第1章 さよなら東京

第1話 東京湾と夕霧彩子

 吐く息が白い。

 十一月も下旬に差し掛かり、一層冬の空気が街全体を包み込む。


 イヤホンを差し込んだスマホでお気に入りのバンドの曲を選ぶと、切なさを内包したギターのアルペジオの隙間を、細かく刻むハイハットが軽快に走る。


 用の無い放課後、湊は自宅と逆方向のモノレールに乗って運河沿いの公園に足を運び、時折こうして音楽を聴きながら、海を眺めて頭を空っぽにする。


 整備し尽くされた人工物に囲まれた東京湾。

 この都会の海は砂浜や水平線と言った雄大なものは一切視界に入らず、「海」という言葉を聞いて誰しもが真っ先にイメージするような風景では無い。

 だが、人工物と自然が混ざり合って存在するある種の奇妙さ、いや現代においてはこれが"自然"ではあるのだろうが、「これはこれで悪く無い」と湊はよく東京湾を眺めに来ていた。


 瞳を閉じて、そっと左眼の瞼に触れる。色の違うこの瞳。周りと違うこの瞳。

 はぁ、とため息を一つこぼした。


 湊の右眼の瞳の色は黒。よく見ると周囲の人間よりも黒々としており全ての光を吸い込みそうな闇を彷彿とさせるが、それでも黒は黒。充分に普通の範疇だ。


対して左眼の瞳の色は、若干灰色がかった白。それは見る人によって、鏡面状に磨いた金属であったり、空の果てまで広がる分厚い曇天を連想させる。


 色の違う瞳を見て綺麗だと言う人間が大半で、悪意の捌け口にされた事は未だかつて無いのだが、湊はこのせいで少しだけ特別扱いを受けることがあった。

 湊は目立つ事が好きでは無く、学校の行事や日常の中であっても、その他大勢の中に混じって特に発言をせずじっとしているタイプだし、率先して何かをするとか、責任を負うことも避けて生きてきた。


 しかしその意に反して、美しい白と黒の瞳が醸す雰囲気によって「周りとは違う」と言う羨望に似た期待を抱かれる事があり、それが鬱陶しかった。

 一万人に一人の確率と言われるオッドアイ。そんなレアな確率、もっと別の有意義なもので運を使いたかった、というやり場の無い後悔を常に背負っていた。


 夕陽がビルの隙間に消えかけて空から徐々に闇が降りてきたから、湊は家路に着くことにした。マフラーに深く顔を埋めて駅の階段を昇り、人気の無いホームの隅っこ、最後尾の位置でモノレールを待つ。


 しばらくしてアナウンスの後、目の前を車両が流れて重たい音と共に止まった。その中には制服姿の見知った顔がいて、ちょうどドアを挟んで向かい合う格好になった。


 湊より少し背の高い、すらっとしたスタイル。毛先をゆるく巻いた濡れたような艶をした栗毛色の髪。気の強そうな眼差しで造形の整った、ぱっと見少しギャル系の活発そうな女子生徒。


 その姿を確認すると、湊はお気に入りの曲を流すイヤホンを外した。

 モノレールの扉が開くと同時にその女子生徒――夕霧彩子ゆうぎりさいこは腕を組んで、ニヤニヤしながら口を開いた。


「おやおや周防湊君。今日も徘徊かな?」

「徘徊って何ですか、ただの散歩ですよ」


 湊はドア脇に避けた彩子の隣に立って、表情を一切変えずに答える。


「相変わらず温度の無い後輩だー。今日も綺麗ですね、くらい言ってみなさいよ」

「今日も綺麗ですね」

「うっさいわ」


 モノレールの車体が吐息のような音を鳴らして扉が閉まり、湊達を運び出した。


「で、また海見ながら曲聞いてたの?」

「はい、そうですけど」


 彩子はおもむろに曲が流れたままのイヤホンを湊の手から奪い、自分の耳にはめる。


「またグラウンド・ブルー・アラウンドか。あたしも好きだけど、あんたいっつもこれ聞いてるわね」

「僕の心境にぴったりなんです。全曲憂いを帯びた感じで」

「ははっ、やだー暗ーい」


 共通して知っているバンドの名前。湊と彩子の会話の壁が一枚無くなったのも、このバンドの話になってからだ。

 夏休み前の一学期、人気の無い学校の屋上で一人で聞いていた時に、今のようにイヤホンを奪われたのがきっかけだった。


「サイコ先輩は何してたんです?」

「あんた今、文章にするとカタカナで呼んだでしょ。人を危ない奴みたいに言うな」


 彩子と書いて「サイコ」と読む。穏やかじゃ無い響きの名前だが、彩子は特に気にしておらず、こうやって会話の端々でネタとして使う位のものだった。

 湊の頭を軽く小突いて彩子は続ける。


「何してたか、見て分からない? ほれ」

 そう言って釣竿を目の位置に上げて軽く振る。


「女子高生が放課後に海釣り」

「何よ、なんか文句あんの」

「いや珍しい趣味してるなと思って。寒いのによくやりますね」

「あんたもね」

 こうやって軽口を叩いていたら、彩子の降りる駅についた。


「じゃあね、湊。あ、明日は部活だからね! サボるんじゃないわよ」


 彩子はぴしっと湊に指を指す。


「ちゃんと出ますって。休んだこと無いでしょ」


 よし、と頷いてから彩子はモノレールを降りた。ホームの階段を降りる手前で手を振っていたから、湊も手のひらを見せて応えた。


 基本的に人付き合いが苦手で無愛想な受け答えしかしない湊だが、この距離感の近い女の先輩、夕霧彩子と話すのは嫌いではなかった。

だからこそモノレールの中に彩子の姿を目にした時、自然とイヤホンを外し、会話する準備を無意識に整えた。


 暗くなった窓の外の街の灯りを眺めながら、一人になった湊は再びイヤホンを両耳に嵌めて、周囲と自分を遮断した。


 やがて家に着いた湊は親にただいまを言って、いつも通り夕飯を食べてゆっくり風呂に入って、自室のベッドに横になった。スマホを開き、動画アプリを開く。

画面には、これはどうですか、いやいやこちらもなかなか、と日々湊が見ているジャンルの動画のサムネイルが、いくつもおすすめとして表示される。


 それらは全て、海に関するものだった。ダイビングや素潜り、ヨットでの航海、シャチや鯨の生態について、など。


 何かきっかけがあったわけではないが、湊はいつの頃からか海に心を奪われていた。


 ――海は良い。綺麗だし、果てしなく大きいし、何より他人とのしがらみとか、人間関係の面倒ごととか、そういうことと無縁な気がする。自由な気がする。


 そんな現実逃避じみた感慨に耽りながら、太平洋を渡る冒険家の動画を再生する。

 この冬が終わって、春が来たら湊は高校二年生になる。進路のことも考え始めなければならない。だとしたら、具体的には何も決まっていないけれど、海に関わる道がいいな、と漠然と思うのだった。



 段々と眠気が増して、スマホの中の冒険家がセイルを張って風を受けた時、湊は夢の中に沈んだ。

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