第35話 現代の魔鯨

「真司……どうして」

「……あぁ、湊か」


 トップデッキを見つめていた真司の視線が、湊達に向けられた。

 その眼はやはり憎悪の色に塗られていて、優しく明るい真司の眼とはまるで違っていた。


「真司、やめ」

「湊。ごめんな。人間はもうダメなんだ。いらねえ」


 真司は、何かを振り切るように湊の言葉を遮った。そして湊へ向けて掌を掲げた瞬間、無数の鎖が放たれる。


「――!!」


 咄嗟にバルバロが湊を抱えて、彩子と共に船室キャビンへと飛び込んだ。


「くそっ、真司は魔鯨だったってことかよ」

「いえ、きっと違うわ。あたしや湊、クロウラーと同じで適応者ってやつよ。真司も適応者で、魔鯨に奪われた。まずいわよ、これ」


 白鯨や魔鯨によって姿を変えた適応者と、生身の人間との圧倒的な力の差は、百年後の海での戦いで十二分に分かっている。

 このまま立ち向かっても、一瞬で殺されてしまう。


「もう、優奈に賭けるしかない。急いで探そう!」


 湊の言葉に二人が頷いた瞬間、大きな衝撃音とともに、鎖の群れが窓から船室へ飛び込んできた。

 湊達は全速力でガラスの破片の雨を突っ切って、下の階へと続く階段を駆け下り、優奈の元へと急ぐ。


「優奈! 大丈夫!?」


 彩子を先頭に女子トイレへと駆け込むが――そこはもぬけの殻。


「くそっ、やべえぞ。目醒める前にやられちまったら」

「そんな事、絶対させない」

「ここに来るまでにすれ違わなかったなら、後はトップデッキしか無い。それでもいなかったら、湊。海に飛び込んで探して頂戴」

「うん、わかった」


 湊が強く頷いて、今度は全員階段を駆け上がる。

 魔鯨と真司が現れた左舷側とは逆の、右舷側通路と階段を使って、トップデッキへと踊り出た。

 魔鯨の姿は見えない。しかし、付近の海中にはいるはずだ。三人は未だ、緊張を解かない。


 船はちょうどレインボーブリッジの真下。周囲には東京の摩天楼が燦然と輝いている。

 その船首では、両手を広げて漆黒の海を見下ろす一人の少女が立っていた。

 それが誰かは、すぐに分かった。


「優奈? 良かった、無事で」


 湊が声をかけると、優奈は少し顔を動かして振り返るような仕草を見せた。

 船首に立つ優奈は、今までに見た事のないような凛とした空気を纏っている。


 ――今までとは、何かが違う。三人は直感した。


「優奈、あんたもしかして……目醒めたの?」


 彩子が問いかけると、優奈は小さくこくりと頷いた。


「正念場、だな」

「やってやるわ。ついにこの時が来た」

「もう二度と、東京は沈ませない」


 湊達は拳を握り締める。瞳は瞬時に海賊の炎を宿す。今まさに、この時代の白鯨と魔鯨の戦いの火蓋が、切って落とされたのだ。


 生身で逃げの一手だったつい先ほどまでとは違う。これからこちらも、全力だ。


 船はレインボーブリッジを通過して、橋に遮られていた月の光が船上を照らす。

 優奈が湊達へ振り向き、閉じていた瞳をゆっくりと開いた――その瞬間。

 湊と彩子、バルバロの表情は、自分達の愚かな見落としを悔やむ後悔の念に歪んだ。



 ――優奈の二つの瞳は、血のように紅く鈍い光を放っていた。





「湊。夕霧先輩。バル男さん。盛り上がってるとこ悪いんだけど、ネタばらしだよ。私は白鯨じゃなくて、魔鯨でした」

 ニッコリと笑い、「残念でした」と付け加える優奈。いつも通りの明るいトーンだが、瞳の紅い輝きは、湊達にとって絶望の色彩をしていた。


 しばらく時間が止まる。やがて彩子が小さく震えながら口を開いた。 


「そっか、そうよね。魔鯨も白鯨と同じ。戦いに備えて海の魂と行動を共に――くそっ、何だってこんな当たり前の可能性を」


 彩子はぎり、と唇を噛んだ。その隣で、湊が優奈に問いかける。


「優奈……いつから、目醒めてたの?」

「うーんとね、夏休みの最初の方、かな。確かそれくらい。カラコンって、すごい目が乾くんだね。この瞳隠すの大変だったんだから」

「それからずっと、あたし達を騙してたのね。随分芝居が上手じゃない」

「ええ、女ですから。女は皆、女優みたいなものじゃないですか」

「……生意気ね、優奈」


 怒りを滲ませる彩子とは裏腹に、平然と優奈は話を続ける。


「みんなでヨット借りた時にさ、湊と夕霧先輩とバル男さんが適応者かもって気付いたから、一緒に白鯨と戦ってもらおうと思ったけど……。何だか三人から妙な匂いがしてさ。眷属放ったら、案の定」

「案の定? どういう事よ」

「私の眷属は、時空の矛盾を嗅ぎ分けて襲うの。白鯨は時空を超えて仲間を集めてくるからさ、その対抗手段。湊達、もう白鯨の味方なんだね? 分かってるんだから」


 嫉妬のような、怒りのような。今までの優奈も似たような感情を表に出すことはあったがそれは可愛いもので、今のはまるで異なっていた。奥底にある敵意の、差し迫った恐怖。そんな感情が湊達の胸中に滲む。


「ちっ、あのクルージングの時の魔鱶か。優奈の仕業だったんだな」

「優奈。確かに僕らは、この時代の魔鯨を倒す為に未来から戻って来た。でも、優奈とは戦いたくない。話し合おうよ」

「湊。大丈夫だよ。戦いには、ならない」


 意外にもそう告げる優奈。

 その言葉に、湊達は少しの安堵を顔に浮かべた。今まで共に過ごした日々は紛い物なんかでは無く、本当に友達だったのだから。


「良かった。さ、優奈。こっちへ――」

「だって、だってさ湊。戦いっていうのは……対等じゃなくちゃ成り立たないの」

「!?」

「あははははははははははっ!!」


 優奈が右手を天高く掲げる。背後から海面を割って、深緑色の巨大な鯨が姿を現した。

 魔鯨の頭の上には、真司がいた。

 真司は無言で鎖を放つ。甲板上の湊達に逃げ場は無く、瞬時に全身をその鎖に拘束された。


「真司はすごいよ、クラーケンの魂を持ってる。相当強い魂だよ。それに知ってるんだから。湊達は海の魂を解放出来ない。どこの時空の白鯨と会っちゃったのかは知らないけど、こっちの白鯨はまだ目醒めていない。それどころかこの場に、ううん、日本にいない。しょうがないよね」


「優奈あんたっ、白鯨が誰だか知ってるの!?」

 

「夕霧先輩、気付かなかったなんて間抜けですよ。まあ私を白鯨だと思ってたんだから仕方ないか。可哀想だから教えてあげます。この時代の白鯨は、先輩のお母さんですよ。写真見せてくれて、ありがとうございました。おかげで分かりました」


「な、何ですって」


 この時代に戻って、ずっと探し続けた白鯨の正体を、優奈はさらりと告げた。

 正体を知ったとて、今の湊達にはどうすることもできない。

 絶望という言葉を、これほどまでに思い知ったことは無かった。

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