【カクヨム短編賞中間選考突破作】だから僕は文学をやめた

有明 榮

私たちは闇の存在しないところで会うことになるだろう。(一九八四年/オーウェル)

 マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』の冒頭は、紅茶に浸されたマドレーヌの香りで幼少期の記憶を思い起こす描写から始まるそうだが、僕の場合は図書室の奥にあった、書庫の黴臭い匂いがカギとなっているに違いない。とりわけ、蔵書点検を終えた市立図書館の書庫で汗をぬぐい、大きく息を吸い込む時は、その時の景色がいやというほど鮮やかに脳裏を駆け巡るのだ。

 あの日、青二才の文芸部員だった僕と彼は、埃を被った禁帯出の分厚い本が所狭しと並んでいる書庫の真ん中に居た。

 けれど、だから僕は文学をやめた。


 彼は何につけても、僕より数歩先を行っていた。学年内の席次も、スポーツも、容姿も、そして文才さえもそうだった。文芸部員に収まっているのが奇妙なほどだった。あいつはその気になれば、小説家とか劇作家とかもっとすごいところに行けたはずだし、あいつが高校を出た後に新人賞を獲っていた時は、それが事実だと僕は確信していた。けれども高校時代、あいつは常に僕の隣にいた。

 時折、僕という格下の存在は身近に置かれてあることで彼の心の平穏を保つためのサンドバッグになっているのではないかとさえ邪推した。だから高校を出てからしばらくは、僕は小説なんて書いてやるもんかとさえ思っていた。


 その日は35度を超える猛暑日で、実のところ活動場所になっている図書室に行くのさえ億劫なほどだった。体育館から聞こえるバレー部の掛け声と、その奥にある弓道場から聞こえる乾いた弓の音を背中で聞きながら図書室に入り、書庫の重たい扉を開けると、ムッとする熱気と湿気が僕の脳裏をたちまちに茹で上げてしまった。

 僕はその頃、書庫に並んでいる背表紙を目でなぞるのを密かな楽しみにしていた。高校の中で、ある意味この場所は秘密基地だった。ほとんどの生徒、そしてほとんどの教員すらがその内部を知らない、ひょっとしたら脳みそにまで筋肉が詰まっている体育教師は存在すら知らないであろう場所を知っているのは、ある種の愉悦だった。本来図書委員の生徒であっても入ることが叶わなかったが、僕は司書教諭と親しくしていたし、若い彼女は面倒臭がりだったので、僕が蔵書点検とか図書室の業務を手伝うのに非常に満足していたのだ。先生は夏休みに入る前に、これでいい作品を書きなさいな、と書庫の合鍵を僕に手渡してくれていた。


 彼は音もなく書庫に入ってきた。僕はハッとしてノートパソコンを乱暴に閉じた。

「おいおい、俺やぞ」

「なんだお前か……。っていうか、なして入ってきたん」

「俺も文芸部員だぜ、今日は活動日やろ? こっちの扉が開く音がしたけん、みかちゃんが来たんかって思うやろ」

 みかちゃんというのは、司書教諭兼文芸部の顧問の教員である。授業もわかりやすいし、若くて美人だったので、昼休みには彼女目当ての利用者が来るほどだった。

「わざわざこのクソ暑い日に出てきたんか、すげえな」

「自分のこと棚に上げてよう言うやっちゃ。書きに来たんか?」

 僕はなぜか、彼から目をそらしたくなった。ノートパソコンのディスプレイがやたらと重かった。ログインの画面に慣れた手つきでパスワードを打ち込むと、書きかけの小説が表示された。僕は画面から顔を動かさずに言った。

「書くんと読むんと、どっちもたい」

「熱心やなあ。俺は最近どっちもしぃきらんわ。受験ば考えたら気の散るけんね」

「お前、早稲田ば受けるんやっけ?」

 僕は椅子の背もたれに体重を預けて、彼を見た。彼はかなり閉口した様子で肩を竦めて見せた。キリんなか、と彼は言った。

「さすが私大って感じよ。過去問ば攫いよるけど、何一つ同じ問題なんてなかもんね。まったく信じられんばい」


 彼は机に腰かけると、くぁと欠伸をした。いつ図書室に来たのかはわからないが、来てからずっと過去問を解いているのかもしれない。僕はややもすると何かに取り憑かれて躍起になっているような彼が憎かった――いや、羨ましかったのかもしれない。再びパソコンの画面に目を戻しつつ、「小説とか脚本のためだけに早稲田っていう方が、俺には信じられん話やけどね」と言った。

「どうせやるんやったら、とことんまでやりたかっちゃ。それに、お前んごと俺ぁ頭の良うなか。文系特化の私大なら、なんちゃーなるって思ったとさね」と、彼は振り向いていった。彼が珍しく語気鋭く言ったので、僕はおちょくった自分の矮小さが情けなかった。しかし同時に、言い包められそうな自分もまた情けなく思われた。


「文学んために大学ば選ぶとは良かやろばってん、そいで上手くいかんかったら、どげんすっとや。結果食って行けんのやったら元も子もなかろうが」

「そいはお前、言い訳たい」

 脳天を殴られたような気がして、僕は顔を上げた。彼は生真面目な顔をしていたような気がする。


 外では相変わらず蝉の声がうるさく木霊していたが、書庫の中では分厚いカーテンと無数の紙に吸収されて僅かに聞こえる程度だった。僕は汗が眉から頬を伝うのを感じた。

 言い訳っち言えるとも、そいはお前に良か才能のあるけんやろ、普通の人に同じことば求むんな――喉まで出かかった言葉を僕は飲み込んだ。彼はしばらく僕の顔を見ていたが、やがて腰を上げた。


「次の作品、いつ頃できそうや」と背中越しに言った。

「夏休み中には、上げるつもりや。大嶋先生に、見せんといかんから」

 僕は彼を見ずに言った。彼はドアノブに手をかけたまましばらく動かなかった。そん後で良かけん俺にも読ませや、と言って彼は書庫を出ていった。


 作品は夏休みの終わる直前に完成した。大嶋先生は大層面白がってくれた。

 結局、僕は彼にその作品を読ませることなく卒業した。彼は早稲田に落ちた。

 僕は九大の文学部に受かり、研究室は迷わず西洋史を選択した。大嶋先生のいた所だった。

 小説を書くのも読むのも嫌になったからだ。

 だから僕は、文学をやめた。

 

 大学を卒業して、さる市立図書館の司書になった。月給はそこまで高くないが、本に囲まれて働くのは悪くないと思っていた。彼が病死したと知ったのは半年ほど前だった。

 友人の話によると、彼は一浪したが早稲田に入ったそうだ。卒業後は小説を書きながら複数のアルバイトを掛け持ちしていたが、無理が祟って身体を壊し、そのまま死んだという。

 遺稿は彼の意志に基づき、葬儀の後に僕に渡された。USBメモリを開くと、無数のファイルが表示された。僕は酒を飲みながらそれらを一つ一つ丁寧に読み、二週間ほどかけて全てを読み終えた。ファルダの一番下にあるタイトルのないテキストファイルには、「世界をお前に託す」と書いてあった。

 僕は静かに泣いた。そして、全てのファイルを削除した。

 彼が死んで今日で一年が経った。

 僕は毎夜、パソコンの画面に向かっている。

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