第20話 闇の襲来

 東京タワー跡へ近づいて来ると、あたりに霧が立ち込めて来た。

 霧は徐々に不気味なくらい濃くなって、さっきまでの青空は完全に見えなくなった。


「視界が悪い。注意して」

「はい、船長」


 彩子が操舵手に指示を出し、船はゆっくりと東京タワー跡へ接近する。


「なあオルカ。今更だし、暇だから別にいいんだけどよ、何しにわざわざ東京タワー跡まで来たんだ?」

「うん……ちょっと、確かめたいことがあって」


 バルバロの問いかけに煮え切らない回答しかできない湊。

 それもそのはず、何しろ湊自身も、彩子が何を見せるつもりなのかを知らない。


 紅妖ホンヤオの海賊が、東京タワーの鉄骨に船を繋いだ。


「あんた達、しばらくここで待機よ。湊、来なさい」

「バルバロ、ベリー。ちょっと行って来るね」


 彩子はひらりと船を飛び降りて、赤く錆びきった鉄骨へと着地した。湊もそれに続く。

 二人で細い足場をつたって屋外の非常階段までたどり着くと、そこから上階へと足を進めた。


「すごい変わりようだよね。ほんの少し前に、優奈と真司も一緒に昇った場所とは思えないよ」


 あの日の東京で、大荷物を持って、彩子に急かされながら昇った東京タワー。

 階段を登りながら改めて見ると、錆びて朽ち果て所々が欠けて、もはや廃墟そのものだ。


「無理も無いわ。百年前の建物だもの」


 彩子はまっすぐ前を向いたまま、靴音を鳴らして階段を昇る。

 やがて展望台の入り口に着くと、潮風に曝されて錆び付いた重い扉を開いた。


「ここは……?」

「あの日、東京が海に沈んでから、生き残った人達が最初に暮らしていた場所よ」


 埃だらけの、まるで人々から忘れ去られた空間。

 壁際にダンボールや食料の包装が散らばっている。湊が近くでそれらを物色すると、ブルーブルの競合他社製品である、ファントムの空き缶がいくつも目に入った。


「もしかして、優奈と真司は」

「ええ。あの後、ここで暮らしていたはず」


 湊と彩子のようにこの時代に飛ぶ事なく、東京タワーに留まった優奈と真司。

 今湊がいるのは、その百年後。

 つまり二人はもう、遥か昔に死んでいる。


 その現実が信じられるわけもなく、湊の頭に、悲しみに暮れることのできる実感は無かった。


「湊。これ、見て」


 彩子が促した先には、板状の木片が何枚も置かれていた。

 一枚を手に取ると、何かが刻まれている。


「……これは、人の名前?」

「生き残った人達が、大切な人の名前を彫ったんだと思うわ。いわば、お墓ね」


 彩子はその中の二枚の木片を手に取って、湊に渡した。

 刻まれていた名前は――“周防湊”と“夕霧彩子”。


「これ、もしかして」


 彩子はこくりと頷く。


「きっと、生き残ったあの二人が彫った、あたし達のお墓」


 それを見た湊は、ようやく悲しみが胸の奥から溢れて来た。


 ――もう、会えないのだ。


 体感では数日前まで一緒にいたはずの二人が、とっくのとうに死んでいる。

 心のどこかで、彩子が知らないだけで二人ともこの時代に来ているのでは、という希望を抱いていた。

 だが目の前の自分達の墓標が、その夢を残酷なまでにかき消した。


 あの後の東京で生きていくのは、さぞ大変だっただろう。辛かっただろう。

 自分と彩子の名前が刻まれた木片を胸に当てて、湊は声を上げて泣いた。


 彩子は湊を優しく抱き締める。そして口にしたのは、強い意志を宿した言葉。


「泣くには早いわ。戻るわよ」

「へ……?」


 そこへ、慌ただしく階段を駆け上る音が近づいて来て、扉が勢いよく開いた。


「す、スカーレット船長!」

「雷神? どうしたのよ」


 暴れる呼吸を抑えて、雷神は言った。


「敵襲です! ……スカイツリー跡の、クロウラーです!」



 ▼



 湊達は東京タワーの階段を全速力で駆け下りた。


 紅妖の向こう側に、漆黒の屋形船が一隻。

 そこにはローブのような布を纏い、肩に秋葉原跡で助けた小さな海亀を乗せたクロウラーと、小柄で黒髪の、和服を着た少女の姿があった。


 クロウラーは細い鉄筋を手に取り、弓のようにぎりぎりと身体をしならせ次の瞬間、紅妖へ向けて一直線に放った。

 大きな破壊音と共に、紅妖の船腹に鉄筋が突き刺さる。


