第21話 海魂共鳴

 湊を片手で持ち上げるクロウラーは、船室キャビンの影に隠れている和服の少女に言った。


「こいつでいいんだな」

「……そう」


 少女が頷くと、クロウラーは膝を付いたままのバルバロに告げる。


「バルバロ。秋葉原跡での宣告通り、こいつをもらって行くぞ」

「待て! なんでオルカを!」


 クロウラーは問いかけに答えず、湊を連れて行こうとバルバロへ背を向けた。


「クッソ、待てよ! オルカは俺の大事なクルーだ!」

 

 追いかけようとするバルバロだったが、先ほどの蹴りのダメージで震える膝がそれを阻む。

 常人ならもう動けず気を失っているほどのダメージだ。


 しかし、伊達に今日までライバルの海賊達と戦い抜いて来てはいない。強引に筋肉に言うことを聞かせて、なんとか無理矢理立ち上がった。


「ふん、脳筋が。追いかけられても厄介だ。もう殺しておくか」


 クロウラーが、鬱陶しい羽虫でも見るかのような一瞥で振り返った。

 バルバロの身体は満足に動かない。出来てあと一発、渾身の一撃を振るうくらいでまた倒れてしまうだろう。

 それがこの最強の相手に当たるかどうか。あまりにも分の悪い賭けに、全てを込めるしかなかった。


 バルバロは意を決してオールを構えた。

 その瞬間――。


 一筋の閃光のように飛び込んだ矢が、オルカを捕らえるクロウラーの右腕を貫いた。


 ビクともしない万力のような握力から解放された湊は、屋形船の甲板へ落ちると同時に、転がるように海へと逃れた。


 湊を救ったのは、指が千切れるかと思うくらい彩子が全力で引き絞って放った矢。

 紅妖ホンヤオの船上で真紅のスカーフを風になびかせ、犬歯を剥き、猛烈な怒りをクロウラーに向ける。


「あたしの男を奪おうだなんて、いい度胸してるわクソババア」

「……貴様ァァァァァァァ!!」


 クロウラーは鉄筋を構えて跳躍。瞬時に彩子に距離を詰める。

 だが、怒りに視野が狭まり油断していた。一切眼中に無かった作業船から鎖がじゃらりと放たれ、スリットから覗く長い脚に巻きついた。

 予想外の妨害にクロウラーはバランスを崩し、彩子への間合いが詰められない。


「ハッハー! 隙を見せたな! じいさん、行け!」


 ティラノの声に呼応して、紅妖先代船長クリムゾンが鎖を大きな両手で掴む。


「むぅぅぅぅんっ!」


 クロウラーを鎖ごと振り回し、屋形船の甲板に向けてぶん投げた。クロウラーが飛んで行く先には、バッターボックスに立つように、オールを構えるバルバロ。


「だらっしゃぁぁぁぁぁぁ!!」


 バルバロは巻き舌で咆哮を上げて、スラッガーの如くオールをフルスイングする。鈍い音と共にクロウラーの胴体はくの字に曲がり、紅妖の船腹に激しく叩きつけられた。


「ティラノ、おじーちゃん、バルバロ! さすがよ!」


 遠距離特化の彩子、海賊達の連携、そしてバルバロの攻撃力。

 個人の戦闘力では無類の強さを誇るであろうクロウラーは、予想だにしない劣勢に苛立ちを滲ませた。


「……このっ、有象無象共が。全員生きて帰れると思うな!」


 怒りを露わにするクロウラーに応じるように、和服の少女が片手を高く掲げた。

 その少女の瞳は、血のように紅く輝いている。

 

「遊びは終わりだ、本気で行く。貴様ら船ごと喰らい尽くしてくれる」


 命を刈り取るほどの迫力で、死を宣告するクロウラー。

 すると少女の背後から、大きな影が海面を割って姿を現した。


 魔鱶と同じ深緑色の身体をした、紅い瞳の巨大な鯨。

 紅妖をゆうに超える、デタラメな大きさの鯨だった。


「何よ、あれ」

 本能的な恐怖が、金縛りのように彩子達の身体の自由を奪う。

 海から飛び上がって紅妖の甲板に戻った湊も、ただただ唖然とするしかなかった。

 

