第5話
四月十四日。戸塚と川島が熊本に入って五日が経過した。何も成果が上げられなければ、翌日には一旦東京へ戻らなければならないという焦りを持ったこの日、望まれない形で瀧が発見された。
連日水前寺公園で聞き込みをしていた戸塚が受けた電話の内容が、喜ばしいものではないことは、誰の目にも明らかだった。
電話を切った後、戸塚はほとんど口を開かずに南へ向かって歩いている。川島も無言でその後を追う。二人が少しずつ歩を速め市電が走る県道に出ると、そこには赤色灯を灯した一台のパトカーが停まっていた。
「
後部座席でシートベルトを引っ張りながら、戸塚は助手席に座る本郷の部下の道下に訊くと、道下は振り返ることなく答えた。
「瀧は首を吊っていたようです。場所は阿蘇のペンションが多く建つ地区。宿泊客が早朝の散歩中に発見したと」
「遺書は?」
「まだ見つかっていません。死後三日から七日経過しているようなので、紙に書いたものなら、どこかに飛ばされているとも考えられなくはないですが」
「死後三日から七日というのは確かですか?」
「そういう話です。解剖しても詳しく特定できるかどうか。相当カラスなんかに荒らされているようですから」
答えを聞いた戸塚は言葉を失っていた。このまま証拠が少ない中で捜査が進めば、国東と小平の殺人に関わった瀧が、罪の意識にさいなまれて自殺したと判断されかねない。
しばらく黙して思考を巡らせていた戸塚が、静かにスマートフォンを取り出して、短いテキストを送信した。
その行動を隣で目にした川島は、緊張を抑え込むことに集中している。ようやく何が起きているのか見え始め、大きく息を吸い前方に目を向けた。車は市街地を抜けて速度を上げている。阿蘇の外輪山が、広く壁のように聳えていた。
五十分後、先に現場に到着していた本郷が、川島たちを出迎えた。日中でありながら薄暗い森の中に、照明灯の明かりが幾筋も差している。
「タイミングが良いのか、悪いのか。お二人が帰られる前日になって発見されるとは。ペンションの客が散歩中に発見したそうです。死体には蛆が湧いていますが、
本郷は、既に移動中に聞かされているだろうと認識していながらも、戸塚と川島に状況を説明した。その表情は、自分の肩に乗っていた荷物が、その重さで自身を押しつぶす前に降ろされたことに対する安堵を隠していなかった。
「ここまで瀧はどうやって来たんでしょう? タクシーですかね?」
川島の質問に、本郷は「分からない」と答えた上で、自身の考えを口にした。
「今のところ、瀧を乗せたというタクシーは見つかっていません。最寄りの駅からだと二キロちょっとですから、駅から歩いて来たとしてもおかしくない。ただ、防犯カメラも設置されていない無人駅ですからね」
「瀧の捜索願が出されたのは三月二十日でしたよね?」
川島が本郷に確認すると、本郷は手帳を内ポケットから出してページを捲った。
「そうです。最後に姿が確認されているのは、三月十七日の朝。この日は日曜日ですが、妻の話ではいつも通りの時間に、いつも通りの様子で出社したと。東京の事件の後に、瀧はここに来たんでしょうね」
本郷が言った「東京の事件」とは、当然小平の件だ。
「見させてもらっても?」
戸塚が本郷に現場の方を指さして訊ねたが、本郷は首を横に振った。
「もう少し待ってください。足跡の採取がまだですから」
「足跡? 第三者の足跡が見つかっているんですか?」
現場は車道から五十メートル程外れている。樹木も生い茂り、景観が良いわけでもない。普段人の立ち入りはないだろう。
「それはまだ、のようですね」
本郷が鑑識官たちの動きを眺めて言った。その説明がされなくとも、第三者の足跡を探すように指示しているのは明らかだ。だがそれは、本郷が他殺だと考えているからというわけではない。明らかな自殺であったとしても、まず他殺である可能性から調べるのが捜査の常識だ。
今回の現場は、人の手が加えられていない森の中。日が差し込まない地面は、常に柔らかい。この場所に足跡を残さずに立ち入るのは不可能だ。つまり、第三者の足跡が発見できなければ、遺書が見つからなかったとしても自殺と断定される。
「発見者はどこですか? 少し話を聞いてみたいんですが」
戸塚は控えめに本郷へ訊いた。
「彼ならペンションの部屋に戻ってますよ。こちらの聴取は終えてますから、ご自由にどうぞ」
