第36話 優奈の心

「さ、お話はここまで。いくら適応者でも、白鯨がいなければ私にもクラーケンにも勝てません。諦めてください」


 優奈はそう言って、両手を海へ向けた。そして指揮者が演奏を始めるようにゆったりと、腕を頭上へ掲げる。

 大きく船体が揺れると同時に海面がぐんとせり上がり、海水が岸壁を乗り越えて、地上になだれ込み始めた。


「まさか、これから東京を沈めるつもり!?」

「違いますねー夕霧先輩。東京だけじゃない。世界です。割と骨が折れますが」


 さらりとそう言いのけて、再び優奈は両手を下に向けて同じ動きを繰り返す。その度に海面が空に引っ張られるように盛り上がって、また陸地へ海水が押し寄せる。

 小さな身体に大きく操られる海に、船は上下左右に大きく揺れて、波しぶきが甲板を濡らした。

 やがて崩壊への序曲とでも言わんばかりに、陸地で大きなサイレンや消防車の音が鳴り響き始めた。


「優奈、やめろ! やめるんだ!」

「湊、そんなに慌てないで。大丈夫。私だって荒波部の三人と、お世話になったバル男さんは、殺したくないもの」


 東京を海の藻屑にするための所作を緩めることなく、優奈は優しい声で投げかける。


「だから、提案」

「提案……?」

「そう。私と一緒に、海が全てを呑み込んだ後の世界を生きようよ。人間達は海を汚しすぎたからもうだめだけど、湊達は特別にこの船に乗せて、私が守ってあげる。大丈夫。皆がいれば、白鯨にだって負けないよ」

「優奈……」


 湊は血が滲むほどに拳を握った。

 もう、優奈は違う。人間では無く、海の怒りである魔鯨としての存在意義を果たす為だけにここにいる。

 あんなに仲の良かった自分達でさえ、魔鯨と人間として種が分かたれてしまった今では、話し合って矛を納め合うことは出来ないのか。その壁は、越えられないのか。


 ――そんな湊の逡巡を振り払うように、彩子が言った。


「ねえ優奈。あんたは何も分かってない」

「?」

「あぁ、そうだなスカーレット。珍しく同意見だ」

「……なに? 何が言いたいの?」


 湊は二人の声に呼応して顔を上げた。その瞳には、猛る海賊の炎。 


「そう。うん、そうだ。僕らが欲しいのは、そんな未来じゃ無いんだよ、優奈」


 話し合って解決出来ないならば、交渉の余地が無いならば。取るべき手段はただ一つ。


 ――欲しいものは、手に入れる。

 ――欲しい未来を、奪い取る。


「あたし達は」

「俺達は」

「僕らは」


「「「――海賊だ!!」」」



「残念、交渉決裂だね」


 優奈が真司に合図をすると、湊達を拘束する鎖がギリギリと締め付けられる。


「威勢のいいこと言ったって、生身じゃ勝てないよ。早く考え直さないと、ほんとに殺すよ」

「く、この鎖を、なんとかしないと」


 全力で抗ってみるが、鎖はビクともしない。徐々に締め付ける力が強くなって行き、全身が圧迫されて、とうとう喋ることも出来なくなった。


 ――そこへ、荒れた波に乗って一匹の小さな海亀が甲板に姿を見せた。

 湊には、見覚えのある亀だった。


(あの海亀は)


「……!? なに、この亀!?」


 優奈が何かを察知し、身構えるようにその海亀を睨んだ瞬間――。


海魂“共鳴”アペラシオン


 鈴の音のような小さな声と共に、まばゆい赤い光がその場を包んだ。

 湊がうっすら目を開ける。自分達を締め上げる鎖が切断されて、甲板上に落ちていた。


「ちょっと、あいつ……!」


 彩子が目を丸くして視線を送る先で、一人の女が海亀を優しく拾って、肩に乗せた。

 頬の辺りで切り揃えられ、襟足だけが長く伸びた黒い髪。ナポレオン帽に漆黒のチャイナドレスを纏い、スリットからは見覚えのある美しい脚が覗く。その手には、身の丈ほどもある大きな両刃の戦斧。



 ――百年後の魔鯨の海賊、クロウラー。



「おい、この時代の魔鯨よ。オルカは未来の魔鯨が欲している。殺すな」


 凛とした声でゆったりと、戦斧を肩にかけながらクロウラーは優奈に告げた。


「……別の時代の、魔鯨の海賊? どうして。魔鯨側には時空を越える力なんて」


 優奈の問いかけに対し、クロウラーは湊達の背後に向かって顎をしゃくった。

 湊達は振り返る。海を割って姿を見せたのは、神々しいほどに美しい青い瞳の大きな白鯨。

 その頭上に――。


「やっほーオルカ、バルバロ! 会いたかったよ! スカーレットはおまけ」


「おいベリーじゃねえか!?」

「ええっ、どうして!?」


 バルバロと湊は歓喜の声を上げて、百年後から助けに来てくれた仲間の名前を呼ぶ。


「オ、オルカ……久しぶり……」


 ベリーの陰から、ひょこっと小さな少女が顔を出した。

 百年後で、クロウラーの傍にいた和服の少女だった。


「あれは、百年後の魔鯨の子……? クロウラー、ベリー達と和解したって事?」

「そう思ってもらって構わん、オルカ。詳しくは後で話す」


 クロウラーはそう言うと、改めて優奈の前に立ちはだかる。


「うちの魔鯨がオルカを大層気に入っていてな。お前は諦めて手を引け」


「なんで別の時空の白鯨と、あなたが仲良くやってるの。それに随分勝手な事を言うんだね。渡さない、湊は私のものだよ。この海で私と暮らすの。それかここで死ぬの」


 優奈の言葉を聞いたクロウラーは、ふむ、と一瞬の思案の後に言葉を返す。


「なあ、この時代の魔鯨よ。お前、オルカに対する感情が、まさか恋とか愛だとでも思っているのか?」

「何を……」

「白鯨と魔鯨の戦いは、海の魂を探す所から始まる。目醒める前から無意識のうちに、あくまで戦いの為だけに探している」

「……違う」


 優奈の表情が曇る。クロウラーはその一瞬の機微になどまるで構うことは無く、淡々と、夢見がちな少女へ現実を突きつけるかのように続ける。


「一緒にいたい。抱き締めたい。そんなおままごとみたいな感情ではない。一緒に戦え。相手を殺せ。自分の為に血を流せ。そういう――」

「――やめろッ!」


 優奈が声を荒げた途端、周りの海が一層荒れ狂う。

 優奈の脳裏には、小さな頃からずっと一緒だった湊との日々。一緒に帰った放課後。恋に気付いた瞬間。そんな宝物のようにキラキラと輝く思い出が、走馬灯のように溢れた。


「私のっ、私だけの心に! あなたが理由を付けないで!!」


 魔鯨が、深緑色の巨体を震わせて雄叫びをあげた。


 優奈の目と魔鯨の目から、透明な雫が落ちる。

 それが海水なのか涙なのか、湊達はおろか優奈本人すらも、分からなかった。

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