get out !!!

get out !!!

 つ、と垂れた汗をワイシャツの襟が吸った。湿気って重い生地とべたつく肌、その僅かな間にこもる空気が鬱陶しくてたまらない。毎年更新される猛暑はついに酷暑になって、クールビズだなんだと騒がれ始めたのが随分と昔のように思える。今すぐにこのうざったいスーツを脱ぎ捨てられたらどんなに楽か。

 ちょっとだけ気を遣って整えた髪はもうくたくたによれていた。慣れないことをしているのだから、そりゃそうもなる。そういえば誰に気を遣おうと思ったのだろう。立食パーティーでどこに立てばいいのかわからず、一人隅でもしゃもしゃ肉を食う俺は可哀想だろうか。いや、誰とも話さなかったわけではない。俺を憐れんで参加させた谷口は、俺が会場に来てすぐ、すすと俺に寄ってきた。

 「よお、元気」

 「まあそこそこに参ってる」

 「参ってんのかよ」

 谷口は友達が多いやつだった。きっと職場でも上手くやっているし、昔馴染みの連中とも連絡を取り合えるのだろう。だから彼には連絡がきて、俺にはこないわけだ。

 「誘われなかったの気にしてんの」

 「いや別に」

 「あー、お前の連絡先知ってるやついなかったんだってさ。でもこれフォローになるかな」

 「……いや、別に」

 ぽんぽんと背中を叩かれた。別に慰めてもらわなくたって構わない。呼ばれなかったならいかなかっただけ。同窓会なんてそんなものだろう。

 「まあまあ」

 「雑なフォローやめろ」

 「何年顔見てなかったってやつ、いるだろ。そういうやつと適当に話せばいいんだよ。お前そんなんばっかかもだけど」

 「ほんと余計な一言だな」

 「別に友達いなかった訳じゃないだろ」

 そう言って谷口はもう一度俺の背中を叩き、別のやつのところへと歩いていった。俺はひとりになった。

 喧騒に取り残される。嫌な気がするでもないが、居心地がいいわけもない。それなら誰か捕まえて話してみたらいいのだろうが、それができるのなら俺はとっくに陽キャの仲間入りだ。だからこうしてもしゃもしゃとタレのかかったおそらく豚肉を食べて、普段食べているのとは違うジャンキーさを感じている。多分美味いのだろう。食べる以外することがない俺は、もう二枚ほど貰うためにテーブルに近づく。

 トングを掴む。どこかから結婚しただの子どもが産まれただの、おめでたい話が聞こえてくる。同級生の女子がとっくの昔に女性になっていたことを知る。大人になったから結婚して、セックスして、子どもを産む。現代では一般的とも言えなくなってきたらしいそのプロセスは、しかし俺の周りでいくつも成立している。聞く気がないやりとりが耳に入るのは、このあいだ電話口の母から遠回しにそれについて聞かれたからに違いない。なんて答えたんだったか、なんてとぼける気も起きなかった。紛うことなき独り身にそんな権利はない。聞くだけ聞いたみたいな雰囲気を出されても母がそれを気にしているのは明らかだった。

 誰かと一緒になるのはそんなにいいことだろうか? 同窓会に疲れ果てて帰宅したボロアパートに理想の彼女がいることを夢想する。まあ悪い気がするわけもないのだが。

 「それ貸して」

 すぐ横から声がして俺は飛び上がるところだった。多分二センチは浮いた。空想の顔無し彼女は夢と消えた。持ったままのトングを見て、それから突っ立ってぼおっとしていたことを察する。

 「あ、悪い」

 「うん。束田変わってねぇな」

 相手の顔を見たのはトングを手渡したあとだった。腹の立つ笑顔。知っている顔だった。だがだいぶ古ぼけた記憶から苗字がヒットするのに少し時間がかかる。

 「あーでも、ちょっとくたびれた?」

 「…失礼すぎるだろ」

 「二十も後半だぜ、みんなそんなもんだって」

 「いや、そうかもしれんけど」

 お前は全然変わってなさそうだとは言わなかった。この歳にもなればお前そんな顔だったっけってやつもいるのに、目の前の男は大した変化もないような気がした。変わっていないから思い出せたのかもしれない。最後に認識したのはいつだったか、成人式か、それより前か。

 肉をとるたびひょいひょい揺れる赤茶っぽいパーマ頭。関は、ともすれば友達といえるような間柄ですらなかった。年度始まりの席がちょっと近いような近くないような、そういう男。誰とでも話すコミュ強。

