目が覚めたら東京が水没していたので、海賊になりました。

シャオバイロン

プロローグ

第0話 ブルーアラウンド

――見渡す限りの水平線。

 だが強く違和感を感じるのは、ポツリポツリと海面に頭だけを覗かせている高層ビルやタワーマンションのせいだ。

 じりじりと肌を焼く太陽の熱。

 ゆっくりと繰り返す潮騒の残響。

 少年――周防湊すおうみなとは、まるで寝起きのような回らない頭で考える。

 十一月も終わろうとする季節のはずなの に、どうしてこんなに暑いんだと、水を吸って重くなったコートとカーディガンを脱いでTシャツ姿になった。

 今、自分が座り込んでいる赤い鉄骨に改めて触れる。やけに錆びついて、もはや朽ち果てていると言っても過言では無い状態。――だが、間違いない。

「これは、東京タワー……だよな」

 よく知っている建物のはずが、それはまるで人に忘れられて長い年月が経った、秘められた遺跡のような。見上げると、登って行けなくも無い距離に展望台が見える。そして足元は海。東京タワーが全体の半分以上海に浸かっていて、波をかぶる鉄骨はフジツボだらけ。海中は、青く綺麗な深い闇が光をどこまでも吸い込んで行く。

 湊は記憶を辿る。

 ついさっきまで、部活の面々と東京タワーに来ていた。普通にアスファルトの地面を歩いて、地下鉄に乗って、改札を出て。そしてエレベーターに乗り展望台へと向かったはずだ。

 なのにどうだ。いつの間にかタワーの外に放り出されて、足元は海。目の前も海。顔を上げれば、電線やコンクリートで区切られていない大きな大きな空。こんな青一色の世界に来た覚えなんて無い。

 あまりに訳が分からなすぎて、一周回って動揺する気にもなれなかった。

 湊はおもむろに、展望台へ登ろうと朽ちた鉄骨に手を掛ける。すると影からフナムシがざざっと湧いた。

「わっ!」

 驚いて手を滑らせ、どぼん、と水しぶきを上げて海に落ちた。

 海中で目を開けて下を見ると、ぼやけた視界でも分かる位に果てしなく深い。

 海面から顔を出して、現在の状況を理解しようと考えを巡らす。

 だが、やはりどれだけ頭の中の糸を結び直そうとも「東京の街全体が海に沈んだ」と言う答えに帰結する。

 もちろん東京だけで済んでいるはずも無いが。

「そんなばかな。一体何がどうしてこんな」

 自分の脳の回答を信じられず、自分で自分に首を振る。

「みんなは――」

 湊が仲間の身を案じたその時、視界の端で三角形の何かがすーっ、と海面を移動して消えた。

 本能的な恐怖心が身体を勝手に動かして、湊は再び鉄骨の上によじ登る。するとまた、足元のすぐ近くにそれが。思った通り鮫の背びれのようだった。が。

「ヨシキリザメ……? いや、なんだ、あの色」

 湊は他人よりは鮫についての知識を持っている。図鑑や動画で見た知識を探り、何となく近そうな種の名前を呟いた。しかしそいつは湊の知っている鮫とは違い、何やら毒々しい深緑色をしていた。あんな奇妙な色の鮫など知らない。

 瞬間、大きな水飛沫と共に、そいつが海面から跳ね飛んで姿を見せた。

 びっしりと並んだ鋭利で不揃いな歯。背びれだけでなく、深緑色に覆われた全身。そして不気味な大き過ぎる黒目を持った鮫。

 そいつが大きな口を開けて、矢のように突っ込んで来た。叫ぶ間も無く咄嗟に身を躱して、湊はまた海面へ落ちた。

(――喰われる!)

 鉄骨の上では間一髪で避けられたが、海中で自分を狙う鮫と対峙して無事に済むはずがない。湊はなんとか逃れようと、混乱した頭で四肢をばたつかせてもがく。泳ぎは得意なはずだったが、焦りと不安が絡みついて上手く泳げなかった。

 緑色の鮫は湊の周りをゆっくりと旋回しながら、その大きな黒目だけを微塵も逸らさずに、獲物と見なした湊へ向ける。そして再び、歪な大口を開けて突進してきた。

 湊は自分の生命の終わりを確信した――その時。

 海面から何かが鮫の鼻先に突き刺さり、紫色の血がもやとなって視界に広がった。鮫は銛で突かれた魚そのもののようにぐねぐねと必死でもがき、徐々に動きが鈍って、やがて動かなくなった。

 海から顔を出した湊の目の前には、年季の入ったクルージングヨットが一隻止まっていた。群青一色の船体に、漆黒の帆がはためいている。

 船上にいたのは、紫色の腰布を巻いた、日に焼けた長髪の男。無駄の無い引き締まった上半身には何も纏っておらず、しなやかな筋肉を晒している。

 そしてもう一人、一枚の布で細い身体を巻いて、綺麗な黒髪を短く切りそろえた、同い年くらいの小柄な褐色の肌の美少女が、湊を見下ろしていた。

「珍しいとこに人がいたもんだな」

「見ない顔だね。なんだか弱そう」

 男は手に木を削ったオールを携えており、そのブレードは紫色の鮫の血でグラデーションのように染まっている。どうやら助けてくれたのはその男のようだった。

「おいお前。動けるか? まあ上がれよ」

 男はそう言って、肩辺りまで伸びたウェーブがかった赤茶色の髪を後ろに結ぶと、船の上から身を乗り出し、湊の手を掴んで船上へ引き上げた。

「ん? お前、瞳の色が左右で違うな」

 目と目を合わせていたら、生まれついてのコンプレックスに気づかれてしまった。湊は塞ぎ込む様に目線を逸らす。

「黒と、白ねえ」

 顎に手を当てて、ふむ、と男は考え込む。湊は、その男の思考を遮るように言った。

「あの、ここって、何がどうなってるんですか。東京タワーですよね、これ」

「何がどうなってるって、随分アバウトだな。ここは東京タワー跡。さっきの魔鱶以外にも、色んな魚や漂流物が集まる激アツスポットだ」

 東京タワー「跡」。跡ってなんだと湊の思考は一瞬止まる。

「東京の街は? ビルとかショッピングモールとか、モノレールとか、家とか学校とか!」

「んなもんとっくに、海の底だ」

「とっくにって……」

 街がこんな有様で、果たして部活のみんなは無事なのか。救助はきたのか。そう言った心配が次から次へと湊の脳内を巡る。もしかしたら割と長い時間気を失っていたのかも知れない、と思った。

「あの、東京がこんなことになってから、どれくらい時間経ってるんですか」

「どれくらいも何も」

 その後に続く言葉は、さらに理解不能で、あまりに残酷で、信じ難いものだった。

「――百年ちょっと前の話だろ、それ」


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