本郷は思いの外あっさりと戸塚の願いを受け入れた。手順を踏んではいるが、本郷の心の中では自殺と決め込んでいるようだ。ならばと、戸塚はもうひとつ願いを口にした。
「それから、現場の写真は見れますか? もう遺体は降ろされているようですけど、発見された直後の」
本郷は戸塚の言葉を聞いている途中で、鑑識官の一人を呼び寄せた。本郷がその鑑識官に写真を見せるよう指示すると、鑑識官は最初の写真を見せる前に口を開いた。
「希望に添える写真はないかもしれませんよ。遺体は我々が降ろしたわけじゃないですから」
そう言って鑑識官が戸塚に向けたデジタルカメラの小さなモニターには、地面に横たわる遺体が映し出されていた。仰向けになった遺体の腹は動物によって裂かれている。靴は両足とも履いておらず、片方の足は靴下も脱げている。胴体を主に写したその写真では、瀧の顔や首に残されているはずの、首を吊ったロープによる索溝は確認できない。鑑識官が切り替えた次の写真で遺体の首付近が大きく写されていたが、その写真を見ても同様だ。
瀧の遺体は、首から上が失われていた。
「あの、頭部は?」
「四メートル離れた所に」
鑑識官はそう答えながら頭部の写真を表示させた。眼球と頬の肉が失われた瀧の頭部を確認すると、戸塚はデジタルカメラのモニターから視線を外し、本郷の方に顔を向けた。
「発見者は男性でしたね。こんな遺体を見た後に、同じ質問で煩わせるのも申し訳ないので、聴取内容を教えてもらえませんか」
本郷はそれにも応え、部下が纏めているメモをそのまま戸塚に見せた。
「川島君、お願い」
川島は戸塚に頷いて、そのメモを書き写した。川島の目に戸塚の顔が少し青ざめて見えたのは、瀧の無残な姿が原因ではないはずだが、それを解決する方法が川島にはまるで見えてこない。
「ありがとうございます」
書き写し終えた川島が手帳を返すと、戸塚はスマートフォンを操作しながら、既にペンションに向けて歩き始めていた。
「戸塚さん。大丈夫ですか?」
呼びかけても止まらず歩く戸塚の横に川島が追いつくと、戸塚はその川島の前に手を出した。川島がその手の上に手帳を開いて置くと、そのままスマートフォンで撮影した。
「その男、怪しいと思います?」
川島が言った「その男」とは、手帳に書いてある第一発見者の男だ。
「間違いないと思う。でも、怪しまれているとは気付かせないで。証拠を揃えて、一気にやらないと」
「主犯を挙げられない、ですよね」
川島の言葉に足を止めた戸塚は、一瞬驚いた表情を見せて笑みを浮かべた。
「そう、川島君も分かったんだ」
「分かってないですよ。輪郭さえぼやけてるんですから」
そう言いながらもぎらついた眼をした川島の肩を一度叩き、戸塚は再び歩き始めた。
「脇坂、最優先でこの男を調べてくれ。この男もヤツとどこかで繋がっているはずだ」
そう言って比嘉は、戸塚から送られてきたメールを脇坂に転送した。
「
「それは何年頃の話だ?」
「一番暴れていたのは秀久が十八歳の頃でしたから、丁度十年前ですね」
比嘉は脇坂の話を聞きながら、ある男の経歴を調べた。そして、出てきた結果に「やはり」と頷く。
「二〇〇八年から〇九年、ヤツは池袋署の機捜に所属している。繋がりを持ったとすれば、この時だな」
「間違いないでしょう。小平を
「それじゃあ、そっちは任せる。俺はヤツの娘に会ってくる。良心が残されているとすればそこしかない」
「良心、ですか。そうは言ってもおそらく三人。三人殺してるんです」
立ち上がり、背もたれに掛けてあった上着を手に出て行く比嘉の背中に、脇坂は溜息交じりに口にしたが、比嘉はその言葉に反応することはなかった。
一時間後、比嘉は公園のベンチに座っていた。都内の住宅地に囲まれた小さな公園。
比嘉の目の前で、車いすに座った娘が、薄いひざ掛けの上から自分の脚を握りしめている。
「別にスポーツをやっていた訳でもないですし、あの人みたいに体を張った仕事をしてたわけでもないですから。同じ会社の同じ部署で、同じ給料のまま働いて」
六年前、この車いすの娘がミニバイクで深夜に帰宅していた時、横断歩道のない片側二車線の道路を渡っていた女を避けようとして、転倒した。彼女はそれ以来車いすでの生活を強いられている。「大変だろう?」という比嘉の言葉に対する答えがこの言葉だった。
