6 8月の別離2
何処からかする犬の声が聞こえてくる。腐敗臭も段々と近付いて来ている。『わんこ』はただ道路に向かって走る。追いかけているのか、逃げているのかわからなかった。
ミヤコの呪いが強まってきたのかと思い始めていた。だが、ミヤコの呪いであることに違和感を感じ、『わんこ』は総踊りの行われる道路に出てくる。
人が多い場所。ここにいちゃいけないと理解し、反対方向に背を向けたとき。
「はい、水分補給を忘れないようにね」
「ありがとうございます。直文さん」
知らない声。知っている声。『わんこ』は後ろに向いて、声のした方向に顔を向ける。
距離は離れているが、犬になり耳が良いせいか声がよく聞こえた。総踊りの休憩時間なのだろう。『わんこ』が見覚えのある少女が、眉目秀麗な男性に向かって笑っている。
名前を奪われた少女。かつての『わんこ』の喧嘩別れした友人だ。幸せそうに男性に向かって笑っており、その男性からは優しそうに呼ばれていた。
「 」
名前が、呼ばれていた。聞こえぬはずの、わからないはずの名前が呼ばれていたのだ。名前が戻ったのだろう。近くにいる男性が取り戻してくれたのだろう。喜ばしい気持ちより、安心した気持ちより別の気持ちが全面に出る。
「ずるい」
出た言葉に『わんこ』は口を押さえた。彼女は身の奥ならふつふつと湧き上がる熱く苦しい醜い気持ちが湧き上がってくる。
嫉妬だ。自分の気持ちにすぐ気づき、彼女は涙目になって首を横に振る。ずるいと言いたいわけではない。良かったねと声をかけ、謝罪をしたい。だが、口から手を外すと、彼女の本心とは別の気持ちが口から出る。
「名前が戻ってきてずるい。
かっこいい人と一緒にいてずるい。
幸せそうでずるい。
祭りに参加しててずるい。
普通に過ごせててずるい。
なんであそこにいるの。なんでみんなと踊れるの。ずる……っ違う……!」
彼女は言い直し、首を横に振る。
「私は、酷いことを言いたいんじゃなくて、良かったとか言いたくて……!
幸せそうで、普通で良かったとか……そういうことを言いたくて……!」
涙をボロボロと流しながら錯乱していた。
ただ一つ。この場にいてはまずいことだけは理解できる。彼女は元来た道を戻っていく。安吾とすれ違い、彼が名を呼ぶのが聞こえた。
商業施設の敷地を抜け、走り続ける。
港の倉庫がある道路まで来ると、人通りは少なくなった。遠くから聞こえる祭の喧騒を聞きながら彼女は膝をつく。
「なんで……なんで……」
頭を抱え、吐き出すように言葉を空気に乗せる。
「私は、あの子に酷いことを言いたいんじゃない。私は……なんでこんな……」
犬神。その名がよぎった瞬間、彼女はある映像が過った。
家のリビング、虚ろな表情の母親が立っており、ミヤコが飛びかかってくる。ここで『わんこ』は逃げてと叫ぶが、叫ぶことはなかった。ミヤコが飛びかかってくる姿は真正面であり、目線は。
「あっ……」
思い出す。彼女はミヤコを殺した相手を。悪夢で黒いものを纏っていたというが、それは母親に限ったことではない。同じ犬神の家系であるならば、『わんこ』もまた取り憑かれていた。
ミヤコの首を、掴んだ手は母親より小さい手。その手首から腕の持ち主。愛犬の瞳に移るのは、真っ黒となった幼い少女の姿。小さな手はミヤコを床に叩きつける。ミヤコの泣いた声とともに、母親の大きな手がミヤコ押さえつけた。愛犬の首に両手を添えたのは──『わんこ』であった。
愛犬の悲鳴がリビングに響く。ミヤコの動きが止まるまで、『わんこ』の手は愛犬の首を絞めていた。主観的な映像から、客観的に切り替わる。黒いものを纏った母親と『わんこ』が愛犬を手にかけている場面だ。
夢の内容、ミヤコが誰が殺したかを思い出す。
「私が ミヤコを 殺した」
手にかけていたのだ。自覚した瞬間、『わんこ』は全身に痛みを感じ自分を抱きしめる。
「っ……いっ……あ゛ぁぁぁぁ……!」
