鳴海禁区

島流十次

雪悪魔


 嬉々として話しながらぼくの髪をハサミで素早く切っていくその美容師の円らな瞳は、魚川の瞳によく似ている気がした。魚川のことを思い出そうとするも、美容師が提供してくる話題によって、それは自然に終了してしまう。


「うちの区って、オカルト区で有名なんですよ。知ってましたか」


 鏡に映る彼女と目が合った。彼女の鼻から下はマスクで覆われていて、うかがうことはできない。そういえば、冬だから風邪が流行っている。

 場所が美容院でなくとも人と話すことが苦手なぼくは、彼女に対して「そうなんですか」と適当に答えるだけで、楽しく会話にのることはできない。


「そうなんです。ネットで有名なんですけどね」言いながらも彼女は当然手を止めない。「都市伝説とか、結構多いんですよ、ここらへん。掲示板とかで、わたし、よくそういうの見るんです」


 オカルト系とか、結構気になっちゃうほうなので。彼女はそう付け加えた。


「それでちょっと最近気になる噂があるんです。高校生の間ではもう有名だと思うんですけど」


 噂もなにも、オカルトだなんてものにはあまり手を突っ込んだことはないので、高校生であろうともぼくはまったくそういうものについて耳にしたことがない。口で彼女の言葉の続きを促すことはしないで、ぼくは黙って彼女が再度口を開くのを待った。


「雪悪魔、って言うんですけどね」


 シャキン、と音がして、ぼくの髪の毛がほんの少し落ちた。


「雪悪魔」


 馬鹿馬鹿しいなとは思いつつも、はじめて耳にするその名前を繰り返した。


「そうなんです。きいたことないですよねそんなの。雪の悪魔だから雪悪魔って言うそうですよ。そのまんまですよね。そう、それで、最近これが噂になってるんです。うちの区に出るって」


 うちの町のほうに来たら困りますよねえ。そんな冗談を言って、美容師は笑った。


「あ、彼女とか、いますか?」


 唐突にそんなことをきかれた。若い女の人はこういう話題が好きだということは、知っている。

 ぼくはなんと答えたらいいのかわからずに黙ってしまう。すると彼女は少し笑って、

「彼女さんがいるとしたら、気をつけてくださいね。彼女さん、狙われちゃいますよ、雪悪魔に」


 彼女はぼくの両肩を軽くたたく。


「はい、できました。こんなかんじでどうでしょうか」


 鏡を見てみたけれど、とくに切る前とあまり変わりはなくて、たとえば魚川とか、よっぽどぼくのことを見ているひとでないとこの微妙な変化には気づかないだろうと思う。

 しかし、べつに、親に指示されて親の友人の経営する地元の美容院へ髪を切りに来ただけで、とくに要望もなかったし、不服ではない。ぼくは「ありがとうございました。だいじょうぶです」と礼なんかを述べて、それから会計を済ませた。そこで美容師から飴をいくつかもらった。客に配っているのだという。明日、魚川にわけてあげることにした。

「ありがとうございました。気をつけて」

 ぼくの髪を切ってくれた美容師は、わざわざ出入口まで送りにきてくれた。若いのに丁寧なひとだ。

 外はすっかり暗くて寒く、学校帰りに制服のままここに来たぼくの防寒は完璧ではなかった。あまりの寒さにうろたえながら、ぼくは再度礼を述べようとする。

 そのとき、冷たく鋭い風が強く吹いた。

 ぼくはその瞬間を見逃さない。美容師のつけていたマスクの片耳の紐が外れて、今までマスクによって隠されていた口元があらわになった。たとえ外は暗くとも、店内からの明かりで、それはよく見えてしまった。


「あ――」


 美容師が声を漏らす。

 ぼくは目を反らす。


「じゃあ、ありがとうございました」


 滅多に笑わないぼくだけれど、優しく笑ってみせてそう言い、ぼくは自転車にまたがりさっさと帰った。それが彼女のためだったのだ。

 なんとおそろしいことだろう。

 彼女の口は、裂けていたのだ。そう、まるで、口裂け女のように。




「なんで付き合ってるの、お前ら」


 口裂け女に遭遇した日の翌日の放課後、閑散とした教室で日誌を書いている間宮が、ぼくにそんなことをきいてきた。ぼくは間宮が日誌を書くのに付き合わされているだけで、日直ではない。


「だれのこと」

「だれって、だから、お前らだよ」間宮は頬杖をつく。「お前と、魚川」


 間宮の持つシャーペンの先がぼくの方を向いた。ぼくは対応に困る。「なんで、って」


「お前と魚川ってさー全然違うタイプじゃん。お前は静かで、魚川は、あかるいだろ。本当に正反対なんだなって、見てて思う。なにがあって付き合ったの? ふたりでなにしてるんだよ。そもそもどっちから好きだって言い出したわけ。まあ魚川からだろうけど」


 質問攻めにされるとかなり困ったけれど、ぼくは仕方なく答えることにした。「魚川から」


「だよな。魚川さ、お前の影でずっとお前のことかっこいいって言ってたもんな」


 ぼくは黙る。


「ていうか、魚川も、物好きだなあ。いや、お前のこと悪く言ってるわけじゃないけどさ、魚川みたいな子だったら、俺は、もっとうるさいかんじの男を好きになるもんかと思ってた。静かな奴が好きなんだな」


 顔が熱くなるのを感じて、ぼくは間宮から目を反らした。「べつに」


「魚川のこと、本当に、好きか?」


 念を押されてそう尋ねられ、ぼくは一瞬答えられなくなる。また間宮に視線を合わせると、間宮は真剣な顔をしていた。間宮は魚川とそれなりに仲がいいために、魚川のことを心配しているのだろうと思う。


