9 わんことのよろしく

 彼女が向くと、安吾がペットボトルを二つ手にして微笑んでいる。手にしたのは、『わんこ』の要望通りの飲みものだ。安吾は乳酸菌飲料を手にしており、彼女はペットボトルを受け取る。


「ありがとうございます。……お金、あったのですか?」

「ええ、昨日の朝貴女にもらった五百円玉のお陰で買えました」

「あっ、なるほど」


 渡した五百円玉が残っていたようだ。納得してペットボトルの蓋を開けて、口にする。飲料水は甘いジュースにしており、『わんこ』は口にして飲む。犬の姿になってもちゃんと飲める。今でも不思議に思いつつ甘さが身にしみて、彼女は息をついて空を見る。

 少しずつ東の空が染まりつつある中、鳥の声が聞こえ始めた。家からか動く音がし、門を開ける音もする。風の匂いにとって、どこかでは朝食の準備もし始めていた。朝起きたときに聞こえる音と匂いに『わんこ』はほっとする。

 戻って来れたのだと、やっと実感できたのだ。

 飲んでいるうちに安吾は思い出したらしく、ペットボトルを蓋をした。


「ああそうだ。お釣り、お返ししますね」


 ジャラジャラと音がする。ポケットから小銭を出そうとする彼に『わんこ』は慌てる。


「あっ、いいです。いいです! それはあげます!」

「えっ、ですが、お金ですよ?」


 気にする理由もわかるが、流石にあげたもの故に『わんこ』は受け取る気はならない。どうしようかと一瞬考えたとき、咄嗟に言葉が出た。


「じゃ、じゃあ、連絡先を交換しましょう!?

電話ができれは、お互いに会いたいときに会えますし!」

「れんらくさき? ……あ、携帯の住所のことですね!」


 思い当たったのか安吾は携帯を出していく。咄嗟に出したが、安吾自身携帯を使えているのか怪しいことを思い出す。ペットボトルを脇に抱えて、安吾は両手を使って携帯とにらめっこしていた。携帯のプロフィールを出そうとしているのだろう。

 家の電話でもダメそうな気がする。携帯の住所ときき、ある方法なら大丈夫だろうと考え、『わんこ』はノートを出す。シャープペンを出し、まっさらなノートに文字と数字を書き出していった。一ページノートを破る。

 音で気付き、安吾が顔をむけた。


「あさがおさん? どうしました?」

「どうぞ」


 差し出されたものに安吾はきょとんとした。手にしているものの説明を彼女はする。


「住所と郵便番号と、家の電話番号です。……ここに記載してある名は父の名前ですが、これを書けば私の家に届くはずです。手紙なら、貴方でも送れますよね?」


 安吾はそれを受け取り、申し訳無さそうに笑う。


「すみません。心遣いに感謝します」


 感謝する彼だが、やはり不安だらけである。『わんこ』は更に提案をした。


「……あの、もしよければ、私の協力ついでにここでの生活になれる練習とかも付き合いましょうか?」

「……えっ、良いのですか!?」


 開眼させて驚く安吾に『わんこ』は心配そうに頷く。


「構いませんが、その、どちらかというと……年下の私から見ても、安吾さんがすごく心配なんですよ。というか、浦島太郎……」

「うっ」


 わかりやすく言葉をつまらせる。安吾に彼女の言葉が刺さったのだ。本来は年上がしっかりすべきが、年下から心配されるほど。

 携帯の使い方はともかく、自動販売機などの小銭の表示があってもわからないのはまずい。反論もできないのか、安吾は住所の書かれた紙を折り畳み、ポケットに仕舞う。

 ダメージが残りつつも、安吾は口を動かす。


「……とりあえず、手紙は送ります。送り方も、相方に教わってきます」

「……じゃあ、その代わりに安吾さんの敬語をはずすのは? 一応、私は年下なので……」


 提案に安吾は苦笑した。


「難しいです。僕は普通に喋ると訛りが強いのです。喋るど普通さ喋るごどでぎねはんで」

「なんて?」


 後半の言葉を聞いて唖然とする『わんこ』に、安吾は困ったように笑う。


「このように、普通の人には伝わらないのですよ。僕を使う前はわーという一人称ですので、敬語外しは無理です。意思疎通がしにくくなります」


 確かに訛りが強い。北や南に行くほど方言が強くなると聞いたことはあるが、ここまでとは『わんこ』は考えてなかった。本人の意志もあるなら仕方なく、『わんこ』は恐る恐る安吾に尋ねた。


