1 わんこの朝は早い

 黒柴がこちらを威嚇して吠えている。その黒柴はミヤコであり、なんでこちらを吠えているのかと思っていた。母親はミヤコの元に歩み寄っているが、黒い何かを纏っている。

 決していいものじゃないとわかる。彼女は急いで声を上げた。


「ミヤコ──逃げて!!!」


 叫んで、ミヤコが二人に飛びかかって来て夢は終わる。



 この夢は彼女が一年に一回は見る悪夢であった。




 朝5時0分。

 朝起きた。ベッドから身を起こし、彼女は背伸びをするが、四肢をついて動物のような背伸びをしてあくびをする。


「……相変わらず、嫌な夢」


 目をこすり、彼女はベッドから降りた。

 彼女のすることは歯ブラシで歯を磨く。自室を出てパジャマ姿の黒柴の『わんこ』が大きな歯ブラシを使って、磨いていた。口の形と歯茎と歯は犬そのもの。犬歯がよく目立ち、人間とは異なる磨き方をする。

 歯ブラシを綺麗にし、人の手に近い両手で口をすすぐ。手には指の腹や手の平に肉球がついており、彼女は顔を見た。前は、柴犬の獣人が現実にいるのが不思議であった。今では見慣れており、『わんこ』は顔を洗い、タオルで顔を拭く。

 洗濯機に入れて、パジャマを脱いで洗濯をする。自分の体は体毛があるように見えるが、服に犬のような毛はついていない。都合の良いように思えるだろう。なんと、他者からは自分の柴犬の姿を見ても覚えてないというのだ。会って話しても、自分の姿が霞がかるような感じだという。即ち、自分だけ犬の姿に見えているのだ。

 自分だけ犬の姿に見えている証拠はある。彼女はおいてある制服に着替え、リビングに向かう。

 リビングの掃除はかかさずやっている。ただリビングのテーブルの上だけは乱雑だ。メモや新聞、学校のプリントや教科書。写真立てがある。その写真立ての中にある写真には父親と亡くなった母親と愛犬のミヤコ。真ん中にいる幼い自分の顔は霞んでいた。

 他者から自分の犬の顔が認識できないのだ。そして、顔の自分の顔は霞んで見えている。集合写真でもカメラを通して見る己の顔は霞む。

 ミヤコの姿になってから、この現象は現れ始めた。

 顔だとわかっていても、はっきりと覚えていない。『わんこ』は自分の顔がどんな目のなのか、記憶が朧気になり犬の顔に切り替わっていく。だが、これでいいとも彼女は思っていた。

 写真を見ながら、『わんこ』は自嘲した。


「……ふさわしい罰。■■ちゃんの気持ちが分からないで、私はあのとき酷いことを。……■■ちゃん、名前、戻ったかな」


 違和感のなかったかつての友人の名前の違和感が認識できるようになったのだ。名前は発音ができず、文字すらも塗り潰されている。存在していないかのような扱いだ。名前が無くなったと早く知っていれば傷付けることもなかったと、今でも後悔をする。

 尻尾が下がり、『わんこ』は悲しげに目を細めた。


「……わふぅ……くぅーん……」


 犬のように悲しげに鳴くが、これはわざとではない。年々と自分の行動が犬に寄ってきているのだ。玉ねぎやネギ、チョコを食べるとお腹を壊す。カフェインのものが受け付けなくなり、白湯を飲んでいる。嗅覚が鋭くなったせいで強い匂いにはハンカチが必須になった。気付かずにミヤコを助けられなかった罰なのだろうと、『わんこ』は考えた。それでも、彼女は自分が人でなくなるのが怖い。

 テーブルにある教科書を近くにある通学のバッグにしまう。昨夜残りのご飯を麦茶でご飯を浸して食べた。

 水置き場を簡単に洗って『わんこ』は片付けたあと、洗濯機がなった。籠に入れ、下着が見えないようハンガーにつ干す。飛ばされないように設置したあと、戸締まりをする。

 戸締まりとガスの元栓の確認をしたあと、玄関から靴に履き替えた。犬のように素足ではなく、人に近い足で靴下も靴が履ける。不思議であるが、『わんこ』はまだ人の証なのかもしれないと思っていた。施錠した後、鍵をバックにしまい彼女は「いってきます」と声をかける。


  西暦2010年。平成22年4月上旬。


 学校規定の制服とスカートを揺らしながら、通学路と見える緩やかな坂を下っていく。思いつく限り忘れ物はなく、『わんこ』は頷いて早めに登校しようとする。部活には所属していない。帰ったら自転車に乗って、スーパーでの買い物を考えた。犬と通り過ぎるとき、吠えられることが多いが大抵は無視する。たまに襲われかけることもあるゆえに、犬を見かけたら大体遠回りしている。