 「いま何してんの、独身?」

 「普通に企業勤めだけど。あとお前さっきから配慮って知らんの」

 「指輪してないからそうかなって」

 こういうとき黙るのはよくない。こういうタイプはそれとわかると自分を棚に上げてでも相手をおもちゃにしようとしてくる。だいぶ偏見だろうが、俺はこういうとき多少相手を傷つけてでも自分を守ると決めている。

 「そういう話するほど仲良くなかっただろ」

 「そうだっけ、俺ら中学からの仲じゃん」

 「えっ」

 「話したことほぼねぇけどな」

 曰く、中学は三年間、高校では一学年以外クラスが一緒だったらしい。高校はなんとなく覚えているような気がするが、中学のことなんてもう言われてもさっぱりだった。仮に学生の時分仲が良かったとして、その学生を卒業して何年経ってると思っているのだろう。もう仲もクソもこの暑さで腐っているに違いない。否、それらを腐らせたのは俺自身だが。なんにせよ、こいつとの間には腐らせる仲もない。

 「まいいや、なんでも」

 「そういうお前は独身なのかよ」

 「カノジョいるよ」

 「あ……そう」

 馬鹿だ。意趣返しのつもりがカウンターを喰らった。想像できただろ、付け入る隙を与える気はなかったのに。オードブルの横に山積みになった菓子類から、関が個包装のチョコレートをくすねている。こいつみたいな明らかにいい加減なやつでも彼女がいて、そのうち結婚して、家庭を持つ。いい人とか、と色めき立つ母を思い出した。

 「いいだろ別に独り身だって」

 「なんも言ってねぇけど。あ、飲みもんいる?」

 「いる」

 手渡されたのは缶チューハイだった。こんなので酔えるわけがない、接待とかいう荒波に揉まれたリーマンを舐めているのだろうか。プルタブを持ち上げる。安酒の苦いアルコールが喉に雪崩れ込む。あっという間に一缶空けて、調子よく手渡された二缶目。そういえば俺はあまり酒に強いとは言えない。飲むと口が緩む。災いの元とかいうやつが、緩む。



 「束田」



 今俺は何を言っただろうか。はっと意識が自分に戻ってきたとき、身体は仰向けに寝ていた。そんなに飲んだか? 覚えていない。足がすーすーする。あれっと思って起きあがろうとするが胸元を押されて呻く。

 あれ?

 俺の家だ。多分そうだ。ちらっと見えた面白みのない見慣れた内装は、確かに俺の家だった。家を出たときと何も変わらないつまらない部屋だった──上に乗っているやつを除いて。

 「あー、起きた?」

 関がへらっと口元を緩ませる。前屈みになって俺を覗き込む肌が生白く見えた。同窓会で何年かぶりに顔を合わせただけの男は、俺の部屋で俺に跨っていた。

 「…え」

 「酔っ払ったお前、面白かったぜ。何も聞いてねぇのに洗いざらいぜーんぶ吐くの」

 「え」

 「カノジョいるいないからシモの話まで」

 「待て待て待て」

 シモの話? 俺がこいつに、シモの話?

 なんだ、なんの話をしているんだ。何ってナニか。何を考えているんだ俺は。

 「そしたらさ」

 「もういいもういい! で、なんで俺ズボン履いてないの」

 「お前童貞だって言うから、卒業させてやろっかなって」

 俺は絶句した。二十余年生きてきてこんなに間抜けな面を晒したことがあっただろうか。いやない。緩みまくったらしい舌を今すぐ噛みちぎりたくなった。実際しなかったのは衝動と疑問が正面衝突したからだ。

 勝手にシモ事情をくっちゃべったのは俺が悪い。悪かったが、だったら俺が卒業させてやる、はどう考えても文脈がおかしい。酔っていてもわかる。何を飛ばしたかもうわからないくらい話が飛躍している。

 童貞。真実だ。それを恥いるのは自分が惨めだと自白するのと同じだ。ただそうと悟られて憐れまれるのは癪だからその話題を避けているだけだ。正真正銘未経験の息子は今可哀想なくらい萎縮しているだろう。どうせ非童貞の関からしたら未だ童貞の俺が憐れでしょうがないのかもしれないが、憐れみの方向が鋭角を極めすぎている。別に彼女が欲しいとか、いや、思ったことがないまでいくと真っ赤な嘘だ。でもこれは違う、あまりにも違う。

