それは甘くて、苦い金平糖

花野井あす

第1話 黄昏時の出逢い


 きらきら、きらきら

 甘くて、苦い金平糖

 色とりどりの宝石たち

 きらきら、きらきら

 その棘は転がるたびに様相かたちを変え

 捉えることを赦さず、滑り落ちる

 きらきら、きらきら

 まこと輪郭かたちをしらせない

 きらきら、きらきら

 誰も本質かたちを辿れない

 きらきら、きらきら

 でも、それが金平糖

 甘くて、苦い金平糖






 ドヴォルザークの交響曲第九番「新世界より」第二楽章の旋律のひび割れた音が市川の街並みの中で木霊する。昊の西端に浮かぶ薄雲だけが黄金色こがねいろに光り、景色は墨染の影に包まれつつあった。時おり流れる風は冷たく、吹き付ける都度に色褪せた葉をさらってゆく。


 静かにせせらぐ大柏川おおかしわがわを手摺の隙間から覗き込みようにして欄干に凭れ掛かり、悠葵はるきは「ふう」と息を吐いた。じっと川の水面に流れる紅や黄の木の葉を眼で追う。夕闇が、周囲を、己を、包んでゆく。悠葵の定まらない心を隠してくれるようで、ひどく心地よい。

 足元にある黒のランドセルからは携帯電話のバイブレーション音が何度も鳴り響く。きっと母親からの連絡に違いないことを悠葵はうっすらと感じていた。然し出る気になれない。悠葵は耳を塞いで聞こえない振りをした。悠葵は瞳を閉じ、己の中に波寄せる闇を肌で感じるのに意識を集めた。


(このまま、景色と一緒に溶けて消えてしまえればいいのに)


 ふたたび冷たい風が吹き、未だ丸い頬を撫でて濡羽色の髪をさらう。ひざ丈の深緑のズボンから剥き出しになった脚が冷やされ、僅かに小さな身體を震わせる。冬はもうすぐそこだ。緩慢ゆっくりと目蓋を開け、悠葵は再び外界そとへ意識を戻した。


「市園学園、市園学園」


 すぐ後ろに停まったバスからくぐもった男の聲が鳴る。きっと本八幡駅へ向かうバスであろう。悠葵が首だけを聲のした方へ向けると、数人の黒の詰襟を着た少年や藍色のセーラーを着た少女たちが愉し気に言葉を交わしながらバスへ乗車していく。近所にある進学校へ通う生徒たちだろう。


 このバス停から川沿いの桜並木を通り、畑を抜けた先に中学校・高等学校一貫の学校があるのだ。千葉でも指折りの私立学校で、中学受験をする者であれば必ず志望校に挙げるような進学校だ。

 なぜこうも畑ばかりの辺鄙な場所に学校を構えようなどという気分になったのかは悠葵の知るところではない。悠葵は最後の少年たちの四、五の集まりがバスへ吸い込まれていくのを見届けると、ふたたび大柏川の方へ視線を戻した。あの落ち葉の姿はもう無かった。


「君、こんなところで何をしているんだい」


 矢庭に、深みのある低音が真横から鳴った。

「……おじさん、誰?」

 悠葵はちらりと聲の主を一瞥して、出来るだけ陽気な語調で訊ねた。ひょろりと長い猫背気味の男だ。短く刈り上げられた髪に縁どられた眼差しは何処となく虚ろに思われる。皺の寄った白シャツに濃灰色のうかいしょくのカーティガンという、とても勤め人とは思えぬ背格好をしていた。

「突然すまない。ただの通りがかりだ」

 男はゆっくりとした速度で応える。僅かに聲が掠れており、濃淡が少ない。悠葵は変わらず欄干から身を離さず、男とは目を合わせることない。――そして、決してお道化た様子も崩さない。


「川の観察?」

「そんなに、面白いものでもいたかね」

「ううん、別に。なあんもいなかったよ」

「…………」

 気不味い沈黙が流れる。日はすっかり暮れ、欄干の向こうは闇が塗りこめられて川と陸の境目が判別付かなくなっていた。時刻はもう間もなく十六時。先程流れていたドヴォルザークは「遠き山に日は落ちて」。詰まりは陽が沈む前に子供たちを家へ帰すための市の放送である。


「……帰らないといけないのではないか」

 淡白な聲で男が云った。悠葵は貌を顰め、やおら男の方へ身體からだごと向けた。悠葵は未だ上背が無く、男を見上げねば目を見詰めることも出来ない。更に男はそこらの男に比べても上背があり、悠葵は頸が痛くなりそうだと感じながらも男の貌を見上げた。

 黒髪の間に数本の白髪が覗き、切れ長のまなじりには薄く皺が刻まれている。年齢よわい五十路いそじ前後といったところか。悠葵は絞り出すように明るい聲を出した。


「残念ながら、このあとすぐに塾なんだよねえ」

 僅かに驚いた様子で男は眼を揺らし悠葵をじっと見詰め返すが、すぐさま元の真顔に戻った。

「ならば早く行った方がいい。もう暗い」

「…………そうだねえ」

 悠葵は黒のランドセルを拾い上げ、底に付着いた土汚れを払い落した。六年間使い古したランドセルはだいぶ傷だらけで金具の継ぎ目はれている。悠葵は数瞬の間ランドセルを眺め、そして背負った。


「……何かあったのかい」

 背を向けて立ち去ろうとする悠葵を、男の静かな聲が呼び止めた。悠葵は振り返らない。

「おじさんもね、疲れるとここで水が流れるのをぼうっと見る」

「ふーん」

「……疲れた時はぼんやりとすればいい。誰も咎めはしない」

 再び、沈黙。悠葵は口端を持ち上げ、笑顔を作って男の方へ振り返った。


「うん。ばいばい、背高せいたかのっぽのおじさん」


 墨色に塗りつぶされた男の表情は視えない。きっと男にも悠葵の貌は視えていない。それでも悠葵はにっと笑っているようにみせた。そして男から「またね」という聲がすると直ぐに踵を返し、走ってその場を離れた。昊は街灯や車のヘッドライトの白い光に照らされ、星ひとつ瞬かない。悠葵の黒のランドセルは宵闇の中に溶けて消えた。

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