 海賊達が絶句しているその最中、突然、鯨がクロウラーをばくりと飲み込んだ。


「食べられた? どういうことよ……」

「サイコ先輩。きっと何かする気だ」

 

 鯨を顕現させた和服の少女の、小さな鈴の音のような声が響く。



『――海魂共鳴アぺラシオン



 その言葉に呼応して、鯨の紅い瞳が一層まばゆく光りを増して、辺りを包んだ。

 あまりの眩しさに、誰も直視は出来なかった。

 やがて紅い光が消えると、ステージの幕が上がるように、鯨はあんぐりと口を開けた。


 クロウラーの出で立ちが変わっていた。

 妖艶で美しい顔の造形や闇色の瞳、スリットから伸びる美脚は今まで通りのクロウラーだ。

 しかし先ほどと違い目の下にクマのような太く黒い紋様が入り、切り揃えられた黒髪の、襟足だけが腰のあたりまで伸びている。

 チャイナドレスの左肩には、鋭利な骨を組んだ大きな肩当て。

 ナポレオン帽を被っていて、そこにはバツの字に組んだ大腿骨の上に頭蓋骨の、海賊のシンボル。

 手には先ほどまでの鉄筋ではなく、身の丈ほどの巨大な両刃の戦斧を携えている。


 全身から先ほどとは比べものにならないくらい、むせ返るほどの禍々しいオーラを纏っていた。


「クロウラーの見た目も武器も変わってる……あれって一体」


「――ちょ、ちょっとベリー!? どうしたのよ!?」


 彩子は湊の言葉を遮り、唐突にベリーの名前を叫んだ。いつものからかう調子ではなく、珍しく慌てていた。

 彩子に肩を揺すられるベリーは、焦点の合っていない目で虚空を見つめている。

 そして一度、雷に打たれたように大きく震えた。


「ベリー!? どうしたんだ!」


 明らかに異常だった。

 ベリーの瞳はいつもの黒い瞳では無くて、蒼く深く、ぼんやりと光を放っている。


 おもむろに、ベリーは片手を高く掲げた。


 背後から大きな波を立てて、全身が真っ白に輝く、蒼い瞳の大きな鯨が現れた。


「こっちにも、鯨……?」


 湊達はその巨体をまじまじと見つめる。神々しくて、少し怖くなるくらい綺麗な鯨。


「ちっ、魔鯨まげいに触発されて覚醒したか、白鯨め」


 忌々しそうにクロウラーが吐き捨てた。

 ――直後、まばたきよりも速く。

 いつの間にかクロウラーが彩子の眼前に立っていた。


 クロウラーはすでに戦斧を高くに掲げている。後は、振り下ろすだけだ。

 美しい冷酷な瞳が彩子を見下す。


「まずはお前だ、スカーレット」


 振り下ろされる戦斧。

 言葉を発する暇があったら逃げている。

 彩子の顔が引き攣る。

 湊は無我夢中で間に割って入ろうとするが――。


 大きな破壊音と粉塵が舞う。何とか目を細く開けるが、何も見えない。


 湊は、視界が晴れるのが怖かった。

 考えたくも無い最悪の事態を、突きつけられるのが怖かった。

 

 ――ベリーの声が響いた。



海魂共鳴アぺラシオン



 視界を塞ぐ粉塵を浄化するように、まばゆい蒼の光が溢れ、そして消えた。

 湊達の目に映ったのは――。


 毛先のカールした、栗毛色の艶やかな長い髪。

 睫毛の長い切れ長の大きな両瞳の下には、三本の真っ赤な線が紋章のように浮かび上がる。

 頭には、向かい合う二つの頭蓋の横顔がハートを形どるシンボルの、赤い三角帽子。

 真紅のスカーフと船長服を風に靡かせて、その手には、水平線の果てまで穿つことが出来そうな、身長をゆうに越える大弓。


「な、なんなのこれ」


 その佇まいは、まさに海賊。

 姿を変えた夕霧彩子が、白鯨の口の中に立っていた。

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