 「なんで男ッ、どけ今すぐに!」

 「なんだよ、お前三十手前にもなって童貞でいいわけ?」

 「今どこかの誰かが絶対に傷ついた謝れ」

 「どこの誰よ。それ俺に関係あんの」

 俺だよ、俺が傷ついたんだよ、とは絶対に言えないし、俺の童貞が関に関係あるわけもない。丁度股間の辺りに乗り上げた関はその場で座り直した。立派な成人男性の無骨な重みなどちっとも嬉しくない。腰の骨がどうにかなったらどうしてくれる。

 「まあ落ち着けって。いっこずつ順番に話してやっから」

 「俺はまずお前にここで落ち着いてほしくないんだけど」

 「お前は童貞捨てたいだろ」

 「全然話聞かないこいつ」

 「んで俺はそれを叶えてやれる」

 「待て、もうおかしい」

 どうやら順番という言葉の意味をご存知ないらしい。何言ってんだこいつという顔をされても困る。それをしていいのは俺であってお前ではない、断じて。

 「何が」

 「お前が叶えるって、だからそれって」

 「そこまで言わんとわからん? セックスしようぜって」

 「それ! それがおかしい!」

 またも何言ってんだこいつという顔。それが常識なのか。俺がおかしいのか。もしかしてここは日本であって日本ではないどこかなのだろうか。パラレルワールド、並行世界的な何某かに、俺が知らぬ間にぬるりと移行したとでもいうのだろうか。いやいやそんなはずはない。ここは現代日本で、駅まで徒歩十三分の壁の薄いアパートで、寂れた独り身リーマンの枯葉みたいな根城だ。現実逃避は十分やった。今必要なのは目の前のトンチキ野郎を上から退けることだ。

 「何がおかしいって?」

 「なんでそこで俺とお前でセックスしようになるんだ」

 「何につっかかってんだよ、ハッキリ言え」

 「今言ったよな!? 飛んでるんだって話が。俺の童貞云々はまあいいとして、だからってお前とセックスはどう考えたっておかしいだろ!」

 関がきょとんと動きを止める。口を半開きのまま留めると少し子どもっぽく見えないこともない。待て、考え直せ。こんなマセガキいてたまるか。それに子どもはセックスのために他人の上に乗っからないので今のは即刻却下すべきだ。

 「あ、そこ? そこでつっかかってんの」

 「逆にそれ以外どこでつっかかるんだ」

 「そうかそうか。束田クンよ、よーく聞け」

 前屈みに寝た肩をがっしり掴まれ、重心が前に寄ったせいで俺はぐうと呻く。関は意外にもしっかりした手をしていた。

 「お前のこと一番すきなの俺だと思うのよ」

 「ハ?」

 「想像してみ。これからの人生でお前のこと好きだっつって、セックス大歓迎ってやつ。これからどれだけ出てくんの」

 なんでそんな残酷なことを聞くのだ。そんなの可能性は星の数ほどあるだろ、俺が頑張れば──そう啖呵が切れればどれだけ楽か。

 いや、待て。悲しい現実に思わず流れていきそうになる問題発言を寸前でキャッチしてしまう。流すのが最善だっただろうか。もうわからない。わかりたくない。こいつ今俺のこと好きって言わなかったか。