「何しに来たのよあいつっ! 雷神!」

「はっ!」


 ぎん、と視線を尖らせた彩子は、雷神が差し出した弓を構えて三本の矢を番え、東京タワーの鉄骨の隙間から、クロウラーへ向けて射る。

 クロウラーは彩子の攻撃に気づいていたのか、足元に置いていたもう一本の鉄筋を手に取ると、一振りの風圧で簡単に矢をなぎ払った。


 そして鉄筋を真っ直ぐ紅妖へと向けて、言った。


「突き立てろ」


 女性にしては低く凛としたクロウラーの声は、叫んでいる訳では無いのに屋形船から明瞭に響く。


 針路を変えず直進した屋形船が、紅妖に激しくぶつかった。

 大きな飛沫と、木と鉄の砕ける音。


 湊達が錆びた足場を伝って急いで紅妖に近づくと、屋形船の船首の真下から大きな鉄の牙が伸びていて、紅妖の船腹に派手に風穴を開けていた。


衝角ラム!? いつの間にこんな装備」


 彩子が唇を噛んだその時、紅妖の船上から、一人の影が飛び出した。


「おらァァァ!」


 バルバロだった。

 かつて無いくらい力を込めて振るうオールを、クロウラーは鉄筋で受け止める。

 バルバロはそのままひらりと屋形船に着地して、オールの先端をクロウラーに向けた。


「ベリーを奪いにでも来たか。返り討ちにしてやるよ」

「笑わせるな。泥棒が」


 クロウラーは肩に乗る海亀を和服の少女に託して下がらせると、身体に纏うローブを剥ぎ取った。

 黒く艶々としたショートカットの髪に、闇色の瞳。深いスリットの入ったチャイナドレスのような漆黒の服装で、恐ろしく美しい脚を広げて鉄筋を構え、戦闘態勢を取った。


 ――瞬間、再び二人の得物が火花を散らす。

 それを合図にするかのように、魔鱶と魔蟹が紅妖の周囲に一斉に湧いた。


 彩子は紅妖へ向けて、鋭く叫ぶ。


「あんた達っ! 戦闘開始よ! 紅妖の力、見せてやんな!」

「「「うおおおー!」」」


 紅妖の海賊達は咆哮をあげ、魔鱶と魔蟹へ向かってゆく。湊達も戦うべく、紅妖へと戻った。


「ハッ!」


 紅妖へ飛び乗った雷神が一閃、鋭い踏み込みの突きを放って魔蟹の甲殻を破砕した。先代クリムゾンも、自慢の肉体から繰り出される拳で魔蟹の身体を砕きまくる。


「おいてめえら! 俺らは魔鱶を仕留めるぞ!」

「「合点です!」」


 ティラノは手下と共に作業船を出して、海面を蠢く魔鱶を沈めて回る。

 屋形船の甲板では、バルバロがクロウラーと激しく打ち合い、鍔迫り合っている。


「やるじゃあないか。評判通りだ」


 幾度も幾度も相手の急所を狙った攻撃が飛び交い、バルバロのオールとクロウラーの鉄筋が交差する。

 細腕のクロウラーだが微塵もバルバロに力負けなどしておらず、剣戟の一瞬の隙を突いたクロウラーの鋭い前蹴りが、バルバロの腹にめり込んだ。


「がはっ!」


 たたらを踏んで後退したバルバロは膝を付いた。そして少しの硬直のあと、吐いた。

 湊も含めた全ての海賊達にとって、それは信じ難い光景だった。


 バルバロは強い。海戦も肉弾戦も、右に出るものはそうはいない。

 クロウラーはそんなバルバロと互角どころか、むしろ余裕で競り勝っている。


「ぐ、く、くそっ」


 みぞおちを抑えて歯をくいしばるバルバロ。

 クロウラーは急ぐでも無くゆったりと歩み寄り、鉄筋を高く掲げ、口の端を大きく釣り上げた。 


「バルバロ!」


 今にもバルバロの脳天に鉄筋が振り下ろされる。そうはさせまいと湊は海に飛び込んだ。

 凄まじい勢いで海中から接近し、クロウラーへと飛び掛かる。


「うおおお!」


 ガントレットの一撃で、クロウラーが振り上げた鉄筋を弾いた。

 クロウラーはその勢いに小さくよろけるが、瞬時に片手で湊の首を掴んだ。


「ぐっ……がっ」

「久しぶりだな、オルカ。見ていたぞ。魔鱶より速く泳ぎ、さらに海中から跳躍も出来るのか。……お前、何か持っているな?」

「あがっ、持っているって……?」


 クロウラーは片手で湊を軽々と持ち上げる。


 バルバロも湊も、敵わない。

 力も素早さも体術も、そのどれもが格上だと認めざるを得なかった。

 湊にとって、この海で一番の脅威にすら思えた。

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