6・ルクレツィアと最愛の人


「うーん……。ロラン……」


 うっすらと目を開くと、カーテンの隙間から明るい陽光が差し込んでいた。めずらしく晴れだ、今日はあたたかい――と思いかけて、がばっと身を起こす。

 あたたかくて当然だ。初夏だ。

 レドニア国の初夏。


 ロランはいない。窓の外では小鳥がちゅんちゅんのどかに鳴いている。平和な朝だ。

 そして自分は憂国の王女セレスティーヌではない。火炎の勇者ジルベルトだ。

 両手を目の前にかざして豆だらけの分厚い手のひらを見つめる。セレスティーヌの白く華奢な手は消えてしまった。

 あの夜、ロランの大きな手に重ねたあの愛らしい手は――。


 ジルベルトはごくりと唾を呑み込んだ。



 ものすごく前振りの長い淫夢を見てたんじゃないだろうな……。



(そんなの嫌だ。ロランに会いたい。ロラン――ルクレツィア姫!)




 大急ぎで身支度を整え、部屋から出る。ジルベルトの宿舎は王宮内に準備されていたので、運が良ければどこかでルクレツィア姫に会える。彼女は早朝に庭園を散歩することが多いから、まずは外だ。

 彼女のお気に入りの東屋に駆けつけると、新緑の木々の間から、ルクレツィア姫の輝く金の髪が見えた。


「ルクレツィア姫!」


 大声で彼女を呼ぶと、ビクッと大きく震えて振り返った。供をしている侍女がジルベルトを見て「あらまあ」と弾んだ声を出す。


「ルクレツィア姫――あっ、なぜ逃げるんです!?」


 走って東屋を去ろうとするルクレツィアを追いかける。ジルベルトの体なら、女性の足に追い付くのはたやすい。あっという間に姫に追いつき、その手をつかもうとして、やめた。

 つかまえる代わりに「ロラン!」と呼び掛ける。

 ルクレツィアが足を止めた。

 おそるおそる振り返った彼女は、半泣きになっていた。彼女らしくなく取り乱している。


「なぜ逃げるんですか?」

「逃げるに決まっています! 恥ずかしい……。あなたにあんな……その……我慢できなくて」


 やはり夢ではなかったのだ。トゥールイユ国での昨夜のことは。

「寝室にあなたをお連れしてもいいですか?」とロランに尋ねられ、思わず「はい」と答えてしまった。

 セレスティーヌとて、寝室で何をするかわからないほど初心ではなかった。あまりにもまっすぐに問われたので、承諾してしまった。媚薬の効果に苦しむロランを見たのが悪い。あのときの彼はあまりにも色気がありすぎた。


(結局魅了されてしまった……。でもルクレツィア姫なんだから当然じゃないか)


「ロラン」

「きゃー!」


 ルクレツィアは耳を塞いでしゃがみこんでしまった。ジルベルトも彼女に合わせて隣にしゃがみこむ。顔をのぞきこむようにしてもう一度「ロラン?」と呼び掛けると、ルクレツィアは観念したようにきつく閉じていた瞼を開いた。


「よかった……。俺、夢を見ていたのかと思ったんです。夢じゃ嫌だと思って、確かめたくて、姫様を探しに来ました」

「あああなたは恥ずかしくないの。わたくしは、穴があったら入りたい……」

「そう言われると恥ずかしいかな……。でも」

「でも?」


「最高に幸せでした」


 ジルベルトがそう言ってほほえみかけると、ルクレツィアは目を大きく見開いて頬を真っ赤に染めた。


「ジルベルト、あなたってどうしていつもこう~~~!」

「なんかへんなこと言いましたか、俺」


 ぽかすかぶってくるルクレツィアをかわしながら、ジルベルトは笑った。

 ルクレツィア姫はかわいい。いつも毅然として気高くあるけれど、ジルベルトの前ではちょいちょいかわいくなることが以前からあった。


 そう、もっとはやく自分から気付けばよかった。

 彼女が自分を愛してくれていることに。異世界で男になってもなお、自分を愛してくれていたことに。

 そして感謝しなければ。

 魂が別の体に宿っても、ありったけの愛を注いでくれることに。


「朝から仲良しだねー」


 ふいに頭上から声がした。しゃがんだまま見上げると、王太子オズヴァルドだった。


「その様子だと想いを通じ合えたんだね。よかったよかった。二人に朗報だよ。ジルベルトの叙爵式は一週間後。ルクレツィアとの婚約は同時だ」

「殿下……」

「国民が救国の勇者と姫の婚約はまだかまだかって浮足立ってるからね。大急ぎで設定したよ。結婚も早めがいい? その様子だと早めがいいよね。父上に言っとく」

「お兄様ったら、もう……!」


 ルクレツィアは赤い顔をさらに赤くして立ち上がり、恥ずかしさに耐え切れなくなったのか、侍女のいる東屋へぱたぱたと走り去ってしまった。


「あっ、姫……!」

「まあ待て待て。ちょっと話そうじゃないか、ジル」

「ルクレツィア姫ー!」


 追いかけようとするジルベルトの肩をオズヴァルドががしっと掴む。


「姫大好きだなお前。よかったよ。もしルクレツィアが失恋したら、目も当てられなかったから」

「失恋って――」

「ルクレツィアの八年越しの初恋が、叶ってよかったなって」

「八年越し?」


 はははと笑いながら、オズヴァルドは肩から手を離した。


「ジルが勇者の徴を得てはじめて城にきたとき、庭園で迷ったんだっけ? そのとき庭園の隅っこでしくしく泣いてるルクレツィアに会っただろ?」

「はい」

「ルクレツィアはそのときからずっと、君のことが好きなんだよ」




 八年前。十歳になったばかりのジルベルトは、王命で城へ呼ばれた。勇者の徴が出た者は魔物の討伐に参加せねばならず、危険の多いその使命は王が直々に命じることになっていた。名誉ある役職だが生き残る者は少なく、村の母は泣いていた。ジルベルトの母は泣いていたし――別世界にいるセレスティーヌの父母は、新王に処刑されたばかりだった。