「道を渡っていた女の人と、事故の後に会ったことは?」
次の比嘉の質問に、娘はまず首を横に振って「ノー」という答えを示した。
「別に詫びてほしいなんて思ってもないです。あの人からも、『原付で五十キロ出してたお前も悪い』って言われましたし、私だってそう思ってますよ。それに、あの人の立場上、何でも穏便に済ませなきゃって癖がついてるんですよね。子供の頃からずっと」
そう話す間も、娘は動かない足を時折強く掴んでいる。
「あの、私からも質問良いですか?」
「どうぞ。何でも訊いてくれて構わない」
娘は脚を掴んでいた手から力を抜き、落としていた視線も上げて比嘉の目を見た。
「比嘉さんって監察の人じゃないんですよね?」
「ああ。残念ながら刑事だ」
「やっぱり」
「やっぱりって、何か最近変わったことでも?」
「私の脚のこと。最近話さなくなった。先月までは『動かせるようになる』とか言ってたのに。って言うか、もう何週間もまともに顔を見てないです。家に帰ってきてるのかどうか。あの女の人が人をはねて逮捕されたって話も、比嘉さんに聞くまで知らなかったですし」
そう言うと、娘は再び自分の脚に視線を落とした。比嘉がその顔を悲しげに見つめて再度口を開いた。
「私が来たこと、お父さんに話すかい?」
「どうかな。多分話さないと思います」
「そうか。できれば話さないでくれと頼もうと思ってはいたんだが、その必要はなさそうだ。だが、君は最後までお父さんの味方であってほしい。勝手なことを言うようだが」
「それは約束できません。そんな顔で、そんなこと言われたらなおさら」
視線を外して表情を険しくした娘を見て、比嘉はベンチから立ち上がった。
父親のことを「あの人」と呼ぶ娘の態度から、あまり父親のことを良く思っていないように見える。比嘉に子供はいないが、自分に娘がいても、やはり良い父親にはなれなかっただろうと想像した。刑事とはそういう仕事だ。
だが、同時に比嘉は納得いかない思いも抱えていた。目の前の娘は一人前の社会人だ。我が儘ばかり言う子供ではない。父親が家族のため、社会のために働いているのは理解しているはずだ。
「ありがとう。また話を聞くこともあると思う。逆に何か力になれることがあったら言ってくれ。いいね、
比嘉が最期に掛けた言葉に、娘は一度頷いただけで車いすのロックを解除して向きを変えた。比嘉はその場で娘が公園を出るまで見送ったが、彼女が振り返ることはなかった。
「帰った?」
戸塚と川島がペンションを訪ねると、既に柚野秀久はチェックアウトしていた。
「ええ。刑事さんと話し終わってすぐじゃないですかね」
髭を蓄えたマスターが、客の老夫婦に紅茶を淹れながら答えた。
「元々十時にチェックアウトの予定でしたから。私も話だけ少し聞きましたけど、なんだか私まで申し訳なく感じてしまいましたよ。折角東京からこの田舎に骨休めに来て頂いたのに、とんでもない現場に居合わせてしまって。たまにあるんですよね。山奥だから、誰にも迷惑を掛けないと思っているのか」
マスターは「私が迷惑を
「柚野さんは一泊しかしていないんですよね?」
「ええ。昨日の夕方からです」
「予約されてました?」
「もちろん。飛び込みで来る人はまずいないですよ。ちょっと待ってください」
マスターは紅茶を老夫婦が座るテーブルに運び、カウンターに戻ってくるとノートパソコンを開いた。
「あ、でも割と最近ですね。予約されたのは五日前です」
五日前と聞いて、戸塚と川島は目を合わせた。二人の表情が変わったことに、マスターも眉根を寄せた。そのマスターが「どうかしたのか」と訊ねる前に、戸塚が少し身を乗り出して口を開いた。
「ご主人は、亡くなっていた瀧さんはご存知ですか?」
「え? ま、まあ、名前と顔ぐらいは。ワイドショーで失踪のニュースは見ましたから」
「画面を通してだけですか? これまでにこのペンションを利用されていたということは?」
「ありません。他のペンションもないですよ。組合の会合で一度話題に上りましたから。雑談の中で、ですけど」
二人が質問を口にするたびに、マスターは怪訝な表情になっていった。
「自殺、なんですよね?」
「それを調べているところです」
マスターの口から出てくる言葉をあらかじめ予測していたかのように、戸塚が間髪入れずにそう返すと、川島の腕を突いて「戻ろう」と呟いた後に、マスターに向かって小さく頭を下げると、「お忙しいところありがとうございました」と、川島も戸塚の後を追って辞去した。