「好きだけど」


 授業中、隣の席の女子とこそこそと楽しそうに談笑している魚川のほうに無意識に目が行ってしまうということも、魚川に話しかけられると嬉しくなるということも、魚川のことをすこしでも考えてしまうということも踏まえると、ぼくがそれなりに魚川のことが好きだということには変わりない。

 一年生の頃から、魚川がぼくなんかを評価してくれていたのは知っていた。ぼくのことを見てくれていたのに気づいていた。意識してみると、魚川とよく目が合った。そういえば球技大会のときなんかも、他の女子はみんなカッコイイって言われている佐川のことを見ていたのに、魚川だけはぼくのほうを見ていた。さすがにそれに気づかないわけがなかったのだ。

 ぼくが魚川のことを好きなのは確かなのに、それに自信がないのは、なぜだろう。


「魚川のことさ、大切にしてやってくれよ」間宮が言った。

 あいつさ、いつも強がってて、すぐにだいじょうぶだって言ったりするけど、ほんとは全然だいじょうぶなんかじゃないし、すごく、寂しがり屋なんだよ。間宮は、そう続ける。

 ――そう、兎みたいに。

 間宮が静かにそう言って、シャーペンをくるりと指先で回した。

 ぼくがそれに応えられないでいると、間宮はどこか悲しそうな顔を見せて、日誌に目を落とす。


「あのさ、間宮」


 ぼくは話題を変えることにした。間宮は顔を上げずに、「うん?」と会話にのってくれる。


「雪悪魔って、知ってるか」

「――雪悪魔って、アレだろ。今、オカルト系の掲示板とかで、かなり話題になってるやつ」


 鳴海もそういう掲示板とか見るんだな、と言われたけれども、ぼくは「いや」と首を振る。「実は昨日、髪を切りに行って、それでそのとき、美容師のひとがおれに吹きこんできた」


 そういやお前たしかに髪切ったな、と間宮は言って、「なんだよ、急にそんな話」


「いや……昨日から、少し気になって。どういうのなの、ソレ」

「タチのわりい話だよ」間宮は眉をひそめて、嫌悪感を示した。「女の子を狙う悪魔。その悪魔に遭った女の子は、なんらかの方法で殺されて、路上に放置されるんだよ。その放置された死体は、雪みたいに真っ白で、そんでもってその死体には少し雪がかかっててさ。それで、その死体の下っ腹は必ず膨れてるから、『悪魔の子』を孕まされたんじゃないか、っていう話。まあ実際はそんなファンタジーな話じゃなくて、ただの猟奇事件っぽいよ。最近うちの区で女の子ばっかり狙われる同じような殺人事件がいくつか出てるだろ。悪趣味でいかれた野郎の仕業だよ、どうせ。ニュースじゃ、腹がふくれてるだのそういう生々しいことはあんまり報道しないけどさ。もうネットなんかじゃ話題になってる。雪悪魔だって言って騒いでるのはオカルト掲示板の奴らだけだよ。腹が膨れてるのも――ひどい話だけど――腹裂いて、その中になんか詰めた、ってことだろ、どうせ。雪にいたっては知らないけど」


「……なんだ、そういう話だったのか……」


 本当にそんな妖怪のようなものがいるのだと信じ込みそうになっていたぼくは、間宮の話をきいて現実に引き戻されたようで、安堵した。それにしても、その事件には安堵できない。

 すると、間宮が日誌から顔を上げて、ぼくのことを見る。


「――犯人、うちの町にも来るかもしれないから、魚川のこと、気にしたしたほうがいいんじゃね」


 いつだれが被害者になるかだなんて、わからないんだから。間宮はそう言う。

 間宮はよく、魚川のことを心配する。ひょっとしたらぼくよりも、だ。

 間宮はぼくよりも頭がいいし、運動もできるし、コミュニケーション能力もあって、あかるくて、友達も多い。間宮が魚川の彼氏だったら、きっともっと魚川はしあわせなんだろうな。そんなことを考えたけれど、それは、タブーだったかもしれない。ぼくは間宮の綺麗な顔を見て、うつむいた。


「うん……気をつけるように、言っておく」



 それから、更に次の日のことになるが、ぼくが学校に登校したとき、間宮の席は教室のどこにもなかった。間宮はもちろんいじめを受けるような奴なんかではないし、どう考えても、席がなくなるなんてことはおかしい。

 朝のHRが終わって授業がいつもどおり開始しても、間宮が登校してくることはなく、ぼくはさりげなくクラスメイトの男子に、間宮が来ないだなんて珍しいなとぼやいてみると、その男子は、怪訝そうな顔をしてぼくに言うのだった。


「間宮?」




 みんなが口を揃えて間宮なんかうちのクラスにいないなどと言い始めたため、ぼくは昼休みに担任からわざわざ出席簿をかりて間宮の名前があるかどうか確認したのだが、ぼくの見慣れた「間宮亮平」というその友人の名前はどこにもなく、慌てたぼくが余計に確認した一年生の欄に間宮翔子という女子生徒がいただけで、うちのクラスにはおろか、学年にすら、間宮亮平という生徒は存在しないことになっていた。

 ぼくがおかしくなってしまったのか、と思ったけれど、間宮はたしかにぼくの目の前に昨日もいて、ぼくとずっと話しながら日誌を書いていたし、それに、ぼくは一年生の頃から間宮とずっとクラスが一緒で、高校での一番の親友だったのだ。

 静かで友達ができにくいぼくにはじめに声をかけてくれたのも間宮だったし、学校生活のほとんどを一緒にすごしてくれたのも、間宮亮平だけだった。休日に一緒に出掛けたり、遊んでくれたのも、間宮亮平だけだった。

