第8話 その名はオルカ

「おーい、湊ー!」


 バルバロの声だった。いつまでも泣いてはいられないなと目をこすって、湊はバルコニーへ戻った。


「あ、ミナト。バルバロが下からロープ投げるから取って」

「?」


 身を乗り出して下を見ると、係留してある船の上からロープが飛んできて、タイミング悪く湊の顔面にクリーンヒットした。


「あ、悪い悪い! 掴めそれ!」


 湊は咄嗟に、自分の顔を跳ね返ったロープの先端を掴む。


 ロープの先には、バルバロが湊を助けるために仕留めた魔鱶が繋がっている。ロープでバルコニーに引っ張りあげるつもりらしい。

 ぐっ、と湊は両手に力を込めて、全体重をかけて引っ張る。


「おーし力仕事だぞー! 気合いだ気合い!」

「ミナト、本気出して本気! がーっ、て!」

「くっ、お、重っ!」


 ジリジリと持ち上がるものの、魔鱶の体の半分が海面から離れた位でさらにずしりと重くなり、動かなくなってしまった。


「カカッ、しょうがねえな、今行くから待ってろ」

「ミナト、腕細いもんね。筋トレしなきゃねー」

「ちょ、ベリー、手伝ってっ」

「わたし女の子だしー。重いのもてなーい」


 流木に腰掛けてニヤニヤと笑うベリー。その顔に湊が恨めしそうな視線を送った時、バルバロがバルコニーに到着した。


「んじゃ、一緒に持ち上げるぞー。おらっ!」


 筋肉の盛り上がった腕でぐいぐいとロープを引っ張り魔鱶をバルコニーに引き上げる。分かってはいたが、こんなに腕力の差があるのかと湊は目を丸くした。


 あっという間にバルコニーへ引き上げた魔鱶を、バルバロは何かの骨を削ったナイフで手際良く身を捌き、木の枝を削って作った串に刺して、ベリーが起こした火に並べて焼き始めた。


 日が傾き始めた中パチパチと燃える炎が、魔鱶の肉を炙る。焼けた魚の良い匂いが漂い始めて、湊は自分が相当空腹であることに気が付いた。


「そろそろ良いだろ。ほら湊。食いな」


 ずいっと差し出された焼き魔鱶。受け取りはしたものの、なかなか口に運ぶ踏ん切りがつかない。

 湊にとっては得体の知れない魚だし、あの深緑色のモンスターじみたビジュアルを思い出すと、できれば食べたくない、というのが理性から出る本音だった。


「ほらミナト! いただきますは?」

「い、いただきます」


 ベリーの屈託の無い笑顔。湊は意を決して、小さくかじった。


「……美味しい」


 香ばしく焦げた皮のカリッとした歯ごたえと、ギュッと締まった身のほのかな塩味を感じる味わいはやはり魔鱶も魚なのだと思わせて、それは今まで暮らしていた元の東京での食事と同じ安堵感をもたらした。

 最初はもそもそと魔鱶を口に運んでいた湊だったが、次第にペースが早くなり、ガツガツと貪るように食べた。


「おいおい湊よ、泣くほどうめえか?」

「え?」


 気づいたらまた、湊は涙を流していた。


「よっぽどお腹空いてたんだね。それなのに、よく頑張りました」


 ベリーがぽんぽんと湊の頭を撫でる。その感触が優しくって、湊は顔を崩して泣き出しそうになるのをグッと堪えた。



 魔鱶を食べ終えるとバルバロは、肉を剥ぎ取って残った骨にロープを結んで海に放り投げた。しばらくこのままにして残った頭とか尻尾を海に返し、綺麗になったあとで骨でナイフを作るらしい。


 下火になってきた焚き火の脇で、ベリーは横になって寝息を立て始めた。

 ゆらゆらと揺れる炎が、バルバロと湊の顔をオレンジ色に染める。

 しばらく二人して焚き火を眺めていたが、バルバロは新しい薪を並べながら口を開いた。


「なあ湊。お前がどうやって東京タワー跡に流れ着いたかは知らねえが、仲間とはぐれて独りになっちまったってとこだろ。大変だったな」


 湊は無言で頷き、炎を見つめる。


「でもま、こうして俺らが見つけてよ、魔鱶に喰われる寸前でせっかく拾った命だ。これも縁だし、俺とベリーの仲間になれよ」


 行く宛も無い湊は、再びこくりと頷いた。

 バルバロは優しい溜息をついてから続ける。


「おし、今日からお前は海賊だ。俺がこの海での名前つけてやるよ」

「この海での、名前……?」


「お前は、オルカだ」


 そこにいつの間に起きたのか、むにゃむにゃとした口調でベリーが口を挟む。


「バルバロー、オルカってなに?」

「シャチの事だ。オルカとも言うんだ」

「へー、やっぱ物知りだねー」


 湊は知っている。学名のオルキヌス・オルカからとった、シャチの別名。


「オルカ」


 今しがた与えられた自分の名前を繰り返す。なんだか悪い気はしない。

 有り体に言えば気に入ったのだ。海に魅せられた湊にとって、まさに憧れを冠した名前。


「なあ湊。いやオルカ。くよくよすんなとは言わねえ。そういう気分の時もあるし、人には事情だってある。だけど、もしもこの先、もうダメだとか思っちまうような事があれば、自分の名前を思いだせ。誇り高き海の王者の名前をよ」


 バルバロの力強い言葉が、湊の目頭を熱くさせる。

 ――ああ、この人は、優しい。

 自分独りだったら、もうこの世にはいられなかっただろう。


 百年後の水没した東京で目覚めると言う信じがたい状況に陥っている湊。そんな中、バルバロと出会えたのはこの上ない幸運だった。


「ありゃ、泣かせちまった。あまりにもセンスの良い名前に感動したか?」

「いや、大丈夫……でもなんでオルカ? 僕、強くもないし、似合わないよ」


「ぴったしの瞳してんじゃねえか。黒と白の。イカしてるぜ」


 湊のコンプレックスだったこのオッドアイ。いらぬ期待を背負わされてきたこの瞳。オルカなんて大層な名前も同じようなものであるはずが、なぜだか湊の胸を撃ち抜いた。


 この海では、生き様とか誇りとか、そういうものを背負って好きな名前を名乗る。

 ならば自分はシャチのように気高く強くなって、荒波部の三人を探し出してまた四人で群れを作りたい。できればそこにバルバロとベリーも含めて、みんなで。


 湊の心に灯った海の王者の瞬き。

 今はまだ、おこがましい名前かもしれない。だけど良いのだ。憧れを冠した名前なのだから。


 黒と白の瞳が微かに光った事を感じたバルバロは、安心したように小さく笑った。

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