第32話 いるはずの無い魚

 バルバロとの再会から一週間ほどが過ぎたある日。


 夏真っ盛りの海日和に、彩子は荒波部のグループへ全員召集をかけた。集合場所は、この間湊と彩子がバイクで下見に行ったマリーナだ。


 ギラギラと照りつける太陽の下、海面へ伸びた桟橋に一同が集った。


「みんな、紹介するわ。――特別講師の、馬場バル男さんよ!」


 若干引き攣った顔のバルバロが、よろしく、と挨拶する。


「夕霧先輩、私、ちょっと憧れてたんです! ヨット!」

「俺も俺も! 船動かせるとか、めっちゃモテそう!」


 目をキラキラと輝かせる優奈と真司。その脇でバルバロは小声で彩子に耳打ちする。


「お前……船借りんのって高けえんだぞ、俺の月収いくらだと思ってんだ」

「いい大人がケチ臭い事言わないでよ。あたしも出すって言ってんでしょ。端数」

「端数かよ!」


 これから何をするかと言うと、いつかの作戦会議で湊と彩子が決めた荒波部でのクルージングだ。

 バルバロとの再会を果たした湊達は日を改めて三人で集まり、そこでバルバロは船舶免許を持っている事を知った。加えてフリーターと言えど、大人の財布を持っている。

 それならば、と彩子の瞳がきらんと輝き、優奈が目醒めるかもしれないと言う大義名分を掲げて、自分達の息抜きに半ば無理やりバルバロを巻き込んだのだった。


 優奈と真司が小声で湊に尋ねる。


「ねえ湊。馬場さん、本当にバル男って名前なの? なんだかかわいそう」

「俺も同感だ。今日びキラキラネームが流行ってっけど、バル男さんの時代にもそういうの、あったんかな」

「いやー……大丈夫だよ。本人気に入ってるし」

「気に入ってねえ!」


 聞こえていたのか、バルバロのツッコミが響いた。


 バルバロが受付で手続きをして、全員が救命胴衣の使い方のレクチャーを受けた後、レンタルした船へと向かう。BLUE BULLよりも、一回り小さなヨットだった。


「じゃあバル男さん。ロープ外すよ」

「オルカてめこの。さっさとやりやがれ」


 いたずらに笑う湊に、怒った素ぶりでそれでも楽しそうに返すバルバロ。久しぶりの出港が、二人とも懐かしく、嬉しかった。


「湊、船、乗ったことあるの?」


 テキパキと係留してあるロープを解き始める湊に、先にヨットに乗っていた優奈が身を乗り出して尋ねた。


「ちょっと、昔……昔? とりあえず、経験はあるんだ」

「へえ、幼馴染なのに、知らなかった。幼馴染なのに。ずっと前から仲良しなのに」


 彩子に聞こえるように幼馴染と連呼する優奈。ヤキモチを妬くその様はベリーにそっくりで、やっぱり白鯨なのかなと湊は思う。

 ちなみに当の彩子はそういう女同士の機微には疎く、ヨットの上で優雅に空を眺めていて全く耳に入っていなかった。


「優奈ならすぐに覚えられるよ。ロープは基本的には、風下から外すんだ」


 湊はまず船尾のロープを外すと、真司が勢いよく挙手した。


「湊! 俺! 俺も外したい!」

「うん、よろしく。解いたらそのロープ持ったまま、一緒に乗るよ」


 真司はおう! と元気よく返事をして、最後に繋がるロープを解き、湊と同時にヨットへ飛び乗った。


「バルバロ、いいよ!」

「おし、出すぞ」


 バルバロは帆では無くエンジンのレバーを器用に操って、ヨットはマリーナを出た。


「うわぁー、気持ちいい!」

「うおおー、俺、海賊みてえだ!」


 水面を風を切って進む爽快感を、優奈と真司の二人は両手を広げて堪能している。


「海っていいわよね。特に鯨。鯨っていいわぁー。鯨超かっこいい。ねえ優奈?」

「え、鯨? ま、まあ、かっこいいですよね」

「いいわよねー。鯨。たまんない。そうは思わないかしら。ねえ、優奈?」

「は、はぁ」


「お、おいオルカ。まさかスカーレット、あれを実行してるのか」

「うん……そっとしておこう」


 運河を進んでやがて東京湾の開けた場所に出ると、開放感がより一層高まって優奈と信司は一際高い歓声をあげた。

 バルバロはエンジンを止めた。波にゆらゆらと船体が揺れる。


「じゃ、ここいらで帆走するぞ。えー君たち、帆の張り方は、オル原オル太君に教わりたまえ」

「ブハッ、誰よそれ」

「お前も学んどけ、スカ村スカ子」

「あんた紅妖があったら今潰してるからね」


「ねえ湊、さっきからバル男さんと夕霧先輩何言ってるの? オル太君って湊のこと?」

「んー、わけわかんないよね。仲良しなんだよ二人は」


 苦笑いを浮かべる湊は、帆から伸びるロープが巻かれたウインチに手をかけ、説明をしながら帆を張って、また畳む。そして優奈と真司に、同じように帆を張ってもらった。

 続いて風の受け方を教わった優奈と真司は、不慣れではあるが、湊の助言を頼りに舵に合わせて段々と船を進める事が出来てきた。

 良い風も吹いていて、湊と彩子とバルバロも、久々に海を駆ける快感を噛みしめる。その間、楽しみながらも優奈の様子をしっかり観察していたが、特に変化などは無かった。


「そろそろ戻る時間だな。真司、帆、頼むな」

「オッケーっす、バル男さん!」


 真司はすっかり海の男になった気分で、意気揚々と帆を調整する。その光景を眺める湊の脇で、小声で彩子が言った。


「約束のあんたの帆走はまたの機会ね。楽しみにしてるわよ」

「うん。もっと、もっと速く走るよ。期待してて」


 やがて運河の入り口が近づいてきて、エンジンで走る為に帆を畳んでいる時だった。


「湊。あれ、何かな」


 優奈が船尾の向こうを指差した。


「ん? どれど――……!?」



 ――深緑色の背びれ。



 咄嗟に湊は視線で彩子とバルバロに合図を送り、二人も魔鱶の存在に気付いた。


「あれ? バル男さん、どしたっすか?」

「ん、あぁ、真司。自分で帆を畳んでみな。優奈も一緒に。練習だ」

「りょーーーかいっす!」

「わ、わかりました」


 バルバロはそう言って優奈と真司を遠ざけた後、ヨットマンナイフと呼ばれる緊急用の携帯式ナイフを手に、船尾に立った。

 魔鱶は背びれを出したまま船に真っ直ぐ加速して、バルバロへ向かって飛び跳ねた。

 バルバロは逆手に持ったナイフを即座に魔鱶の脳天に突き刺し、海へと押し戻す。その魔鱶は小型のモウカザメのような風貌で、紫色の血を流してすぐに絶命した。


「……なんでいやがる」

「この時代の魔鯨が目醒めたって事かしら」

「だとしたら早く白鯨を……バルバロ?」


 バルバロは手際よく魔鱶の腹を捌いて内臓を捨て、エラにロープを通し船尾に繋いだ。


「食費が浮いたぜ!」

「…………」


 この男は今でも百年後でも変わらないな、と思った湊と彩子だった。

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