 新聞部の変な女の子、とよく称されている森野さんという少女に、話したこともないのに出会いがしらに間宮のことを尋ねると、彼女はぼうっとしながら「そんなひと知らないけれど」と答えて、


「もしかして、それ、神隠しじゃない?」


 と言って、更に「よくあることだよ、ここらへんじゃ」と付け加えてだらだらと去って行った。

 そうして放課後、間宮が消えてしまったという事実に愕然としつつ帰宅しようとすると、後ろから子供のような高いかわいらしい声に呼び止められる。


「鳴海くん、鳴海くん」


 気だるげに振り返ると、そこには魚川がいた。クラスが同じで付き合っているのにも関わらず、こうして二人で向き合うのは実に二日ぶりだった。

 ぼくも魚川も、友達以上の関係であることは間違いないはずなのに、お互い学校では口をきかない。では、電話やメールなんかで連絡を取り合うのか、というと、それもしょっちゅうするわけではない。ぼくらの関係は、そんな進行具合だった。きっと、ぼくも魚川も恥ずかしがり屋だからなのだと思うけれど、このことについての魚川の理由は、魚川本人が口を開かない限り永遠にわからない。

 魚川は、なにを考えているのかよくわからない子だった。それはきっと、ぼくでなくてもだ。

 ぼくのほうにぱたぱたと走って寄ってきた魚川は、ぼくのことを一瞬見上げて、それから目を反らすように自分の足元に目を落として小さな口を開いた。「髪、切ったの?」


「……うん」魚川と会話をすることは、まだあまり慣れていない。「少し」


「ほんとに少しだね」魚川は笑った。そしてぼくを見て、「今から帰るの?」


 ぼくが肯定すると、魚川は申し訳なさそうに、「じゃあ、いっしょに帰ってもいい?」と聞いてくる。そういえば、雪悪魔の――殺人事件が流行っているから、魚川をひとりで行動させないほうが、好ましいだろう。

 顎を引いて頷き、「帰ろう」と返事をして窓のほうを見ると、雪がほんの少し降っていた。

 魚川の赤のチェックのマフラーが魚川の首元からはだけそうになっていたので、なにげなく巻きなおしてやりながら、ぼくは、ぼくの友人のことを思い出す。

 ぼくにマフラーを巻きなおされ、照れて頬に朱を差している彼女、魚川イミニのことを心配し、そしてぼくと彼女の関係でさえも心配してくれた、あの少年のことを。


「魚川」


 ぼくが魚川のことを呼ぶと、魚川はぼくを見つめた。


「間宮――間宮亮平って、知ってる?」


 ぼくが尋ねると、魚川は数秒考え込んだ。その様子からして、もう魚川の世界からも間宮が消えてしまっているのだということをぼくは悟る。もし、間宮がまだ存在しているのならば、魚川は軽く笑い飛ばして「なに言ってるの、鳴海くん」など、ぼくに言ったはずだろうに。しかし魚川は、目を丸くしてみせて、考え込むだけである。

 そっか、もう、間宮、いないんだ。

 ぼくがそう思っていたとき、魚川はようやく口を開いた。


「誰かはわからないけれど、名前はきいたことあるかも。でも、なんだか不思議なかんじ。そのひととわたし、ずっと友達だったみたいな気がする」


 魚川の言葉をきいて、ぼくの目は思わず熱くなる。

 しかし涙がこぼれるのを強くこらえて、ぼくは「そっか」とこぼした。


「そのひとがどうしたの?」


 きょとんとした様子の魚川にそうきかれたけれども、ぼくは「いや、ちょっと」と答えて、魚川と学校を出るのであった。




「雪悪魔?」


 ぼくが発した単語を聞き返し、魚川は首をかしげたが、


「あー、そういえば、リミちゃんが話してた! 気持ち悪い殺人鬼って」


 灰色の空の下を、ぼくたちは歩いていた。そんな空の下からは相変わらず少量の雪が降っているものの、べつに心を掻き立てないようなきれいな雪ではないような気がして、ぼくたちが雪について触れることはない。学校を出てすぐに会話もなく黙り込んだぼくたちは、仕方なく雪悪魔の話をしながらバス停に向かっていた。


「そっか、それ、うちの町にも来るかもしれないんだ」


 言って、魚川は手を伸ばし、「ほっ」と声を出して、目の前に降ってきた雪を掴んだ。魚川がその手を開くと、都会の汚い雪は魚川の掌でじんわりと溶けている。


「あんまり触っちゃ駄目だ……」


 ぼくが魚川に声をかけると、魚川は手をはらって、溶けた雪を地面に散らせた。


「やだね、こわいね。へんな事件ばっか。先月くらいに、どこかの区でも女子高生がたくさん殺される事件あったし」


「魚川も、外出歩くときは気をつけて」


 さりげなく言ったぼくを魚川が見て、それからなぜか魚川は寂しそうな顔を見せた。けれどもまたいつものように笑い飛ばして、


「だいじょうぶだよ、わたし、狙われないよ」

「狙われるかもしれない」

「わたしなんか狙うひといないよ」

「そんなこと――」

「だから、だいじょうぶ」


 彼女はそう言うものの、ぼくはこの期に及んで本気で魚川のことを心配するようになっていた。もし変なやつに狙われたとして、このかよわいからだをした魚川が、すぐに叫んで誰かに助けを求められるだろうか。抵抗して、すぐに逃げられることなどできるのであろうか。