あまりの痛さに苦しい声が出てしまう。バッグについている朝顔のキーホルダーが弾けて壊れた。バッグから熱を感じる。安吾の加護に反応しているのだ。お守りは彼女を守ろうとしているが、痛みは治まらない。
ふーっと荒々しく、牙を剥き出しにしながら息をする。痛みをこらえようとするが、次第に足と胸が痛くなっていく。
「あ……あぁあ……」
蹲り、ボロボロと涙を流す。
「──あさがおさん!」
顔を上げる。安吾が焦りながら目の前におり、『わんこ』の両肩を掴んでいた。
「あさがおさん。貴女は悪くないのです。貴女自身が引き起こした行動ではない!」
言い方に彼女は目を丸くした。痛みが急になくなる。意図的なものを感じたとしても、彼女は目の前の疑問にしか目がいかなかった。『わんこ』は己の双眸を安吾に向ける。
「なんで」
彼女の気持ちを読んだのだろう。安吾は息を呑んで、困惑した表情を見せる。
「──なんで、私がミヤコを殺したことを知ってるの」
「それ、は」
「……読めるのは、心だけじゃないの……?」
問われ、安吾は言葉をつまらせる。今まで安吾は気持ちを傷つけないよう、言葉を選んで話してくれていた。何かに触れさせないよう安吾は言葉を選んでいたが、彼の発言で察した。
感情や気持ちだけではなく、記憶すらも読めるのではないかと。安吾は沈黙し、首を縦に振る。是という答えに、『わんこ』は裏切れた気持ちになった。安吾の両腕を掴み、食いかかるように訴える。
「なんで……だったら、なんで最初から教えてくれなかったの!?」
「……親しい相手のトラウマを掘り出す趣味はありません」
「っそれでも、教えてくれた方が良かった! ミヤコに呪われて当然」
「それは違います!」
安吾は彼女の言葉を強く遮った。彼女の顔を見つめ、首を横に振る。
「貴女はミヤコさんに呪われてません!
貴女がそう思わされているだけです!」
「そう思われ……」
安吾と別れる前に話し考えたことを思い出す。それを前提に『わんこ』は先程思い出した記憶を照らし合わせようとした瞬間、全身に再び痛みが出てくる。
「……!? い゛っ……ああぁぁぁ!」
叫び、彼女は自分を掻きむしる。腐敗臭が強くなり、『わんこ』は抑えたくなる。鼻を押さえる事はできず、自分の意識が曖昧なっていくのがわかった。安吾は舌打ちをして、手を伸ばそうとする。
剥ぎ取ろうとしているのだとわかり、『わんこ』は手を強く払う。バシンっと強くはたき、安吾は瞠目しながらバランスを崩す。彼女自身も強く叩くつもりはなく、ショックを受けた。
バッグからビリっと何かにがさける音がした。お守りが破けたのだと理解したとき、彼と目が合う。
安吾は体勢を整えながら、敵意のある目でみてくる。初めて向けられる目に、『わんこ』は怯えた。
「……くぅーん……くぅーん……」
両足と両手──四肢をついて、彼女は犬のように怯える。さながら『わんこ』、犬のごとし。ここで彼女は自覚する。今まで犬のように吠えたりせず、奇行を行う回数が減っていることに。
今現在、犬のように四肢をついている。体の痛みは弱くなる。安吾が動くと、『わんこ』はビクッと震え、反射的に飛び上がった。人ではありえないほどの高さをとび、着地する。
あり得ない跳躍力に錯愕する。
「あさがおさん!」
安吾に目を向けられると、彼女の体は意志に反して彼から逃げる。
人の走りではなく、犬の走り。人ではなくなっていく模様に『わんこ』は恐怖を感じながら、倉庫の屋根の上に飛び乗った。
体がまだ痛い。何かが変わっていく気がした。巴川という川があるが、橋を渡らなくては超えられない。人の跳躍力では飛べないほどの距離だが、『わんこ』は軽々と越え、反対の岸にある道路へと降り立つ。
自分に何が起きているのか、理解できないまま彼女は近くにある浄化センターの多目的広場の方へ跳躍していった。
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