようなのです。このままでは貴女が無事ではすみません」


 死ぬのかと思うと安吾が何かを呟いた。彼女は自分の中に何かがはいってくる気がした。安吾は一息つくと話し出す。


「僕は世話になった恩人を、親身になってくれた友人を見捨てるなんてできません。

代わりに僕の力が犬神の一部の代わりとなります。……ですが、すみません」


 安吾は謝り、彼女に謝る理由を話し出す。


「貴女を夏祭りの案内を頼んだのは、わざと貴女をこの場にこさせるためです。貴女の昔の友人に遭遇させて犬神を誘発させ、一瞬の隙を作る。貴女からすぐに犬神を抜き取っても良かったのですが、ミヤコさんが変な具合で貴女に憑いてましたし、変な勘違いをしている中で剥がすのも貴女を傷つけるだけだと思って実行しませんでした。

……隙を作るため犬神を強めに誘発させて、あさがおさんにミヤコさんを認識させる必要があったのです」


 理由を話し終え、彼は安堵していた。


「上手くいって良かったです。あのままずっと、ミヤコさんの姿のままだとミヤコさん諸共あさがおさんも共倒れでしたから」


 わざと港まつりに誘ったのは何となくわかっていた。理由が自分とミヤコを救うためとは思わず、先程の事を謝罪したかった。彼は気にしていないらしく、ただ優しく微笑んでいる。

 だが、安吾が一瞬だけぶれたように見えた。


「……!」


 彼女は驚き声をかけようとするが、瞼が閉じられていくほうが早い。視界が狭まる中、安吾はにこやかに笑っていた。


「大丈夫。これで貴女は元に戻りましたし、あさがおさんはもう化け物ではありません。化け物っていうのは、僕のような存在だけでいい。唐突で申し訳ありませんが、名残惜しくも協力はここまでです」


 ミヤコと母親の敵を討つ。自分の姿が元に戻るまでと安吾との約束だ。一年とちょっとほど。ほんの僅かな期間だと来ても彼女は彼から多くの物をもらい、まだ多くを知らない。ちゃんと別れもせずに去るのは後味が悪い。待ってと声をかけたかったが、彼女は目の前を真っ暗にさせていく。


「きっと、また何処かで会えますよ。あさがおさん」


 まだしてないこともあり、彼女は真っ暗の中で声を聞く。


「ありがとう。僕の初めての人間の友達。また会える日までさよなら」


 何処か諦めたような温かな声色であった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る