 マフラーに隠された魚川の細い首を思い出して、ぼくは不安になる。

 男の手が魚川の首に少しでも力をかけてしまえば、一瞬で魚川の喉はふさがれ、彼女は息ができなくなって、死んでしまうだろう。ぼくなんかが手をかけても、おそらく、一発だ。力の弱い魚川はきっと、抵抗なんかできない。声を上げることも、きっとできない。魚川が誰かに助けを求められるまえに、魚川は、殺されてしまうだろう。もしも野蛮な奴が魚川に手を出せば、魚川はそのままそんな奴にのしかかられて、簡単に、傷つけられてしまうだろう。

 ぼくはぞっとした。魚川が殺されるだなんてまっぴらだし、ぼく以外のやつに――ぼくであろうとも――魚川が犯されるだなんて、とんでもない話だ。痛みに泣き出す魚川のことを想像してしまい、ぼくは頭を振る。考えたくもなかった。


「――これからさ、いっしょに帰ろうか」

 思わずぼくはそう提案する。過保護なんかじゃない。むしろ妥当な提案だった。


「え?」魚川は目を丸くし、「どうして?」と尋ねてくる。

「心配だから……」

「だいじょうぶだよ」魚川は寂しそうに笑った。

 ――『すぐにだいじょうぶだって言ったりするけど、ほんとは全然だいじょうぶなんかじゃないし、すごく、寂しがり屋なんだよ』。間宮の言葉を思い出す。


「だいじょうぶなんかじゃない」


 言って、ぼくは立ち止まる。そのせいで、魚川も立ち止まった。ぼくが魚川のことを見つめると、魚川もぼくのことを見つめた。そして、困ったように、悲しそうに、彼女は目を泳がせる。それから魚川はうつむいて、「でも、でも」と口ごもった。

「約束」ぼくは言う。「いっしょに帰ろう」


 無意識に、魚川の手をとっていた。魚川の手はひどく冷たくそしてかじかんでいて、ぼくは冬を恨む。魚川の手がわずかに震えた。


「――いっしょに帰ってくれるの……?」


 弱弱しく魚川はきいてきた。ぼくが頷けば、魚川はやっと顔を上げる。


「……ありがとう」


 魚川は嬉しそうに、ほんのすこし微笑む。魚川の頬はまた赤くなって、魚川の手も、徐々に熱くなっているような気がした。

 きっと魚川は、ひとりになれば、死んでしまうのだと思う。

 そう、兎みたいに。




 魚川と約束した内容は、こんなものだった。夜は、絶対にひとりで出歩かないこと。放課後は、ぼくと帰宅すること。ぼくでなくとも、ほかの友達とでいいから、ひとりにならずに帰宅すること。あとは、知らないひとにはついていかないように、というまるで幼児とするような約束もした。なにかあったらすぐに誰かに連絡するように、とも言った。警察や、ぼくにだ。それでも万が一襲われるようなことがあれば、叫んで助けを求めるようにと忠告しておいた。

 あたたかいバスの中、まるで父親のようにぼくがあれこれ言っていると、話をききながらも魚川は至極嬉しそうな表情をしていた。「だって、なんか、鳴海くんに心配してもらってるの、嬉しいから」。魚川は恥ずかしそうにそう言った。

 ふたりの最寄駅についたあと、ぼくは彼女を家まで送って、そして帰宅した。

 リビングのテレビをつけてみれば、ニュース番組内で雪悪魔について騒がれており、更にうちの隣町の名前が出ていてその被害者について報道されていたものだから、ぼくは余計に、落ち着いていられなくなる。




「ああー。数学か。数学は、ナルが得意だよ。な、ナル」


 放課後、魚川が他の教室で委員会の仕事が終わるまで暇なぼくに話を振ってきたのは、クラスメイトの友人の佐伯という男子だった。テストが近いということもあって佐伯は鈴野という女子につきっきりで英語を教えていたのだが、彼女が今度は数学がわからないと言いだしたようだった。


「べつに、得意ってわけじゃ……」


 ぼくが言うと、佐伯は時計を見上げ、「丁度いいや。俺、もうすぐバイトだし、帰るわ」などと言いだす。「じゃ、鈴野の数学は任せたぜ、ナル」

「いや、おれは」

「じゃ!」


 鈴野は、バッグを持って教室を出て行ってしまった。教室には、談笑をしている暇な生徒数人と、それから机の上にノートや教科書を広げて座っている鈴野とぼくだけが残った。

 そもそもぼくは女子が苦手なのに(魚川と会話をするのも精一杯)、こんな状況は、ひどい話である。しかも魚川以外の女子が相手なので、なんとなく、気が引ける。

「ごめんねえ、鳴海くん」鈴野が言った。

「いや……」とぼくは言ったものの、さすがに断りにくい。困っている彼女を放って「ごめん」などと言ってとっとと出て行くのも人としてどうかと思ったし、少しだけなら教えてあげてもいいかもしれない、とぼくは考えた。

 魚川が委員会の仕事を終えここの教室にきたら、ぼくは魚川と合流して帰宅すればいい。それまでどうせ暇なのだし、べつに、いいだろう。


「……どこがわからないの」


 きいて、ぼくは鈴野の席の前の椅子に座り、鈴野に向かった。鈴野の返事は曖昧で、「ここらへん」だの「ぜんぶあんまりわからない」などと言いだすため、正直ぼくは困ってしまった。魚川の所属する委員会は、いつ仕事を切り上げるのだろうと、そればかり考えながらぼくは時折自分の手首の腕時計を確認したりして、あまり落ち着かなかった。

 公式についての説明が終わったところで、鈴野が口を開いた。


「鳴海くんって、彼女とかいるの?」


 鈴野にそんなことを唐突にきかれ、ぼくの教科書をめくる手はぴたりととまる。他人にそのようにきかれたとき、普段ぼくは中途半端な答えを出したりごまかしたりするものの、今回はそんなことはしなかった。「いるよ」ときっぱりと答え、教科書を閉じ、机に置く。