 そのころのジルベルトは不幸だった。こちらの世界でもあちらの世界でも不幸だった。心ここにあらずでぼんやりしていたら、城内で迷ってしまった。さまよい歩いているうちに庭園のはずれにある廃れた温室にたどりついて――すすり泣く女の子に出会った。あまりにも悲しそうに泣いているから、ジルベルトは温室に入って彼女に声をかけた。「悲しいことがあったの?」と。


 金髪に薄紫の瞳の、きれいな女の子だった。ジルベルトはびっくりしている彼女の隣に座った。村の母が泣いたとき、そうしたのと同じように。

 やがて彼女はぽつぽつと語り始めた。聖女である母親が、魔王に殺されたこと。自分も聖女であるので、大きくなったら魔王と戦わなければならないこと。大きな悲しみと恐れに押しつぶされそうになっていること――。


「俺もいっしょに戦うよ」


 ジルベルトはそう言って、肩に浮き出た勇者の徴を女の子に見せた。


「いっしょに君のお母さんの仇をとるよ。強くなって君を守る」


 女の子は睫毛の長い大きな目をまんまるにしてジルベルトを見た。そして涙をぽろぽろ流して「ありがとう」と言った。


 やることができたと、ジルベルトは思った。

 この女の子のおかげで前を向けた。

 そうだ、自分は勇者なのだ。自分には課された使命があるのだ。神様にもらった運命が大変なものであることくらい、物心ついたときから知っていたじゃないか――。




「あの温室のときから……」


 ジルベルトは茫然となってつぶやいた。


「そう。母上を魔王に殺されて殻に閉じこもっていたルクレツィアが、あの日を境に少しずつ元気になってさ。君のおかげだったって知ったのは後からだけど、知ってみれば討伐隊の訓練を見に妹がちょこちょこ来てたのも納得だなって」

「殿下に会いにこられたのでは……」

「あーこんな鈍感男に八年も片想いしてたんだから。なんてかわいそうなルクレツィア!」

「うっ」


 己の不甲斐なさに呆れ、ジルベルトは手で顔を覆った。


「ねえ、キスした?」


 唐突に、オズヴァルドが訊いてきた。


「……は?」

「きのうあのあと、人払いしてやったんだけど。ルクレツィアとキスした?」

「し……してないです」


 ルクレツィア姫とはしてないです――と、心の中で付け加える。ルクレツィアとはしてないけれど――。


(ロランとは、あの晩何度も)


 キスどころではない。キスどころではなかった。

 思い出したら頭に血が上った。あちらの世界に戻ったら、すぐにでも司祭を呼んで結婚しなければ。いやだいやだと言っていたのにどういう風の吹き回しだと思われるだろうし、媚薬なんか盛るなと暴れ回ってきたくせに、結局……


(うわーうわーうわー!)


 かあっと赤くなっているジルベルトの様子を誤解して、オズヴァルドがため息をつく。


「まったく、鈍感な上にウブでくそ真面目だな。そこがジルのいいとこでもあるけど。今から十五分間、ルクレツィアから侍女を引き離す。男なら決めてこい」




 オズヴァルドの言ったとおり、東屋にはルクレツィアひとりだった。「ルクレツィア姫」と声をかけると、彼女はおずおずとジルベルトのほうを振り返った。

 石のベンチに彼女と並んで腰を下ろす。

 東屋を取り巻く木々の枝を透かし、朝の陽光がちらちらと降りそそぐ。


「ジルベルト」


 ルクレツィアはうつむいていた。


「はい。ルクレツィア姫」

「わたくしに幻滅していませんか。ロランはわたくしの本性です。敵は容赦なく殺しますし、欲望に駆られ淫らな行いをします……」

「ロランの敵はセレスティーヌと共通ですし、ロランが、えっと、ああいうことするのは、セレスティーヌとだけ……ですよね」

「ええ。もちろん」

「姫様の敵は俺と共通ですし、姫様が求めてくださるのも俺だけ……ですよね」

「ジルベルト……」


 ルクレツィアが顔を上げる。うっすらと涙を浮かべる眦に、ジルベルトはちゅっと口づけた。右手をルクレツィアの膝の上の手に重ね、左手で彼女の頬を包む。



「うれしいです。すごくうれしい。この世界ではルクレツィア姫と、あちらの世界ではロランと、一緒に戦えて、愛し合えるのが――俺にとっても、セレスティーヌにとっても、最高のしあわせです」



 初夏の明るい光の中、ジルベルトはルクレツィアに、清らかな初めてのキスをした。





END

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【完結】囚われ姫の二世界生活 今度は姫のターンです! ~氷雪の騎士と政略結婚~ サカエ @sakae_saba

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