第12話 紫の女、クロウラー

(――よく分かんないけど、もうやるしかない!)


 周囲の参加者は我先にと次々潜って行く。

 人の波にもみくちゃにされていた湊も、姿勢を整え息を大きく吸って、いざ眼下に広がる海中へ。


 泳ぎは得意だった。

 頭を真下に向け、水をくぐるような要領でぐん、と垂直に加速する。矢のように鋭いその潜水で、たちまち他の参加者を抜いて、トップに躍り出た。


 見下ろす青の世界には、百年前の朽ちた雑居ビル群、線路、沈没した車。もう灯ることのない無数の信号機は、いつだったかSF映画で見た、電源を断たれて動かなくなったロボットの目のようだ。


 人工物が在ることを“人の手が入っている”というが、海の中の遺跡達全てが海藻やイソギンチャク、そして珊瑚に覆われて、色とりどり大小の魚達が、かつての秋葉原の歩行者天国のように行き交っている。

 この風景はそれこそ“海の手が入っている”と言えるものだった。


 海中の雑居ビル群の屋上に転々と、白や黄色のブイのような球体が括り付けられた木箱があった。そして一番深い海底の交差点の中心に、大きな赤いブイの付いた宝箱。


(きっとあれだ――!)


 しかしそこで誰かに足を掴まれ、引き戻された。屈強なスキンヘッドの男が、ニヤリと笑いながら湊を抜き去る。

 そう、これは妨害ありの潜水レース。他の参加者も泳ぎの速い湊をマークしたのか、次々に湊を押しのけて潜って行く。


 とうとう湊は海面まで押し戻された。ここまで戻ってしまったならと、一旦息継ぎの為に顔を出した。


「おーっと、白と黒の瞳をしたなよなよ君が戻ってきたー! まさか、もうお宝ゲットしたのかー!?」


 湊を注視するギャラリー。何かリアクションをしなければ、と湊は手で大きくバツ印を作ると、どっとギャラリーに笑いが起きた。


「あーっはぁー! なよなよ君! もうリタイアか!?」

「おいオルカー! 余裕こいてねえでさっさと潜れー!」

「オルカ頑張ってよー! KAME! KAME欲しい!」


 湊の目はまだまだ死んではいない。なし崩し的に参加したこのレース。KAMEは必要無かったが、武具は確かに欲しかった。

 戦いになった時に、いつかバルバロに背中を任せて貰いたいと、そう思った。


 湊は再び海中へ戻る。全力で水を掻き分け身体をしならせて、深く深くへ潜って行く。その間に何人かが宝を手にしないまま、息継ぎの為に海面へ上がって行った。まだまだ勝機はある。


 他の宝箱には目もくれず一直線に海底の交差点を目指す。同じく先ほど湊を妨害したスキンヘッドの男も、そこを目指していた。

 スキンヘッドも泳ぎが得意なようで滑らかに潜って行くが、湊はそれを遥かに上回るスピードで華麗に抜き去って――宝箱に手をかけた。


(やった……!)


 その時、手元が暗くなった。太陽が翳ったわけでは無く、何かの影。


 振り返ると、深緑色の体。一匹の大きな魔鱶がそこにいた。


「――っ!」


 思わず助けを求めようと一番近くにいたスキンヘッドに目線を送る。しかし、宝を取られて残念だ、というような身振りをして、海面へと上がってしまった。

 気づいていないのか。いや、目の前にこんな巨体の鮫が現れて、そんなはずはないだろう。魔鱶はそんな湊の逡巡などお構い無しに、口を開けて突進して来た。湊が反射的に宝箱を押し付けるが、邪魔だと言わんばかりに魔鱶の牙が粉々に噛み砕く。