 そういえば、ぼくと魚川が付き合っていることを知ってる人物は、間宮だけだった。

「そうなんだ」そう言って鈴野は視線をノートに落とす。「何組の子?」

「うちのクラス」

 ぼくがそう言えば、鈴野は目を見開いて驚き、またぼくを見た。「そうなの? 誰?」

 鈴野はやけに詮索してこようとするので、ぼくは不愉快に思ってしまう。苛立ちながらも、ぼくは誰かということは答えないことにした。問題を解くことを促しても、鈴野は従おうとしなかった。


「関係ないよ、鈴野さんには」


 しつこくきいてくる鈴野に思わずそう言うと、鈴野は困った様子で自分の髪を指先でいじる。鈴野の髪はゆるく巻かれていて、他の最近の女子と同じように染められている、深い茶色をしていた。ぼくは、魚川の黒髪が懐かしくなる。鈴野が数回瞬きをすると、彼女の長い睫が、ぱちぱちと瞬いた。


「関係、あるよ……」鈴野が弱弱しく言う。「関係、あるもん……」

 そのとき、ぼくに救いの手が差し伸べられるかのように、聞きなれた声が聞こえてくる。


「鳴海くん」


 その声は、いつもよりもやわらかく、ぼくに甘えているようで、ぼくが振り向くと、ドアのほうにはやはり魚川がいた。


「いま、委員会終わったんだけど――」


 ぼくの前に座る鈴野に気付いたようで、魚川は一瞬、ハッとした。ぼくの心臓は不気味に鼓動する。魚川はすぐ元の表情に戻して、「あ、リミちゃん……」と鈴野に声をかける。タイミングの悪いことに、そこらへんで談笑をしていたクラスメイトたちはすでに帰宅していた。

 半ば無意識に、ぼくは床に置いていた自分のバッグを掴み、魚川のほうに行って帰ろうとする。

「魚川が来るまで、頼まれて、教えてたんだ、数学」


 早口になって、ぼくは言う。しかし、「うん」と魚川はうつろに言うだけで、ぼくのことを見てくれない。「だいじょうぶ。わたし、先、帰ってるね」

「いや、おれも帰るから……」


 魚川がひとりで先に帰るだなんて、絶対に駄目だった。それに、魚川と合流して、なんとかこの状況を弁解したかった。しかしそれを遮ってそうさせないのは、鈴野である。


「鳴海くんの彼女って、イミニちゃんだったの?」


 ぼくは呆れたようにそう言った鈴野を振り返る。鈴野は、無表情だった。そんな鈴野を見たあとまた魚川を見てみると、魚川は鈴野の言葉をきいてショックを受けたような顔をして、呆然とうつむいていた。


「ごめんね……」魚川は、ぼくに言う。「わたし、帰るから……だいじょうぶだから……」


 魚川は、走り出してしまった。


「魚川」


 ぼくが魚川を追いかけようとすると、ぼくの腕は、いつの間にか席を立っていた鈴野に掴まれているではないか。「はなせ」と、久々にぼくは大きな声をあげてその手を振り払おうとするも、驚くべきことに、鈴野の力はかなり強かった。ぼくの腕がぴくりとも動かないほど、強かったのだ。掴まれていることによりようやく自覚した痛みにぼくは声を上げ、鈴野を振り返ると、鈴野は先ほどとは変わらない無表情をしていて、ぼくの全身に悪寒が駆け巡る。


「意味、わかんない――なんで、イミニちゃんなの? なんで、わたしじゃなくて、イミニちゃんなの? なんで、あんな子――あんな、かわいくもなんともない子なの?」


 鈴野に胸ぐらをつかまれ、ぼくは床に勢いよく押し倒される。頭を強く床に打ち付け、一瞬ぼくの意識は朦朧としたが、すぐに明瞭になってくる。目の前には鈴野の無表情の顔があり、鈴野の鋭い視線がぼくを射抜くようだった。意味がわからないのは、こっちだ。

 すると、するすると鈴野の髪がのびてきて、ぼくの首に巻きつく。それには命が与えられたかのように力が加わり、ぼくの首を強く絞めていく。


「わたしのほうがかわいいじゃない」歯を食いしばって、顔をぐしゃぐしゃにして鈴野は泣きながら言った。「わたしのほうが、あんな子より、ずっとずっと、かわいいじゃない、なんで、あの子なの? あの子、全然かわいくない、ブサイクじゃない、ただ明るいだけで、かわいくもなんともないじゃない、そうだよね、鳴海くん、あんな子――」


「――イミニのこと、悪く、言うな」


 力を振り絞って、ようやく声を出す。いつもよりも低い声が出て、ぼくは鈴野のことを睨みつける。震える手で鈴野の肩を掴み、引き離そうともする。


「なんでなんでなんで……ひどいよ、鳴海くんひどいよ、ねえわたし、わたしが鳴海くんにお似合いじゃない、鳴海くんの隣にわたしがいたほうがいいでしょ、あんな子が鳴海くんの隣だなんて、もったいないよ、あの子、頭おかしいって、知ってるでしょ、ひとりじゃなんもできないし、なにかの才能があるわけでもないじゃない、いっつもいっつも、死にたいって言ってる――ねえわたしの目を見てよ、目を見てよ! あの子よりも綺麗でしょ、睫、長いでしょ! わたしの顔を見て、あの子よりも、断然、綺麗じゃない、ねえ、ねえ、ねえってば」