「だったら、こんな感じで私が敬語なしで話してもいい? 馴れ馴れしいかもしれないけど……もし駄目だったら、敬語に戻しますか……」

「いえいえ! そんなことないです。敬語ない方がいいですよ!」


 伺いながら話すと、安吾はにこやかな表情で嬉しそうに告げた。『わんこ』は驚いた。歳上であるからこそ気を使うが、彼は距離を感じたくないようだ。協力するためにある程度のフランクさは必要であろう。とはいえ、あって間もない人間にフランクすぎるのは良くない。


「……そこまで喜ぶことなの?」


 不思議そうな彼女の表情に彼は恥ずかしそうに笑う。


「あっ……ええっと、実はですね。……僕、友達があまりいないんです」


 彼の言葉にぽかんとすると、苦笑して話す。


「役職上何百年か引きこもっていましたし世間知らずな部分もあり、ちゃんと話せる友人とか気軽に話せる友人が少ないのです。正確に表すと……多く話せる人を、友人を作りたい」


 開眼して彼は彼女に向き合う。先程よりも真剣な顔をしていた。鬼と戦う前や戦う時よりも真面目な顔だ。目を開けて手を差し出した。


「もしよければ、あさがおさん。僕と友人になってくれませんか?」


 彼女は驚きつつも、安吾の言葉に両耳の間を空けて尻尾を振るう。『わんこ』は嬉しかった。同年代で友達と言える友達は今はいなく、歳上や年下の学生とも交流をしようにも、顔が認識されず忘れさられることが多い。安吾から見て犬の姿でも、ちゃんと自分を見てくれるのが嬉しかった。

 頷いて手を握る。


「うん、よろしく。安吾さん!」


 微笑む『わんこ』に安吾も朗らかに手を強く握る。


「ええ、改めて。よろしくお願いします」


 握手をしているさなか、光が『わんこ』と安吾に当たった。手を放すと、彼女は眩しく目を細めて光の方向に顔を向ける。安吾は目をいつものように薄く閉じ、同じ方を見た。

 学校や工場の建物、住宅地や遠くの山にも眩い光はあたっていく。町並みが照らされていく。雪が少し残っている富士山が見えてきた。次第に太陽が少しずつ顔を見せて、照らされてない部分も少しずつ見えてくるだろう。朝の空気も少しずつ変化していくのもわかった。

 彼女はご来光以外に、忠霊塔で登っていく朝日を見るのは初めてであった。


「かたわれどきが終わっていきますね」


 安吾のつぶやきに反応して彼の顔を見る。明け方の空を見上げていた。上に向いている横顔であるからか、表情はよくわからなかった。


「かわたれどきは明け方のことを指します。別の意味では曙、暁ともいいます」

「……かわたれどきなんて初めて聞いた」

「そうでしょう。僕は昔の人間なんでこういう古臭いのは知ってるのです。かわたれどきと黄昏時。どちらも境を表しますね。朝と夜の境、昼と夜の境というやつですね」


 興味深く聞いているが、『わんこ』は表情が気になって彼の顔を見ようする。横顔を見ようと近づくと、少しだけ見えた。その時安吾が一瞬だけ違う表情になる。


「ええ、どちらもあるからつけられたんです。……本当──」


 普通の人では聞こえないような呟き。だが、普通ではない『わんこ』は耳にすることができ、目を丸くした。安吾は顔を彼女につける。


「さて! あさがおさん。そろそろお家に帰ったほうがいいですよ!

やることやらないと、まずいでしょう?」

「……えっ、あっ! そうだったー!」


 耳をピンと立て『わんこ』は慌てる。土日休みなのが救いといえど、家事をしなくてはならなく、買い物や準備もししなくてはならない。『わんこ』は頭を下げる。


「安吾さん! 今日は本当にありがとう! じゃあ……また!」

「ええ、また」


 顔を上げて彼女は手を振って、去っていく。安吾も手を振って彼女を見送っていった。




 彼女の背を見送り、安吾は手を見る。誰かに手を振って別れることは、三百年ぶりかだ。

 ポケットから渡された住所の紙を出し見つめる。手紙を出すには。紙と便箋や切手を用意すればいいことは見て知っている。葉書という存在もあるのも知っている。だが、彼にとって大きな問題は一つ。


「……僕の字、今の時代にくらべてだいぶ古臭いというか……書体が今どきではないんですよね……」


 住所の紙を花札の箱をしまうように何処かに消す。安吾の書く書体が明朝体のような現代の字ではない。草書体と言える字の書体だからだ。昔の書物に書かれている字といえば伝わるだろうか。

 安吾はその文字しかかけず、専門的な知識を持っている人でしか見れない。達筆とも言える。携帯やパソコンというものがどれだけ便利なのか、彼は身にしみた。

 頭を掻いて苦笑する。


「……啄木に頼んで、文房具とドリル、ノートとやらを見繕ってもらいましょうかね。……ああいうのって、経費で落ちるのかも聞きましょう」


 そう言いながら、彼はの風景の中に溶けて消えていった。

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