第3章 白鯨探し

第25話 真夏の蒼穹

 憂いを帯びたギターのアルペジオ。その隙間を走り抜けるハイハット。

 優しく重いトーンを伸ばすベースに、感情をスマートに歌声に乗せたヴォーカルが合わさると、胸の奥底から切なさを無理やり引き摺り出されるかのように、心が蒼く染め上げられる。


 湊は目を開けた。夏の日差しが眩しい。


「屋上……?」


 そこは学校一番の湊のお気に入りスポットだった。グラウンド・ブルー・アラウンドの曲をかき鳴らすイヤホンを片方外すと、半分の演奏に混じって、けたたましいセミの声が空の蒼穹に響き渡る。


「夢、見てたのか」


 湊はひとつ伸びをして、夏の匂いに満ちた湿った空気を大きく吸った。

 とんでもない夢だった。そして、とても楽しい夢だった。


 東京が沈んで百年後にタイムスリップし、そこで出会った人達と、海賊になる夢。

 恐ろしい目にも大変な目にもあったが、眩しすぎるくらい輝かしい日々だった。

 スマホもコンビニもゲームも映画も無い、空と海だけの世界で、生きるために獲って、食べて、戦って。

 そして潮風を浴びて航海をして、満天の星空を眺めて眠る。


 ちょっと残念だな、と湊は微かに微笑む。

 いつもの校舎、いつもの制服。何度も何度も繰り返してきた日常。それらを疑いようの無い現実だと、改めて認識する。


 外していた片方のイヤホンをまた耳に嵌めて、日陰に移動し横になる。

 当たり前のこの場所がとても愛おしく思えて、五感で世界を感じながらこのまま眠ってしまおうかと目を閉じた。

 だが、夢うつつになろうかという位のところで、ぱっとイヤホンが誰かに奪われた。


「なーに聞いてんの?」


 真夏の青空を背に、しゃがみこんで湊から奪ったイヤホンを耳に当てたのは、他でも無い彩子だった。


「まーたグラウンド・ブルー・アラウンド。あんたほんっとに好きね」


 彩子の全身を視界に入れる。首に真紅のスカーフを巻いていないし、服装も船長服では無くて真っ白なブラウス。短いスカートからはクロウラーの美脚に勝るとも劣らない太ももがのぞく。

 そこにいるのは海賊では無く、女子高生の夕霧彩子だった。


 スカーレットと呼んだら先輩はどんな顔をするのかなと、湊は頭の隅でいたずらのように考えてみる。


 ――だがその刹那、違和感が思考を侵食した。


 記憶の中ではまさにこの時、夏の日の屋上で彩子にイヤホンを奪われてから、初めて同じバンドが好きな事を知ったはずだった。

 なのに今の彩子の言葉の調子は、十一月終わり頃にモノレールで、同じようにイヤホンを奪われた時と重なった。

 いやそれすらも夢では無いのか、ならば荒波部は、東京タワーへ昇った事は。湊の脳内は目眩がする位に揺さぶられる。


「変な顔。しっかりしなさいよ」


 少しの意味ありげな間を置いて、次の言葉に湊は目を見開く。


「オルカ」

「……スカーレット?」


 あえてその名で呼び合う二人。しばらく無言で、蝉の声と空高くの飛行機の音だけが響いていた。


「え、ちょっと、え? サイコ先輩、どういう事?」

「あ、チャイム」


 湊は動揺して気づかなかったが、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り響いていた。


「続きは放課後ね! まだ部室も無いし、教室に迎えにいくわ」


 彩子はまるで放課後遊びに行く約束でもしたかのように、平和な日本の女子高生そのものの振る舞いで、ひらひらと手を降って屋上を去った。

 残された湊は状況をひたすら整理する。胸元に手をやると、鮫か何かの生物の牙に、幾何学模様の刻まれたネックレス。

 それは秋葉原跡でベリーがくれた、仲間の証。



「夢じゃ無かった……。戻って来た?」



 湊は全速力で校舎の廊下を走る。途中、生活指導の教員から怒鳴り声を浴びるが、無視してそのまま駆け抜けた。

 沈んだ東京、百年後の世界、あの海賊の日々。それらは全て夢では無かった。

 ならば優奈は、真司は無事なのか。二人の安否だけを考えながら、バクバクと暴れる心臓に鞭を打って、自分の教室の扉を勢いよく開けた。


「優奈! 真司!」


 クラスメイト達が湊へ視線を向ける。その面々の中には、最後に見た時より少し髪の短い優奈と、机に座って他の生徒と談笑している真司がいた。


「湊? どうしたの、そんなに慌てて」

「先生まだ来てねーぞ。急ぎ損だな!」


 いつも通りの優奈と真司。数日と百年前、共に過ごした友人。流木に刻まれた自分の墓標を見た時に、絶望に塗り潰されたはずの再会が、叶った。


「ひゃっ、なになになになに! なになの湊!」


 自分に歩み寄って来た二人を、湊は思わず抱き締めた。



 そんな湊の想いなど知る由もなく、周りの女子達が唐突な男女の抱擁に黄色い声をあげるが、よく見たら真司も混ざって無駄に頬を赤らめていてキモかったので、途端に残念そうに白けた。


 ▼


「ねえ湊。昼休みのあれ、なんだったの」


 放課後。少し怒ったような表情で頬を赤く染めた優奈が、湊の席にきて尋ねた。


「あ、いやー……少し、怖い夢見てさ、思わず」

「なんだなんだ湊、俺らがいなくなる夢でも見たんか? 可愛いやつだな」


 まさにその通りなのだが話しても信じてもらえるはずは無く、湊は脱力した笑いでその場を誤魔化した。

 ふいに、教室の扉が開く。


「湊ー! 迎えに来たわよ!」 


 溌剌とした声をあげて、元気に彩子が飛び込んで来た。


「? 確か、夕霧先輩」


 優奈が首を傾げる。それも当然の事だった。夏休み目前のこの時期はまだ荒波部は発足しておらず、優奈と真司は彩子の事をただの綺麗な先輩という認識しか持っていない。


 途端、真司は湊の首に肩を回し、オルカの遊泳に匹敵するほどのスピードで湊を教室の隅へと連行した。


「おいおい湊、お前、夕霧先輩と知り合いなんか!? あのキツめ美人の先輩と!」

「いや、まあ……うん」

「こらこら真司、湊を貸しなさい」

「えっ、先輩、俺の名前……は、はい喜んで! どうぞ!」


 真司はデレデレしながらドリルのように手の平を返し、従順に湊を彩子に引き渡した。


「ゆ、夕霧先輩? 湊とどこ行くんですか?」


 心配そうに二人を見つめる優奈に、彩子は言った。


「んー? ひ・み・つ!」


 人差し指を口元に当て、その言葉だけを残して彩子は湊の手を取り連れ去った。

 優奈の顔は影になって、その場を動かずワナワナと震えている。


「お、おい優奈。大丈夫か、どうした」


 心配になって声をかけた真司は、戦慄した。


「手握ってた手握ってた手握ってた手握ってたなんでどうして手握る必要があるの何の意味があるの手を握る事によって何がどうなって何をどうするのなにを何で何で」


 優奈の表情は、まさに般若のそれだった。

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