「ふざけんな」


 ぼくは声を絞り出す。


「離れろ、妖怪」


 それを引き金としたように、鈴野は狂ったように唸り出した。


「ウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウ」


 鈴野の黒目がぎょろぎょろと動く。彼女は混乱しているようだった。鈴野の髪の力も、ほんの少し弱まる。ぼくの頭の中はいたって冷静で、その隙に、ぼくの近くにある自分のバッグに手を伸ばし、それを開け、ぼくは片手で筆箱を探りだした。その中に、たしかハサミが入っているのだ。

 普段使わないくせに入れておいてよかったとこのとき思う。ぼくはなんとかハサミを取り出す。

 そしてそれで、ぼくの首を絞める鈴野の髪を、切った。

 シャキン、と音がして、ぼくの脳裏にあの美容師がほんの一瞬だけ描かれる。しかしそれはすぐに消えてなくなってしまった。髪を切られた彼女は力を失ったように、パタリと後ろに倒れる。ぼくはカバンを持ち、ハサミはポケットにしまい、首に残った彼女の髪を払い落として立ち上がり、すぐに教室を出ようとした。


「待って――待って、鳴海くん――」


 ウウ、ウウ、と、依然として唸りながら鈴野も立ち上がろうとするも、力を失っているのか、四つん這いの体制になってしまう。その姿はまるで井戸から這い上がろうとする貞子のようで、妖怪らしい姿でもあった。

 すると鈴野の後頭部が突然カパリと開き、大きな獣のような口が露出する。その中から更に真っ赤な舌が出てきて、それはぼくに向かって伸びてくるも、ぼくは教室を出て走って逃げる。

 鈴野は四つん這いの姿勢のまま、ぼくを追ってきた。

 すさまじい速さだったと思う。五十メートルを七秒で走るぼくにも匹敵する速さだ。ひどく恐ろしく、ぼくは一心不乱に走る。こんなときに、校舎に誰かがいる様子はない。

 タタタ、と階段を駆け下りるも、鈴野も容赦なくぼくを追いかけてくる。べちゃべちゃべちゃ、と不気味な音を立てて、猛スピードで鈴野も追いかけてくる音が聞こえた。三階から、二階へ。二階から、そう、一階に行き、外に出れば、もうぼくの勝ちだ。

 東側にある二階から一階へとつながる階段を選んだのが吉と出た。降りた階段のすぐ目の前は突き当りで、右に曲がらなければならない。ぼくは素早く右に曲がったが、勢いがありすぎたのか鈴野は曲がりきれないようだった。べちゃり、と大きな音がする。

 立ち止まって恐る恐る振り返ると、壁に激突した鈴野がいた。頭はぐしゃりと潰れていて、血は悲惨に飛び散っている。長く伸びきった髪は広がり、生気を失っているようだった。

 死んだか――いや、死んでないかもしれない。

 考えるよりも先に、ぼくはいち早く校舎を出た。

 鈴野がまた追ってくるかもしれない、という不安よりも、魚川が今頃ひとりで道を歩いているのだという現実への不安のほうが、大きかった。




 魚川は歩くのが遅い子だから、急げばまだ間に合うと思っていた。脇腹の痛みなど忘れて、ぼくは魚川に追いつくために走る。魚川は、まっすぐ帰ったと思う。だから、このままバス停へのルートを行けばいい。バス停へのルートは住宅街とは程遠く、どんなに変えようとしても住宅が少なく人気(ひとけ)もまったくない道が広がっているために、ぼくの不安は余計に駆りたてられていた。

 そのとき、女の子の叫ぶ声がきこえた。ぼくははっとして、あたりを見渡す。まだ夕方だというのに冬のせいでもう真っ暗で、視界ははっきりしていない。街灯は頼りなかった。

 叫び声の主は魚川だと、すぐにわかった。ぼくが想像していたことが、現実になってしまったのだろうか。ぼくの心臓はやけに早く鼓動し始める。混乱しそうになってしまうが、ぼくはどうにか自分を落ち着かせて、人気のない道の中、魚川の名前を呼んだ。

 すると、魚川が、ぼくの名前を叫んでいるのが聞こえた気がした。

 曲がり角は、右と左の二つがあって、ぼくはどちらに行こうか瞬時判断に戸惑うも、直観で右を選ぶ。右に向かって走っても魚川が見つからないようであれば、すぐに左に戻ればよい話だった。ぼくは右に曲がって、走り出した。

 建物と建物の間の暗闇に、ぼくは目をつけた。双方とも、もう使用されていない廃墟である。

 そこから、口をふさがれても尚叫んでいるような、魚川の声が聞こえた。

 ぼくは暗闇に足を踏み入れる。目が慣れ、徐々に周りが見えてくる。

 そこには、魚川に覆いかぶさる、悪魔がいた。

 白い人型のそれには、顔というものがあった。まるで幼児がクレヨンで雑に落書きでもしたような顔があり、そこに目と鼻と口が「ある」というよりは、「描かれている」ようであり、ずいぶんと現実離れした存在で、正直、人間はおろか悪魔だとも表現しがたい。その口は歪み、人間をあざ笑うかのように笑っている。

 「雪悪魔」は、ただの「殺人鬼」ではなかった。

 雪悪魔は、雪悪魔でしかなかったのだ。

 呆然としかけたが、ぼくはすぐに我に返る。魚川からソイツを引き離そうと、雪悪魔の体を掴む。べちゃ、と音がし、ぼくの手は雪悪魔の冷たい体に触れた。ぼくは驚き、ぱっと手をはなしてしまう。手を見ると、粘着質な白い雪悪魔の体の一部がついていて、それはどろどろと手から落ちていく。すると、ぼくの手がなにかに侵されたように、ゆっくりと、ゆっくりと、黒くにごったような色が指先から広がりはじめた。