「川島君、柚野の供述で気になるとこある?」
速足で現場に戻りながら、戸塚が訊いた。横に並んで歩く川島が内ポケットから手帳を出して開く。
「答えた内容だけで、供述をした時の態度までは書かれていませんでしたけど、疑って見るといかにも言い訳臭いのが」
川島はそこまで言って一度戸塚の顔を見た。何も言葉が返ってこないのを見て、不信を抱いた供述を読み上げた。
「メモには『足跡多く残し、荒らしてしまって申し訳ない。カラスについばまれているのが不憫で追い払った』と、柚野の供述が書いてあって、その下に『遺体周辺、発見者の
明らかに語尾を上げた川島の質問口調に、戸塚はやや考えて「やめておこう」と答えた。
「熊本県警に敵の協力者は居ないと思うけど、動きが察知される危険性はあるから」
続けて口に出された戸塚の慎重な考えに、川島は思わず嘆息した。
「それよりも、心配なのは他殺の証拠が見逃されることよ。本郷さんは自殺だと思ってる。私たちが犯行の痕跡を探さなきゃ。絶対に何か残してるはず。プロの知恵で動かされた素人の仕事なんだから。絶対に何か」
森に入った戸塚たちの目に、道具を仕舞い始めている鑑識官たちの姿が映った。木々を囲むように張られたイエローテープも、既に一部が撤去されている。戻ってきた二人に気付いた本郷が手を上げた。
「もう入ってもらって構いませんよ。やはり足跡は瀧と柚野さんのものしかないですね。遺体はもう病院に運んでいます」
本郷は仕事を終えた顔をしている。その本郷に対して、戸塚が注文を出した。
「鑑識さんを誰かお借りしても良いですか? 何も出ないとは思うんですが、万が一何かあった時に、私たちが勝手に処理するわけにもいきませんから」
戸塚の願いに、本郷は一瞬眉根を寄せたが、すぐにそれを快諾した。
「それでは新人の
「恐れ入ります。自分たちでも見ておかないと、本庁に戻って叱られそうで」
戸塚が口にした言い訳は本心ではない。本郷のプライドを守るための方便だ。
野津元一人を残して本郷たちが去ると、戸塚はさっそく仕事を始めた。瀧の遺体があった付近で、野津元の説明を受けながら周辺を確認している。
「胴体はこの位置で、頭部はここに。胴体の地面に接した箇所に動物の毛と唾液のようなものが付着していたので、イノシシにでも引っ張られて首が千切れたんじゃないかと。実際、遺体の下にもイノシシの足跡がありましたし」
「イノシシって芋とか木の実みたいなものを食べるんじゃ?」
川島が、地面を注意深く見ている戸塚の様子を見ながら、疑問を口にした。
「そうでもないんですよ。積極的に捕食はしないようですけど、ネズミやウサギも捕えられれば食べるようですね。それに、好奇心も旺盛で。犬がよくスリッパを隠すでしょう? あれと同じような行動もします。瀧の靴はイノシシが咥えていったんじゃないですかね」
その話を聞きながらも、戸塚は引き続き胴体があった位置を注視していた。
「これが瀧の足跡?」
戸塚が深く残された足跡を指さして野津元に訊ねた。野津元がその指が向いている方を確認して頷いた。丁度胴体が横たわっていた位置だ。
「ええ、そうです。既に自宅に残されていた靴の跡と照合が済んでいます。あっちからここまで、少し蛇行しながら続いているでしょう? 丁度良い枝のある樹を物色しながら歩いたんでしょうね」
野津元は一台残された警察車両が停まっている方を指して言った。戸塚がその方向を目で追うと、地面に白く足跡採取用の樹脂が点々と残っている。野津元の言う通り蛇行してはいるが、ほぼ一直線にこの場所に向かっていた。
「川島君、ちょっとここに立ってみて」
戸塚は、瀧の足跡が残されている場所のすぐ横を指して川島に言った。川島はその理由に察しがついているようで、瀧の足跡の横で足踏みをしたり、軽く飛び跳ねたりした。そして、残された自らの足跡を確認した後、戸塚の目を見て頷いた。
「やっぱり瀧の足跡にしては深いですよ」
川島の指摘に、野津元も身を乗り出して瀧の足跡を確認している。足踏みして付けた川島の足跡と比べると、明らかに深い。瀧の体格は川島より小柄だ。
「本当ですね。雨でぬかるんでいたんでしょう。天候を調べれば、首を吊った日が特定できるかもしれないですね」
