第29話 サイコカレー

 湊は百年後の記憶を辿ると、バルバロの言動の節々に思い当たる所がいくつかあった。


 彩子の話の通り、帆をかけただけの船で皆が何とか航海する中、効率的に海を渡るヨットの操船の仕方を知っていた。

 新入りの自分に、操船だけでなく百年後では常識になっている事を、やたら親切に教えてくれた。

 BLUE BULLという英語のスペルもラムの銘柄も知っていたし、あの秘密の倉庫だって、道具の使い方を知っているかのように用途ごとに整理されて置かれていた。


 それに――ベリー曰く、魔鱶は時空の矛盾を嗅ぎつけて襲うらしい。魔鱶が狙ったのは、湊と彩子、それにバルバロの三人だ。


 湊の頭に電撃が走る。


「サイコ先輩、本当にそうかもしれない」

「心当たりがあったようね」


 二人は口を揃える。


「「――バルバロを探そう」」


 強大な敵と一戦交える上で、バルバロはこの上なく頼りになる存在だ。

 そして何より、一緒にいたのはほんの数日かもしれないが、海賊であるオルカ、もとい湊の船長であり、疑いようのない程に仲間の絆で結ばれている。


 この時代に戻って来ている可能性がある以上、探さない選択肢は無い。湊は胸に光るネックレスを、そっと握った。


「あいつの事も探すとなると、調べることも考えることも山のようにあるわね。湊。今日うちに泊まんなさい」

「うん。バルバロがどこにいるかも検討がつかな――ん?」


 湊は流れで承諾した内容を頭の中で反芻する。聞き間違いかと思ったが、彩子の言葉がその迷いを斬り伏せる。


「夜ご飯、作ってあげる」

「ブッ」

「あっはっは! これで私の勝ち越しね。ま、ちゃんとご飯は作ってあげるから安心なさい」


 湊はいつかどこかで反撃してやる、と心に誓った。


  ▼


 バイクで彩子の自宅へ戻り、二人でスーパーに夕飯の買い物へ行く道すがら、湊は親へ外泊すると連絡した。

 今までずっと真面目な人生を歩んで来た甲斐もあり、非行を疑われるような事もなく、すんなりと許可をもらった。


「ところで、サイコ先輩の親は?」

「うちの両親は海外にいるのよ、仕事で。一人暮らしもいいもんよ」

「女の子の一人暮らしは危ないから、戸締りちゃんとするんだよ」

「近所のおばさんみたいな事言うなし」


 そうしてスーパーへ着き、湊がカートを押して彩子が食材をカゴへ放り込む。


「あっちでは魚ばっかりだったから、肉にするわよ」

「異議なし」

「野菜とか幻だったから、今日はサラダも作っちゃおう」

「異議なし」

「思えばあの世界って栄養バランス崩れるわよね。あたし肌荒れとかしてなかった?」

「異議なし」


 わざと適当に答えてからかっていた湊の頭に、彩子のチョップが入った。

 二人折半で会計を済ませて、夜の帰り道を歩く。湊が買い物袋を全て持つと言うと彩子は意外そうな顔をして、じゃ、よろしく、と遠慮なく渡した。


 やがて彩子の自宅へ到着し、キッチンの脇で両手に抱えた買い物袋を下ろした湊は、ふーっと息を吐きながら腕を振る。


「はい、お疲れ様」

「ちょっとピキピキ来てる。また鍛え直さないと、魔鯨と戦えないや」

「あんた細マッチョになってたもんね。カッコ良かったわよ。がんばんなさい、筋トレ」


 そう言ってばちんと湊の背中を叩いた彩子は、エプロンをしてキッチンに立った。スーパーで買った食材と、キッチンに常備しているスパイスを準備し、よしっ、と気合いを入れて調理を始めた。


 今夜はカレーらしい。湊は驚いたが、なんとルーを使わずに一から作るようだ。


「カレーなんて、百年後じゃまずお目にかかれなかった幻の料理じゃない? しかもスパイスの調合からやるから、これは百パーセント、あたしの味。楽しみにしてなさい」


 ソファでテレビでも見てて、と言われた湊は心底楽しみに思いながら、何か手伝える事は無いかを考える。しかし何も思いつかずに落ち着かない。やがてそれに耐えかねて、キッチンの彩子の隣に立って料理をする様を、餌を待つ子犬のように眺めていた。