 魚川の口をふさいでいた雪悪魔の手が、今度はぼくの首にのびはじめた。雪悪魔の手から解放された魚川の口が開き、「鳴海くん」と彼女は弱くぼくの名前を呼ぶ。ぼくの足はすくみ、ソレを避けることはできなくなってしまう。呆気なく、白い手にぼくの首は掴まれた。

 首を絞められるのは、実に二回目だった。ぼくは声をあげる。ぼくの首を掴んでいないほうの雪悪魔の片手は、魚川をおさえつけている。とにかくこいつを振り払って、魚川を救出したかった。

 そして、ぼくは自分の制服のポケットに入っている刃物のことを思い出す。ハサミだ。ぼくはポケットに手をつっこみ、ハサミを取り出した。鈴野のときとは違い、切ることはせずに、ソイツの腕に刃の部分を突き刺した。

 刃はぐちゅりと音をたてて雪悪魔の腕に深々と刺さっていく。雪悪魔の腕の力が抜けて、ぼろりと、手が崩れ落ちた。

 その隙をついて、ぼくはハサミを引き抜く。指先から広がっていたあの黒の浸食は、すでに手首まで広がっていた。そのことを自覚した途端、痛覚が広がり、手の感覚も麻痺してくる。手が、動くことを拒むように痙攣する。

 それでもハサミを強く握りしめた。唯一の武器がハサミだなんて頼りなかったが、仕方がない。

 ぼくは左手で雪悪魔を押し倒し、ハサミを振り上げる。

 雪悪魔と、目が合った。


「――――」


 金縛りにあったように、ぼくの体がピタリと止まる。

 雪悪魔が、笑った。ワハハハハハ、と、野太い男の声で、笑い始めた。


「なんなんだ……」体は動かないが、話すことだけは、できた。「なんなんだよ、お前……」


 雪悪魔は答えない。ワハハハ、ワハハハハ、と、笑い続けるだけである。なぜ彼が笑っているのかもまったくわからなかった。ひょっとしたら笑っていることにはとくに意味がないのかもしれなかったが、なんとなく、ぼくが笑われているような気がした。

 くそ、と心の中で呟いたとき、なぜか急に金縛りが解ける。ぼくはすぐさまハサミを振り下ろす。

 ハサミの刃は、雪悪魔の左目に向かって振り下ろされた。ぐしゃりと音がして、雪悪魔の体とは対照的な雪悪魔の黒い瞳が刃に刺され、黒いインクのようなものが噴水のように飛び散っていく。

 じゅわじゅわと雪悪魔の体は徐々に蒸発するように消え始める。

 それでも、雪悪魔は、笑い続けていた。


「サヨナラ、鳴海クン」


 最後に、雪悪魔はたしかに、ぼくにそう言った。




 雪悪魔は、あっという間に蒸発して消え、その存在をも自らの意思で消してしまったようだった。しばらくぼくは呆然とし、力が抜けて、手からハサミを落とす。しかしぼくは我に返り、魚川の上体を起こしてその場で抱きかかえた。


「魚川――」


 魚川がなにをされたのか、あまり考えたくはなかった。ただ、魚川の制服ははだけていて、加えて魚川の首は赤く、魚川もあいつに首を絞められたのかもしれない。魚川の意識は朦朧としているようで、まるで命を吸い取られてしまったかのようだった。

 そこでようやく、ぼくは気づく。傍らに放置された、女子生徒の死体に。

 制服を見るに、彼女もぼくたちと同じ学校の生徒で、それにどこか見覚えがあった。たしか、うちのクラスの女子生徒だ。うつろに開いている目は血走り、間宮が言っていた通り、めくれたワイシャツからのぞく腹部は、なにかを孕まされたかのように膨れていた。その体には、なぜか少量の雪が降り積もっている。

 この女子生徒を殺したあとに、あの悪魔は、魚川でさえも殺すつもりだったのだ。ぼくがここに来るのが少しでも遅れていたら、魚川も今頃、あの女子生徒のようになっていたのかもしれないと思うと、とたんに恐ろしくなる。もっと早く来ていたら、あの女子生徒のことも助けられていたのかもしれないと思うと、どっと悔しさがこみあげてくる。


「鳴海くん、首……」


 魚川の指先が、ぼくの首に触れた。おそらく、ぼくの首に残っている、細い絞めつけられた痕のことを指しているのだろう。「うん、ちょっと」と答えて、ぼくは魚川に話しかけた。


「ごめん」


 ぼくが言っても、魚川にはもう応える体力もないのか、息を大きくゆっくりと苦しそうにしながら、ぼくのことを見つめるだけだった。

 ぼくはケータイを取り出して、救急車と、それから警察を呼ぶ。


「わたしも――」通話を終えたぼくに、魚川は静かに言った。「わたしも、ごめんね……」


 ぼくは、魚川の頬に触れて、「だいじょうぶだよ」と答えた。魚川の体温はあたたかかったが、いつこの体温が消えてしまうのかわからない。だが、救急車はすぐに来てくれるだろう。

 廃墟に挟まれて作られた暗闇の空間の向こうを見つめると、きれいな雪が、ちらついていた。




「もう、来ないかと思ってました」


 そう言った美容師は、以前と同じように鼻から下をマスクで覆っていた。べつに、彼女は風をひいているわけでもないし、風邪予防をしているわけでもないことは、すでに確かである。


「あのとき驚いたのは事実です」お金を支払いながらぼくは言った。「でも、髪は切らなきゃいけないし、今度はもうちょっと違うかんじの髪型にしてもらおうと思って……」


 数日後。前回カットしてもらったときは、ハサミを入れてもらう前とさほど変化がなかったので、今更になってそれに不満を感じたぼくは、またこの美容院に来ることにしたのだった。ぼくの髪を切ることになった美容師はまた、あの口裂け女だった。