野津元の言葉を聞いた川島は苦笑し、戸塚は嘆息した。川島は事実が見えていないと感じ、戸塚はぬかるんでいた可能性を示されれば否定できないと感じていた。いずれにしても、足跡の深さだけでは何の証明にもならないことは確かだった。加えて、柚野の足跡で、遺体周辺は酷く踏み荒らされている。
「ごめんなさい、野津、えっと」
戸塚は野津元をまっすぐ見ている。
「野津元です。なんでしょうか?」
野津元は、戸塚のただならぬ雰囲気に、音を立てて唾液を飲み込んだ。
「最初に言っておくけど、瀧は自殺じゃない。私たちはここで、他殺の、犯行の証拠を探す」
これまで数時間掛けて現場を調べ、他殺の可能性を示すものは何も見つかっていないというのに、戸塚の口から出た言葉は、それが真実であるという揺るぎない自信を備えていた。
「証拠って、具体的に何かあるんですか? 犯人の遺留品か何か」
野津元は不信感を隠すことなく返した。
「いいえ。手掛かりになりそうな何かを探す。何が何でも」
当てのない話に、野津元は深く息を吐きながらも頷いた。
「分かりました。何も出ないとは思いますけど」
野津元がそう言った後の、僅かな表情の変化を戸塚は見逃さなかった。野津元は何かを言おうとして止めている。
「何か気になることでも?」
戸塚にそう迫られても、野津元は言うべきか考えていた。
「言いにくいこと?」
再度戸塚に催促され、野津元は首を横に振った。
「そういうわけではありません。大したことじゃないんで、伝えるほどのことでもないかと」
野津元の言葉に、川島が大袈裟に溜息を吐いた。
「大したことないかどうかは、今ここで君が決めることじゃない」
先輩面でそう話した川島を戸塚がひと睨みした。川島自身もつい最近まで言われていたことだ。
「いや、鑑識の先輩にも、警部補にも報告、というか、見てもらったんですよ。瀧がリンドウを踏んだ跡があったんで」
その発言に、戸塚と川島は顔を見合わせた。
「瀧がリンドーを踏む? どういう意味?」
「あ、リンドーエンジニアリングのリンドーじゃないですよ。リンドウ。正確にはハルリンドウです。花ですよ。青い花弁が向こうの足跡に」
野津元はそう言って車道側へ移動を始めた。戸塚と川島も野津元の後を追って歩くが、その先に花が咲いている様子はない。野津元が足を止めたのは、車まで三メートル程に近づいた場所だった。
「この辺りだったんですけどね」
野津元が「どこだったかな」と呟きながら見ている場所周辺にも、花の姿は全くない。
「ハルリンドウって、そんなに小さな花なの?」
訊ねた戸塚に、野津元は首を横に振った。
「いいえ。いや、まあ、小さいことは小さいんですけど、ここに咲いていた花を踏んでいるわけじゃないんです。擦り切れた花弁が残っていただけなんで。多分、ここに来る前に踏んで靴に残っていたのが、この場所で剥がれたんだと。あっ、ありました。採取します?」
野津元は頷いた戸塚に頷き返し、約一センチ四方の花弁をピンセットで慎重に摘み上げ、ビニール袋に入れた。
「しかし、よくそれだけで何の花か分かったね」
川島が心の底から感心して野津元に言うと、野津元は相好を崩した。
「元々植物が好きだってのも、もちろんあるんです。『リンドーエンジニアリング』って社名を聞いた時も、すぐに花の名前からとったんだなって思いましたし。それもあって、最近リンドウを調べていたので」
「社名を花から?」
初めて聞いた話に、戸塚も首を捻った。リンドーエンジニアリングのサイトを始め、これまで見た情報のどこにもそのようなことは書かれていなかった。
「そうですよ。えっと、どこで聞いたっけな。多分親族からの話の中であったと思います。捜査会議の時に耳にしたのは間違いないです。それだけに、瀧の足跡に花弁があったのが気になって。人生のシンボルに近い花を踏みつけるなんて、何かしらの意思が働いていたんじゃないかって思ったんですよ。警部補に報告したときは、自殺に向かう精神状態を表しているんじゃないかって話したんですけど。また違う理由があるんでしょうね、きっと」
「野津元君は良い鑑識官になる、いいえ、もう良い鑑識官だね。野津元君を残してくれた本郷さんにも感謝しないと」
経緯を聞き終えた戸塚は、労うように野津元の肩を叩いた。
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