 中身はもうダメかもしれない、それより何とか逃げないと。

 そう思った湊の眼前に、宝箱の中身であろう甲冑の鉄甲――ガントレットがゆらりと漂って来た。


 とっさに両手に嵌めて、襲い来る魔鱶の大きな口を掴んだ。魔鱶の歯をがちんと防いで通さず、逆に湊を噛みちぎらんとする嵌合力も手伝って、何本かの歯をへし折った。

 魔鱶は驚いたのか、湊から背を向けて一旦距離を取った。


 その時、頭上から声がした。海中なので何を言っているのかは分からないが、声だけは確かに聞こえた。視界に入ったその頼れる姿に、安堵のため息が泡となって口から漏れる。


 バルバロだ。助けに来てくれたのだ。

 魔鱶が一直線に潜って来るバルバロを標的に変えて、その歪な牙で襲いかかった。



 ――瞬間、バルバロの両腕が、魔鱶の口に挟まれた。


 湊の頭は真っ白になった。もやっ、と血煙が漂う。が。

 その血煙は紫色で、力を無くした魔鱶は白目を剥いてぐるりと腹を上に向け、海中を力なく漂い始めた。


 バルバロの両手には、骨を削った二本のナイフ。わざと腕に食い付かせて、魔鱶の上顎と下顎にそれぞれ突き立てたのだ。

 安堵して放心状態の湊へ、バルバロが親指を海面に向けて浮上の合図をし、二人は海を上がった。


「ぶっはぁー! 何でこんなとこに魔鱶がいんだよ」

「危なかった。ありがとう、バルバロ」


 桟橋で寝転ぶ湊とバルバロを、よほど心配したのか涙目のベリーがしゃがみこんで見つめている。

 どうして駆けつけてくれたのかを聞くと、先に海を上がったスキンヘッドが「魔鱶がいた」と喋っていたのを聞いて、バルバロが咄嗟に海に飛び込んだ、という経緯らしい。


「な、何とぉー! 一番のお宝ガントレットをゲットしたのは! バルバロんとこのなよなよ君! 見直したZE!」


 間一髪の事情もつゆ知らず、パリピのトリッカーが勝者のアナウンスを始めた。

 やれやれと起き上がったバルバロは、声を張る。


「おいトリッカー! なよなよ君じゃあねえよ! さ、お前の名前、教えてやんな」


 他の参加者やギャラリーがパチパチと拍手を送る中、湊はゆっくりと身体を起こすと、トリッカーが肩を組んで来た。完全に、何かを発言しなければならない空気だ。


 学校では授業中の発表ですら必要以上に緊張する湊だった。注目を浴びるのは苦手だ。目がぐるぐる回って、何を言えばいいか分からない。

 バルバロに背中を叩かれて、なんとか声を振り絞った。


「あ、あの、僕の名前は、オルカ、です」

「オルカ! 今回のチャンピオンはオルカーっ! 突如現れた宝探し界の新星! 全員、 オルカに拍手DAーっ!」


 湊が半ばカタコトで名前を名乗ると再び拍手が会場を包み、労いの言葉が観客から投げかけられた。


「いやあお前、泳ぎがとてつもなく速いじゃないか。あんなに早く泳げる人間は見たことが無いぜ」


 ガントレットを競り合ったスキンヘッドの男が、そう言って歩み寄り握手を求めて来た。


「そんなに、速かったですか? あんまり自覚が」

「がはははっ、大物だな。俺は一等のお宝にこだわりすぎて、戦利品はこのちっこい海亀だけだ。次は負けないぜ」

「あーっ! KAME! いいなーっ!」

「残念だったなお嬢ちゃん。こいつは今夜の俺のつまみだ」


 スキンヘッドは子亀を手のひらでポンポンとボールのように軽く投げてみせた。

 手足をばたつかせてもがく小さな海亀。その姿が何だか可哀想だった。


「食べちゃうの!? そんなに可愛いのに」

「そりゃ食べるだろ、お嬢ちゃん。他にどうするんだ」

「そうだけどさ……」


 そこに湊が口を開いた。スキンヘッドの手中でもがく海亀を見て、身体が自然に動いたのだ。


「あの、おじさん。このガントレットとその亀――」

「いっでえ!!」

 

 みしり、とスキンヘッドの腕から骨の軋む音がした。


 細い指。紫色に塗られた長い爪。その華奢で美しい手には全く似合わないような力でスキンヘッドの腕を締め上げるのは、フードを被った長身の女性。

 その女性は締め上げた手からこぼれた海亀を優しくキャッチして、言った。


「喰うだけなら良い。だが、弄ぶな。殺すぞ」

「ひ、わ、わかったよ。すまねえ」


 スキンヘッドはそそくさとその場を去った。


「あの、ありが――」


 自分の海亀では無いが何となくお礼を言おうとした湊の前に、バルバロが立ちはだかった。


「何の用だ。クロウラー」

「おやおやバルバロ。随分睨んでくれるじゃないか」


 クロウラーと呼ばれた女性はフードを外した。

 漆黒の艶めく黒髪を頬のあたりで切りそろえたショートヘアに、目尻の垂れた優しそうな目つき。だが瞳は深い闇を思わせる紫がかった妖しい色で、そのギャップが得体の知れない妖艶さを醸し出していた。


「自惚れるなよ。お前に用は無い。子亀を助けただけだ」

「ベリー。船に戻ってろ」

「わかった!」


 ベリーはそそくさと荷物をまとめて、BLUE BULLへと駆け出した。


「随分警戒しているなあ。そんなにベリーが大切か?」

「あいつはもう、俺の家族だ。追うってんなら、相手になるぜ」


 バルバロは先ほど魔鱶を屠った骨のナイフを構えた。

 一触即発、と思いきや、クロウラーはゆったりとした妖しい微笑で受け流す。


「このマーケットは中立地帯。争いはご法度だよ」


 そう言ってばさりとマントを翻し、海亀を肩に乗せて背を向けた。


「ベリーは必ず返してもらう。もしくはそこの、オルカと言ったな。そいつを奪う」

「やれんならやってみろ。俺に殺されても知らねえぞ」

「それは脅しのつもりかな。精々武器でも研いでおけ。海賊は、欲しいものは手に入れる」


 クロウラーは顔だけ振り返ってしばらく湊を見つめて、去って行った。


「……けっ、こっちだって海賊だ。欲しいものは死んでもやらねえよ」

「バルバロ、あの女の人、誰なの?」


 ナイフを納めたバルバロは、クロウラーの消えた雑踏を睨んだまま言った。


「オルカ。あいつには気をつけろよ。スカイツリー跡の海賊、クロウラーだ」

「クロウラー……」


 湊はその名を繰り返した。少しの恐怖と、何故だかなんとなく、本当になんとなくだが、海亀を守った彼女への親近感のような、相反する感情がぐるぐると混ざり合っていた。

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