「いいんですか、わたしが、こんなでも」


 お金を受け取りレジで計算をしながら、彼女は申し訳なさそうに言った。


「危害を加えないようなら、全然」


 鈴野リミのようなのは、正直、勘弁してほしい。そういえば、と鈴野のことを思い出す。彼女もまた間宮と同じく、この世に存在しないことになっていて、翌日確認してみれば鈴野の席も不自然に消えていた。

 ぼくがぼうっとしていると、美容師はぼくに話しかける。


「わたし、きれい?」

「冗談はやめてください」


 ぼくが軽くあしらうと彼女はぼくの反応が予想通りだったのか、馬鹿笑いし始める。ようやく他の客や店員の目を気にして笑いをとめたころには精算が終わり、彼女は領収書を書き始める。

 店を出ると、前回と同じく美容師はドアの外に出てぼくを見送ってくれた。


「そういえば、雪悪魔の件、解決したみたいですよ」

「――そうなんですか」ぼくはなにも知らないふりをした。

「解決っていうか、自然消滅だったみたいです。あれを最後に、もう雪悪魔に狙われた女の子はいないそうですし、雪悪魔を見たひとも、いないそうです」美容師のマスクから、白い息がこぼれる。美容師は、服のポケットに両手を突っ込んだ。「まあ、雪悪魔の殺した女の子の死体のお腹から、悪魔の子が這い出てきて――なんて怖い噂とか、まだ出てるみたいなんですけどね」


 うちの区、こわいですよね。ぼくがそう言うと、美容師は笑って、「口裂け女なんかが平気でいるようなとこですからね」と冗談を言った。口裂け女以外にも、現に神隠しに遭う少年もいれば、二口女なんかもいたし、雪悪魔とかいう本当に厄介なものもいた。


「安心してられませんねえ」美容師は言う。


 まったく、本当に、その通りだ。


 美容師に礼を述べて、ぼくはそれから自転車にまたがって帰宅する。




 また髪を切りに行った翌日、授業が終わりぼくはバッグに教科書などをつめて帰宅準備をする。前まではそのままひとりで帰宅するだけだったが、向こうの席の魚川のほうに向かう。

 魚川はマフラーを首に巻くのに手間取っている様子だった。後ろからそっとぼくがマフラーを巻いてあげると、こちらを振り向いた魚川はぼくに気が付き、顔を少し赤くした。


「ありがとう」

「いや」ぼくは言って、「帰ろうか」

 魚川は微笑んで、バッグを手にする。「うん」


 そしてふたりで廊下に出れば、ふいに魚川がぼくに話しかけてくる。


「鳴海くん、髪切ったね。かっこよくなってる」

「あ、これ……」ぼくは思わず自分の髪に手をやった。

「どこの美容院でやってもらったの? カット、じょうずな美容師さんにやってもらったんだね」


 魚川がそう言うので、「口裂け女に切ってもらってるんだ」とぼくが言うと、魚川は「なにその冗談」と笑ったが、これは冗談でもなんでもなく、ただの事実にすぎない。しかしぼくなりの冗談だと思ってのってきた魚川は、「じょうずな口裂け女さんなんだね」と言って、かわいらしく笑うのであった。


「そういえば……魚川、鈴野って、知ってる?」


 階段を降りているときぼくから話しかけると、魚川はきょとんとして振り返った。


「鈴野?」

「うん。鈴野リミ」


 魚川は、ぼくが間宮について尋ねたときのように、数秒考え込む。ぼくの突然な質問にも一生懸命答えてくれようとするあたり、魚川は優しかった。しかし、魚川の世界からもやはり鈴野はもう消えてしまっているのだろう。

 魚川は悲しそうな顔を見せる。「ごめんね。わたしは知らないかも」


「そっか。それなら、いいんだ。変なこときいて、ごめん」


 途中、ぼくから頼んで東側の階段をふたりで確認しにいったが、もう階段前の突き当りにはなにもなく、壁はただただ真っ白だった。全身から力が抜けて、安堵するのを感じた。

 ぼくたちが校舎を出ると、雪がたくさん降っている。格別美しくもないような、ゴミ混じりの汚い雪だ。雪を見るたびに、ぼくはあの不気味な悪魔を思い出してしまう。

 あの後インターネットでさんざん雪悪魔について調べてみたのだが、結局詳細はわからなかった。化け物、というよりはただの噂や事件として扱われているようで、いわゆる都市伝説に新たに追加されたようなニュービーで、たとえば口裂け女のように詳しい伝承などはまったくなかった。悪魔の子を孕ます、という点で一致するインキュバスという悪魔の存在は知ったが、どうも雪悪魔とは違うような気がしたし、第一、このインキュバスというものは夢魔――夢に登場する悪魔であり、現実で登場してきた雪悪魔とは大きく違うことが証明される。

 では、あの悪魔はいったい、なんだったのか。それは永遠の謎だろう。

 しかしながら、今、ぼくには不安なことがひとつある。

 それは、最近魚川が訴えるようになった、腹痛だ。

 ひょっとしたら、魚川の腹の中では――と考えると、ぼくは夜も眠れない。雪悪魔はたしかにそこにいて、魚川のことを襲った。魚川だって、そのことはしっかりと覚えている。

 あの一件は解決されたように見えて、実はまったく解決されていない。

 近々、魚川は病院に行くことにしたらしい。それにぼくも、同行するだろう。


 雪を落とす灰色の空が広がるこの町の中で目を瞑ると、ぼくはまた思い出す。

 あの悪魔の、野太い笑い声を。

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鳴海禁区 島流十次 @smngs11

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