第2話 僕は誰


 二〇〇六年 十一月八日、水曜日。

 悠葵はるきが寝覚めると、正面の壁に掛けられた日めくりカレンダーの文字がぼやけた視界に飛び込んできた。亜麻色ベージュのカーテンの向こうは未だ薄暗い。陽の出の時間が遅くなってきた上、朝の空気もだいぶひんやりとしてきた。悠葵は上身を起こして、ううん、と背伸びをした。


「ふああ……」


 半ば微睡む思考で悠葵はうつらつらとする。悠葵は兎に角、朝に弱い。その上なかなか寝付けず、いざ入眠したとしても眠りが浅い。少し足音がしただけで直ぐに目が醒めてしまう。詰まりは睡眠をとるのが苦手なのだ。

 されど其れでも二度寝を決め込むわけにはいかない。今日も学校はある。すっぽかしたい気分に何度もなるけれど、そういう訳にはいかない。悠葵はオーク材の机の下に放っておいた着物を拾い上げ、袖に手を出した。昨日、半ズボンでは寒さがあったので今日は踝まであるデニムのパンツだ。


「悠葵、ご飯よ。早く降りていらっしゃい」


 一階のダイニング・ルームから甲高い母親の聲が響いた。悠葵は暫し目を閉じ、息を数回吸って吐く。

「悠葵――?さっさとなさい!」

「はあい。今行くよ」

 悠葵は眼を開くとにっこりと笑い、明るい聲で応えた。


 (うん。今日も)


 四人がけの四角い食卓にはふたりぶんの朝食が並べられていた。ハムとチーズが混ぜられたスクランブルエッグとミニトマトとレタスのサラダ、そしてホットミルクとバターロールがふたつ。

 母親は先に席について悠葵を待っていた。外資系コンサルタントとしてフルタイムで働く母親は、既にきっちりと化粧を施しぱりっとしたパンツスーツに身を包んでいる。

 父親の姿はない。父親はのだ。悠葵は口端をにっと上へ持ち上げ、明るい聲を上げる。


「おはよう、母さん」

「あらおはよう、ハル。遅かったわね」

「昨日遅くまで復習していた所為かな。なかなか目が醒めなくってさ」

「そう、なら次の模試は期待できそうね」

「もちろん。期待してよ」


 母親は期待という言葉に反し、神経質そうな貌を顰めている。彼女は笑うことも、満足して喜ぶこともない。常に厳しく悠葵をことに心血を注ぐのだ。


「この間の模試の結果で満足しては駄目よ。御前は将来いい大学に進んで、大手企業に行くんだから。開業医でもいいわ。決して私のように遠回りしたり、に負け組になっては駄目よ」

「わかってるよ、母さん」


「それと、だからといって勉強ばかりしては駄目よ。お友達を作って、関係を築くのよ。人脈は大切だからね」

「もちろんだよ、母さん」


 母親の言う「好い」友人とは、母親にとって都合のよく、母親が「育ちが良い」と感じた友人のことである。教養のない人、悪いことを教える人と関わってはならない。それは将来の汚点になる。物心つく頃からの母親の教育方針で、悠葵は鼓膜が腫れるのではないかと思われるほどに聞かされ続けていた。

 当然のこと言い聞かされるだけでなく、我が子である悠葵にも実践させている。学習塾やら体操教室やらピアノ教室やら多くの習い事をさせ、教養とやらを教え込む。少しでも母親が「悪い」と思う行いをすれば、悠葵を強く何度も打ち、暫くベランダに放り出して反省させる。それが真冬であろうと。

 そのお陰が悠葵は座学だけでなく体育や芸術の成績も良い。聞き分けも良く、生活態度も良いと大人たちからの評判も良い。


 彼女の意見に背いてはならない。返事は「はい」か「イエス」のみ。悠葵は。何でもできて明るく友人の多い自慢の息子。悠葵は悠葵でなかった。悠葵は貼り付けた笑みをたたえた。


「母さん、心配しないで。僕はいつだって母さんの期待を裏切ったことないでしょう?――あ、今日は日直で急ぐから朝食はいいや」

 リビング・ルームのソファに置いてあったランドセルを担ぎ、悠葵は玄関へ走った。

「じゃあ、行ってきます」

 母親の返事を聞く前に、悠葵は玄関を出て扉を締めた。外界そとは晴れ昊で、冬の薄雲がゆっくりと流れていた。


「あ、夏目――!」

「お、夏目だ!」

 通りがかったニ、三の少年たちが悠葵の元へ走り寄ってきた。夏目とは悠葵の名字である。夏目悠葵。それが戸籍に登録された悠葵の名だ。活発そうな少年たちの元へ悠葵も走り寄り、にっこりと笑った。

「はよ。鈴木、渡辺。計算ドリルやった?」

「うげっ、まだだあ」

 と鈴木少年が叫ぶと「俺は朝慌ててやったぜ」と渡辺少年が胸を張る。悠葵はからからと笑ってみせた。

 通学路は既に同じ小学校へ向かう児童こどもたちの姿がぽつぽつとあった。未だ少し早い所為か路の埋まる程ではない。だだ広い校庭ではサッカーボールを蹴る児童こどもたちの喧騒が湧き上がっている。悠葵がその横をすり抜けて行くと、少年たちの数人が足を止め、聲を張った。


「おおい!夏目え!一緒にサッカーやろーぜ!」

「荷物置いたらなあ!」

 飄々とした聲で悠葵が応じると、「よっしゃ!」と少年たちが拳を握り、試合を再開した。朝から既に泥塗れになって走り回る、元気の良い児童こどもたちである。悠葵はにこにこ笑いかけながら、彼らのもとを過ぎた。


 ――笑え。

 笑え。

 僕は「良い子」。

 僕は「良い友人」。


 教室までの順路みちのりで、幾人ものの児童こどもたちが悠葵に明るい挨拶を向ける。悠葵は児童こどもたちの間でも評判の良い児童こどもなのだ。

 勉強もスポーツもそこそこできて、礼儀正しく、気さくなだけでなく、美人な母親に似て可愛らしい貌造りをしているからかもしれない。ませた女の子たちの間でも大評判である。

 悠葵は、母親の、教師の、同級生の求める「良い子」に


 笑え。

 笑え。

「僕」を演じろ。

「僕」になれ。


 (あゝ……いったい僕は、誰なのだろう。僕は、何処に居るのだろう)


 貼り付けた「僕」の向こうで、悠葵は路に迷った。悠葵は嘘で塗り固められた「僕」の奥へ、現実感を、己を、置いてきてしまっていた。


 (僕は、誰なのだろう――……?)


 ぐらり、と足元が揺れる。息が苦しい。気が遠くなる。悠葵は浮遊感に伴われ、身體を傾いぐ。


「――……あ」


 悠葵の意識の片隅で、ふんわりと煙草のにおいがの鼻をついた。そのにおいの先を辿ると、見覚えのある男の姿があった。

 

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