 「そ、そ…それは俺次第だろ。てかお前男だし。俺も男だし」

 「男か女かってのはさあ、結局穴の数の違いじゃん。それってちんこ出てるか引っこんでるかみたいなもんだろ。たいした問題じゃねえよ」

 それはお前にとってであって、俺にとっては間違えようもなく大問題なのだ。あと女の穴のことをちんこ引っ込んだやつって言うのはやめたほうがいいと思う。

 「それにお前面食いじゃん」

 「え」

 「面食いだろ。片岡に、入谷、あとあれだ、林と、吉田もだろ。好きになる女みーんな揃ってクール系美人。超わかりやすい」

 なんで知ってるんだ。

 中学から高校の気になる子リストを端から言い当てられて恥ずかしいのなんの、俺は思わず関の横っ面を平手で引っ叩いた。

 「っぶ」

 「バカお前、バカかよ」

 「つぁー! いってぇの、ご自慢の語彙力はどこいったんだよ」

 「んでそんな昔の話、何が言いてえんだ」

 「だからよ、お前顔がよければ別に誰でもイケるんじゃねって」

 そこまで言って、関からうおっと声があがった。それは俺の手のひらが再び振りかぶられたせいだったが、残念なことに今度はただ空を切るだけだった。

 「結構手ぇでるほう?」

 「人なんて殴ったことねえよ」

 「ついさっき俺のこと叩いたろ」

 「ノーカンだあんなん」

 「ええ?」

 けらけら笑う振動が腹まで届く。だからそんな際どいところに居座らないでほしい。急所を抑えられているみたいで嫌だ、俺はお前に今すぐ出ていってほしいのに。

 「な、別によくね? 俺上手いぜ。多分」

 「多分ってなんだ、俺は普通のセックスがしたいんだって。なんでわかってくんないわけ、バカかよ」

 「女だってエアプのくせにバカはどっちだって話」

 「どう考えてもバカはお前だバカ」

 何故だろうか、無性に泣きたくなってきた。恐らく泥酔した挙句家に上がり込まれてズボンを脱がされたバカと、送り狼よろしく乗っかって訳の分からないトチ狂った話を続けるバカ。三十手前のバカが二人して一体何をやっているのだろう。鼻を啜る。どう考えても俺は悪くない。喉奥でぐうと呻いた。

 「揶揄うのもいい加減にしろよ。すきとか、大体お前彼女いるんだろ、なのにこんなの、こんな」

 「こんな?」

 「浮気だろって」

 自分で言って変な顔をする。これ浮気か?

 俺が遊ばれているだけという可能性もあるのに、浮気だなんて大層な事態になるだろうか。だが彼女がいるくせに別の奴に性交渉を仕掛けるのはやはり浮気ではないだろうか。その場合刺されるのは俺か、こいつか、果たしてどちらか。

 つまらなそうにふーん、と言ったあとで関は何故か口角を上げる。

 「あー浮気、浮気ね。俺にカノジョがいて、それなのにお前とセックスするのは浮気になると。うんうんそれが気になるわけだお前は」

 「なに、饒舌怖い」

 「まあ待てって」

 さっと尻ポケットから取り出したスマホをたぷたぷ叩いて、関は画面に耳を寄せた。数コールもしないうちにくぐもった声が返事をする。

 「あ、まいちゃん? 悪いんだけど別れてくんね? うん、俺と。いきなりごめんね〜、でもそういうことだから。じゃ」

 そう言い放ってぶっつり通話を切る。唖然とする俺を尻目に放り投げられたスマホが座椅子の上に着地する。

 「おっけ、ヤろ」

 「バカか!?」

 自分で起き上がったくせに比較的至近距離にある関の顔にびびって、それでも中途半端な体勢で叫んだ。深夜に差し掛かるであろう時間帯、しかし近所迷惑など頭から飛んでいた。

 「なんっ、お前、なにやってんだ!?」

 「声でか」

 「なにやってんだよっ!」

 「お前がカノジョ持ちとはできねぇって駄々こねっから別れてやったんだろーがよ」

 「わかった! お前酔ってるんだろ、そうだって言え!」

 「俺はお前と違って飲んでねぇの」

 笑えない冗談を口走る関に、いよいよ俺はこいつを退かすための正論が意味を為さないことを知った。そうなればもうやることはひとつ、実力行使だ。

 俺は思いっきり腰を捻った。関とシーツの間でいい感じに俺の身体が回って、関が俺から滑り落ちるのが理想の筈だったが、そう上手くいくわけもない。関の身体が揺れて、前に倒れる。見えたのはそこまでだった。与えられたガツンッという痛烈な衝撃に、俺は悶えながら仰け反った。ベッドに逆戻りである。目を白黒させて痛みの元を押さえてから、俺は関の後頭部が顎にヒットしていたことを知る。

 「〜〜ってえッ!」

 「いきなり動くなってあぶねぇな」

 「クソッなんだよ!」

 「ちょっと童貞脱するだけだって」

 「それが嫌だっつってんだろ!」

 関は俺のことなんてお構いなしだ。下着のゴムに指を突っ込まれてぞっと肌が総毛立った。嫌だ、無理だ。転がり込んできたチャンスがこんな望まないものだなんて、俺には夢を見ることも許されないのか?