 坂を降り、彼女は道路の歩道に入る。市立病院通りとも言われている県道198号にある道路だ。交番の前に通り、表に出てきた警察官に挨拶をするのが彼女の定番だ。

 交番を通り過ぎる前に、彼女はある程度広場の前を通る。彼女はふっと足を止め、目に見えているその場所を見る。

 迎山という小さな山にあるもの。独特な尖ったようなデザインは神社の千木という神社の建築に見られる建物の屋根にある部分のことだ。


 忠霊塔公園。彼女が見えている階段の先には、日本の清水市忠霊塔と言われる特徴的なモニュメントがある。西南戦争から太平洋戦争までの戦死者を祭る場所。清水が合併される前は、忠霊塔で毎年終戦の日は慰霊祭をしていた。しかし、合併されてからは静岡市の催事と合同で行われている。とある建築家が建てたモニュメントた。しかし、老朽化がはげしく十年後の未来には撤去される可能性があるとも囁かれている。

 あくまで今は噂程度でしか『わんこ』は聞いたことがない。

 年数が経てば撤去されるモニュメント。その頃に『わんこ』は自分が自分でいられる自信はない。

 公園の前を早く通ろうと、前を見たとき。


「……ん?」


 きょとんとした表情を『わんこ』は見せた。自動販売機の前で腕を組み悩ましそうな男性がいた。

 緑色に見える黒髪をしたおかっぱの男性だ。横顔から見てもわかるほどに顔立ちが整っている。長い髪を一つ結びにしている。普段は糸目のなのか、今は目を開けて悩ましそうに自動販売機を見ていた。薄い長袖の上着を着ており、灰色のTシャツを着ている。下は白いジーパンを穿いており、商業施設で見かけるようなスニーカーを履いていた。

 彼女は恐る恐る近づいていく。その男性は商品を見ているよりも、自動販売機そのものを見ているよう。難色の顔色である様子から、なにか困っているらしく『わんこ』は声をかけた。


「あの……どうしました?」

「……おや!? あっ、申し訳ございません! お邪魔でしたか?」


 体を震わせて彼は申し訳無さそうに聞く。何だか変わった人だと思いながら、『わんこ』は首を横に振る。


「いえ、自動販売機を見ているのが気になりまして……どうしました?」


 聞かれた彼は、目線を横にずらし恥ずかしそうに頭をかく。


「いや……あの実は、これどうすればいいかと思いましてね」

「……? これ?」

「はい、小銭が通るのはわかるのですが、実はお札が通らなくて……。何度も何度もお札を通しても出てくるばかりなんです」


 と、男性が手にしたお札を見せる。その手にしたお札を『わんこ』は二度見する。平成の時代と象徴される一万円札。普通の自動販売機で通るはずがなく、『わんこ』は指さして教える。


「……あの、一万円札は普通の自動販売機では使えませんよ?

両替するか……千円札を使わないと」

「ええ!? そうなのですか!?」


 大袈裟に驚く彼に『わんこ』は警戒しながらも恐る恐る聞く。


「……あの、小銭持ってますか? 小銭ならこの自動販売機なら飲み物は買えますが……」


 聞かれた瞬間、男性は頬を赤くして恥ずかしそうに笑う。


「いや、あはは……実は一万円札しか持ってなくて」


 一万円札しか持っていないと言われ、『わんこ』は目を丸くした。この後、大きな買い物をして一万円札を崩せばいい。だが、そこまで考えているのか、この男性を見ていてもわからない。

 困りながらも恥ずかしそうに笑う男性を見て、『わんこ』は仕方ないと考える。バッグから財布を探して出す。


「あの、お兄さん。どれか欲しいものがあるのですよね?」

「ええ、まあ。飲みたい飲み物はありますが、それがどうしました?」

「手をだしてください。どうぞ」

「? はい」


 指示通りに従う男性の手に、『わんこ』は金色の五百円の硬貨を出して一枚渡す。手のひらに載せられた五百円に男性は驚く。


「えっ」

「これで、飲み物を買ってください。では、私はもう行きますね。お釣りはそのままもらっても構いませんから!」


 軽く礼をして、走り去っていく。背後からは男性の困惑した声が聞こえるが、軽く振り向いて一礼をしてから彼女は登校していった。




 手に乗った五百円玉を見つめ、男性は彼女の去っていった方を見る。


「……犬……人の姿をした犬……。普通ではありませんよね?」


 普通の人々は霞がかった彼女か、見ても顔を認識できないはずだ。だが、その男性は彼女が犬の姿をしていると見破った。

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