 彩子がカレーを小皿にとって味見をして頷いた後、湊にも差し出した。彩子の手の小皿からカレーを啜ると、脳天からつま先まで、大きな電気が走る。


「うっ、美味い! サイコ先輩、すごい!」


 それは湊がよく知るカレーとは違って、お洒落なアジア料理店で食べるような、エキゾチックな深い味わい。


「ふっふーん、そうでしょう? でもここからよ。完成形の味見はおあずけ」


 彩子はココナッツミルクと、さらに追加で数種類のスパイスを取り出して、再び料理に取り掛かる。その顔はとても生き生きとしていて、楽しそうだった。

 湊は早く食べたいと言う衝動に駆られ、少しでも彩子の料理がスムーズに進むように、使った調理用具を率先して洗い始めた。


「あら、あんたできる男ね」


 彩子はそんな湊のじっとしていられない性分をとても気に入っていた。なんとかこの可愛い後輩の舌を唸らせたいと、より一層料理に熱を込めた。


 ▼


「よくそんなに食べたわね……」


 彩子の作ったカレーの最終形態は度肝を抜くほどの美味しさで、前菜のサラダと翌日分も考えて四号炊いた米もろとも、湊は食べ尽くした。


「すごく、すごく美味しかった。サイコ先輩、ごちそう様」

「いいえ、どういたしまして」


 そう言って空の食器を重ねる彩子を湊は止めて、二人の食器を持ってシンクに立った。


「スポンジこれだね。サイコ先輩、お風呂入っちゃえば?」

「あらありがと。お言葉に甘えてそうしよっかな。いやー、一人いると色々捗るわね。お風呂覗くんじゃ無いわよ」

「覗かないって」


 彩子は軽口を叩きながら風呂の支度をして、バスルームへ。

 湊は洗い物を終えて、ソファへ腰掛けてテレビを点けた。なんだか幸せってこういうことを言うのかなと、ぼんやりと考える。


 バスルームからシャワーの音が聞こえる。湊も健全な男子なので、少しその様を想像する。

 だが、しばらくするといきなりその音が止まり、バタバタと足音を鳴らして彩子がリビングへ飛び込んで来た。


「こんなことしてる場合じゃなかった!」


 そう叫ぶ彩子の姿は、バスタオルで前面を隠しただけ。絹のような白い肌。濡れた髪。華奢な鎖骨。そして引き締まった艶やかな太ももが目も眩むほどまぶしくて、ギリギリの角度で見えない部分の想像を、否応無しに掻き立てる。


 湊はリアクションを取る余裕も無く、その姿を視界に入れたまま硬直した。


「なんだか楽しくて忘れてた! 何をのほほんと二人で買い物して、料理して、素敵な夕食の時間を過ごしてたの……湊! 作戦会議よ!」

「…………」

「……ぎゃー!」


 返答の無い湊の熱視線に気づいた彩子は思わずバスタオル一枚で男の前に躍り出た事実に気づいて、またバタバタとバスルームへ戻った。


 やがて。


「湊、どうぞ」


 眉をひそませて頬を赤らめながら、風呂上がりの彩子が部屋着のTシャツとショートパンツ姿でリビングへ戻って来た。


「は、はい。わかりました」

「急な敬語やめろ!」


 湊はそそくさとバスルームへ行き、ささっと入浴を済ませてリビングへ戻った。彩子は髪を乾かし終わったようで、ようやく作戦会議の再開だ。


 白鯨と思われる優奈をどう目醒めさせるかは一旦保留にし、バルバロの行方を探ることにした。


 だかしかし一切の手掛かりが無い。ダメ元でバルバロと言う名前で検索サイトやSNSで検索をしてみても、当然のことながら本人に繋がるような情報は皆無だった。


「本名、聞いておくんだったな……失敗した」

「無理もないわよ。こっちの世界の人間だって思わなかったもの」


 ソファで寝そべりながらスマホをいじくる彩子の言葉は、若干の眠気を伴っていた。


 深夜の二時を回ると、彩子がこくりこくりと眠ってしまった。湊は彩子を抱き上げて、ベッドへ連れていく。


「こんなに細い、軽い身体で、頑張ってたんだ」


 独りで三度も今と未来を行き来している彩子。

 この時代では、水没した東京にとり残される仲間の為に奔走して、百年後では紅妖ホンヤオの船長として屈強な海賊達を率いて。

 一つの身体で二つの時代をフル稼働で走り続ける彩子は、今度は海面上昇の元凶を討つために、力を注いでいる。


「もう、独りじゃないよ。サイコ先輩」


 戦う彩子の華奢な身体を、いたわるようにベッドへ寝かせた。

 彩子は完全に夢の中にいて、スヤスヤと寝息を立てている。


 湊は静かにドアを閉じ、自分もリビングのソファに横になった。


 ――が。おもむろに起き上がり、ばん、と寝室のドアを開けて、眠る彩子に語りかける。


「先輩、歯磨きしたの?」

「んむ、んああ、まだ」

「ちゃんとしなさい。虫歯になるよ」

「ふぁい」


 寝惚けた彩子にしっかり歯磨きをさせてから、湊も眠りについた。

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