 「無理無理無理! むりだって!」

 「あのさあ」

 みっともなく拒絶を繰り返す俺に平坦な声が宣告する。悠長なことなど考えずに、俺はこの男を蹴飛ばしてでも追い出すべきだったのだ。

 「林にもそう言ったん」

 一瞬静止したあと。俺はみしみしいう身体を導かれるように再び持ち上げた。右拳の張り出た関節が肉の少ない頬にぶち当たり、嫌な感触と共に目の前の身体が振れた。

 た、と一筋の赤が人中のすぐ横を伝うのを見た。黒い穴から這った血をこともなげに舐めとり、関は笑った。

 「怒った? ハハ」

 「イカれてんの、お前」

 「人んこと殴っといてそれかよ」

 やっとの思いで関を見る。じんじんと拳が痺れて、震えていた。殴られた関より、殴った俺の方が満身創痍だった。何故知っているのだろう。あれは誰も知らない筈だった、俺と林以外は。諮ったように関が言う。

 「あー、別に林が言ったんでも、俺が聞いたんでもないぜ」

 「じゃあ、なんで」

 「勘だよ。俺ぁ鋭いの」

 色濃い疑いを向けても、関はそれ以上何も言わなかった。愚鈍に流れる血を親指の側面で擦って、そのせいで黒っぽい赤が顔に伸びていた。拳が痛い。面倒くさい。目の前の不始末が生んだ結果に、もう何も考えたくない。

 「……言ったよ。言ったさ」

 やっぱむり。

 そう言ったときの侮蔑と憤慨の気配を、多分一生忘れられないのだろう。

 誰も知らない。高校二年、冗長な夏。俺は林の部屋にいた。俺は林が好きだった、多分。この多分というのはその後の顛末のせいで後から付け加えられたもので、そのとき俺は確かに林のことが好きだったのだ。閉じられたカーテン。指を僅かに押し返す肌にくらくらして、俺は林とセックスするんだと理解した。なめらかな黒髪をかき分けて、はだけたワイシャツから覗くブラジャーの少し硬い感触。林も慣れてはいなかったのだろう、少し震える指を覚えている。彼女はきっと、一生に一度の勇気を振り絞った。俺だって、身の内から迸るような制御が効かないような興奮が確かにあった。嘘じゃない。そうなのに、そのはずなのに、俺は腕をつっぱねていた。俺はセックスができなかった。

 「それはさ」

 それはさあ。同じことをもう一度言った関は怠そうに口をもごもごいわせる。雑に押さえた鼻のせいで汚れた手のひらは既に乾き始めていた。

 「林がそういうのじゃなかったんじゃねぇの、知らんけど」

 「そういうのって」

 「お前林で抜いたことあんのかよ」

 「……さあ」

 「ピュア〜。林のこと全然エロい目で見てなかったんじゃん。だから見たくもねぇモン見せられてキモって思った」

 「いや、キモいとは」

 言葉が止まった。キモい。あまりにもしっくりくる表現。いや、林をキモいとは思わなかった。そりゃそうだ。好きな子のそういうのにキモいなんてもっての外だ。仮に初めてのセックスに怖気付いたとして、しかしそんな悠長にものを考えられるような冷静な下半身、男子高校生には、少なくとも俺にはない。


 じゃあ一体、何がこんなに気持ち悪い?


 「どした?」

 ひらひら。関が目の前で手を振った。俺はなんとなく目を彷徨わせる。

 「いや、ちょっと」

 「ヤる気でたん?」

 「違う! そうじゃなくて、あー…」

 「なんだよ」

 「……思い出したんだけど」

 「それおもろい?」

 「全く」

 「あっそ。まあ俺が決めるから話せよ」

 厚顔無恥、傲岸不遜。無様にも閉口する俺を、こいつはおもちゃだと思っているのだ。つつけば鳴くおもちゃ。満足するまで叩いて、弄って、電池が切れたらぽい。自らの快楽だけ追っかけ回してさぞ楽しかろう。こういうやつらが我が物顔で人生楽しそうに生きているのは何か致命的なバグだ。そうじゃなきゃおかしい、全部。

 「早く」

 関は世界のバグだし、俺はこの世で一番の間抜けだった。だったらもうよくないか。どうせ全部おかしいなら、なんだっていいだろう。ぶるっと身体を震わせる。俺は鼻に皺を寄せた。

 「多分小学、あー、低学年」

 「おっきたきた」

 父がサラリーマン、母が専業主婦のわかりやすい核家族のアパート暮らし。1DKの間取りに自分の部屋なんてない。それに不満を持つという発想もないガキの俺は、毎日両親と同じ部屋で布団を並べて眠っていた。所謂川の字だ。

 「寝相悪いやついなかったん」

 「知らん。でも俺はよく父親に刺さってた」

 「おもろ」

 あれは冬だった気がする。掛け布団を蹴っ飛ばしながら寝ていた筈の俺は真夜中に目を覚ました。しっかり肩まで掛け直された厚い毛布の中で大きく伸びをしようとして、俺は隣のダイニングから変な音を聞いたのだ。

 少し考えて、いや、少しも考えなかったかもしれない。何故か横に寝ていない両親、寝室に置いてけぼりの俺。好奇心旺盛なガキが何を思ったかは想像に難くないだろう。古い引き戸一枚の簡素な仕切りが完全に閉め切らないことを知っていた。子どもを放って二人で何かをしていると思った俺は、布団からずりずり脱出して難なく引き戸の扉に指を差し込んだ。

 「あー、そうゆーね」

 関があくびをする。

 「はあ…」

 「しっぽりヤってたってわけ」

 確かに両親は楽しいことをしていた。所謂セックスだが、それは当事者である二人だけが楽しいのであって、側からすれば迷惑ですらある。勿論俺は楽しいどころではない。ローテーブルの向こう側で何かに跨ってバウンドする女と、その何かの正体である男。夜目のきいた常夜灯の下でそれらはよく見えた。俺は最初その二人が誰か違う人だと思った。しかしよく見れば見るほど、それは母と父の姿をしていた。

 獣のような呻き声と、繰り広げられるだいぶグロッキーな肉と肉のぶつかり合い。すっかり別の生き物に化けた二人に、ガキ真っ盛りの俺は大いに恐怖した。背筋を這う寒気に小刻みに音を立て始める口元を抑えて、見つかったら一息に食べられてしまうという妙な確信に震えていた。

 翌朝、寝坊助な息子を起こしたのはあの母のような何かではなく、俺がよく知るいつもの母だった。真夜中に見たアレと程遠い姿に、いつも通り食パンにかじりつき家を出た頃には、すっかり夜見たのことなど忘れていた。

 「で、今まで忘れてた」

 「そう」

 「はーん、じゃあソレのせいで林んときも上手くいかなかったって?」

 「……」

 「なんて?」

 「…………わからん」

 たっぷり答えに迷って、俺は蚊の鳴くような声でそう言った。もしあのとき目を覚さずに、ただ朝まで寝ていたら? どうとも言えなかった。そうだとも、そうでないとも言い切れなかった。どんな経緯を辿ったとして、あの部屋で俺は林の身体を押し返すに違いなかった。だが違いないと思っているのはあの獣の夜を迎えた俺で、そうじゃない俺が何をするのかなんててんで想像もつかないのだ。

 「わかんねぇのかよ」

 「わかんねえよ、腹立つなお前」

 「お、また殴るか?」

 「あれはお前が悪い」

 「絶対謝らねーじゃん」

 相変わらず関は俺の上でへらへら笑っている。すでに二日酔いが始まっているらしい俺はもう起きているのも億劫で少し前からベッドに寝転んでいた。

 「ま、思い出せてよかったじゃーん」

 「…ごみみたいな思い出でも?」

 「ゴミってわかれば捨てられんだろ」

 関はそう言って俺と壁のほとんどない隙間に身体を捩じ込んだ。他人の熱。なんでそんな狭いところに、と突き返す気力がなかった。どうでもいいから寝たい。でも着替えたい。シャワーにも入って、ガンガンにクーラーを回して、熱帯夜も関も蹴っ飛ばして眠りたかった。だがもう何もしたくない。関が居心地悪そうに身動いで、あっと声をあげる。

 「やべ」

 「今更かよ、お前ずっとやばいよ」

 「忘れてたわ」

 どうやらポケットに手を突っ込んでいたらしい関が取り出したのはチョコレートの赤いパッケージだった。同窓会の会場から熱に晒され続けたそれは、パッケージを切った端からドロドロに溶けた中身が溢れでる。それに関が行儀悪く口をつけた。

 「きったね」

 「もいっこあるけど、いる?」

 「いらん。食いづらい」

 「食いづらいだけでうまいよ」

 そりゃそうだ、中身は変わっていないのだから。チョコはチョコのままで、関だって関のまま。じゃあ俺は?

 「お前帰れよ」

 「終電逃したし、カノジョと別れたから家がねーや」

 「追い出していいか」

 「お前のために別れたんだぜ束田ぁ」

 「頼んでない」

 「今からヤる?」

 「ヤらん」

 いつだって俺は意気地のない俺のままだ。よく知らないから、別に好きじゃないから、女じゃないから、だってセックスってなんか怖いから。いつまで経っても理由を並べ立てて遠ざかろうとするだけの俺のままだ。多分、誰のせいでもない。悪いのは俺だ。

 それでもやっぱりこれはおかしいので、こいつは今すぐに追い出そうと思う。

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