第4話

「戸塚さんも幸せそうな顔してるじゃないですか」

 川島が、カウンター席の隣に座る戸塚をそう言ってからかった。

「そりゃあね、美味しいもの食べたらそうなるでしょ」

 戸塚の目の前で、黒い角皿に並んだ馬刺しが赤く輝いている。川島と戸塚は、比嘉が川島に渡した住所にあった小料理屋馬乃坊うまのぼうに来ていた。熊本県警本部から歩いて十数分の距離にあるその店で、瀧の失踪を担当している本郷が来るのを待っていた。

「喜んで頂けて嬉しいわ」

 和服姿の女将が、そう言って上品に笑った。

「女将さん、本当に警部と同級生なんですか? どう見ても警部より十歳は若く見えますけど」

 お世辞でもなくそう言ったのは戸塚だ。その言葉に、女将は再び目尻を下げた。笑うと三日月形になる目とかたえくぼが作る可愛らしさは、普段女であることを意識しない戸塚にとっても羨ましかった。

「修ちゃん、そんなに老け込んでるの?」

 女将の「修ちゃん」という言い方に、川島と戸塚は目を合わせて笑いを堪えた。女将の横で包丁を握る大将も、苦笑している。やはり比嘉と高校時代の同級生だった大将は、五十を過ぎて「ちゃん」付けで呼ばれる居心地の悪さが分かるのだろう。大将は話を事件の方へ向けた。

 瀧の失踪後、リンドーエンジニアリングの専務である紀藤きとうと、紀藤の元の職場で同僚だった行員の津田つだがこの店に来ていたらしい。比嘉は初めからそのことを聞いていて、川島にこの店を紹介していた。

「元々行員時代からの常連なんだけどね、紀藤さんたちは。失踪した瀧さんって人は見たことないけど」

 大将が鯖の刺身を二人の前に出しながら話した。他に客もなく、遠慮なく話している。

「はっきり訊いちゃいますけど、紀藤専務が瀧さんを、なんてことは?」

 相手が比嘉の友人ということもあって、川島は単刀直入に訊いた。

 二人が熊本に着く前に、ふたつの事実が判明していた。ひとつ目は、小平にかかってきた電話はIP通話サービスからの着信だということ。だが、プリペイドカードを利用して発信した相手の特定は簡単ではない。ふたつ目は、小平を襲ったレンタカーを借りに来たのが女だったということ。

 その車を借りた人物は、偽造された国際免許証を使っている。瀧はこれまで一度も運転免許を取得した記録がないが、瀧が女を使って車を借りたとも考えられる。

「あり得ないなー、それは。そんな人じゃないってのは刑事さんたちにしちゃ、理由にならんでしょうけど」

 大将の言葉を聞いて、戸塚は川島に向かって「ほらね」と呟いた。川島は連絡を受けた新幹線の中で、紀藤が瀧に罪を着せようとしていると考えていたが、戸塚は紀藤と電話で話して、瀧の失踪には無関係だと確信していた。

「じゃあ、津田さんって人は?」

「もっとないだろうね。仕事の話は終始聞き役だし。瀧さんとは面識もないんじゃないかな」

 川島は唸りながら鯖に箸を伸ばした。

「それじゃあ、やっぱり瀧が運転していたんでしょうね。免許がないからこそ偽造免許を使って」

 戸塚は川島の考えに不満の色を隠さず、箸の先で鯖をつつきながら独り言を小さく連ねている。

「戸塚さん、行儀悪いですよ」

 川島たしなめられて、箸置きに箸を寝かせた戸塚が川島を睨んだ。

「回りくどい上に確実じゃない。免許を持っていない人間が、わざわざ車で跳ね飛ばすなんて方法を選ぶ? 女を使って襲わせたにしたって、ナンバープレートと窓を新聞紙で覆うって方法も、ある程度運転の経験がないと選ばないと思うけど。もちろん、そう思わせたくて車という道具を選んだって可能性もなくはないけど、そこまで用心深いのなら、私たちの目の前で襲うなんてあり得ない」

「こんなこと言ったらキリがないと思いますけど、それも考えに入っていたとしたら?」

「そこまで人の考えが読めるんなら、そもそも殺人なんかしない」

 言い切った戸塚に向けて不満げな視線を送っていた川島の考えていることは、戸塚にもよく分かっていた。「何事も決めつけるな」と言いたいのだ。

「それじゃあ、小平を襲ったのが瀧でも、リンドーエンジニアリングの他の誰かでもないとしたら、いったい誰です? 瀧の名前で小平を呼び出したのなら、少なくとも瀧が国東と関わっていたと知る人物でしょう? だけど、紀藤専務の話を信じれば、リンドーエンジニアリング側の人間は、ケイブンって会社すら知らない。ケイブン側の社員は全員オフィスにいましたし」

 熊本という事件現場から遠く離れた場所で、事件の真相を考えていた二人に、思わぬ展開を知らせたのは比嘉からの一本の電話だった。

「私だが、まだ馬乃坊か?」

「ええ、そうですけど、何かありました?」

 電話を受けた川島の顔を戸塚が覗き込んでいる。

「ちょっと外に出てくれ。一人でだ」

 思わぬ比嘉の言葉に、川島は一瞬目が合った戸塚から視線を外し、そのまま立ち上がった。

「戸塚さんは待っててください」

 ついて来ようとした戸塚を手で制し、川島は比嘉に言われるまま外に出た。

「外に出ました」

 戸塚が近くにいないことを再度確認した後に比嘉が紡ぎ始めた言葉は、旨い料理に浮かれた川島の心を沈ませるに充分な内容だった。

「小平を跳ねたという女が自首してきた。松本美知留みちる三十六歳。瀧を名乗る男に頼まれたと話している。だが、殺す気はなかったようだ。軽く脅かすつもりだったのが、警察に静止を呼びかけられて軽いパニック状態になったらしい」

 その話を聞いた川島に、言葉にしていない比嘉の抱えた心配が伝わってきた。

「どうやって戸塚さんに伝えたらいいんですか?」

 小平の事件が裁判になれば、焦点は必ず殺意の有無になる。計画的に練られた襲撃に、明らかな殺意が認められれば十年以上の懲役は免れない。だが、松本の言う通り、戸塚の呼びかけによってパニックになったと認められれば、傷害致死となり刑期も短くなる。

「最悪、過失致死になるってことは?」

 過失致死、すなわち、傷つける意思がなく事故によって跳ねたとなれば、より戸塚の対応に焦点が向く。

「さすがにそれはないだろう。あれだけの準備をしていたんだ。だが、法律上お前たちの対応に問題がなかったと認められても、マスコミはどう書き立てるか分からん。お前ももう新人じゃない。監察のやり方は知っているだろう」

「はい」

 事実がどうであっても関係ない。事態を収拾するのに戸塚を切り捨てねばならない状況になれば、それを実行させるのが監察の仕事だ。組織の為に犠牲になる個人が、組織を抜けた後に仇とならないと判断されれば、容赦なく首を切る。

「俺は、どうしたらいいですか?」

 何かしらの指示があるからこそ、比嘉は自分を外に出したに違いないと川島は踏んでいた。そして、それは間違いではなかった。

「何としても瀧を捜し出せ」

「警部は、瀧がこちらにいると?」

「まず間違いない。ただ、生きているのか、死んでいるのか。瀧がわざわざ本名を名乗って松本を使ったとは思えん」

「死んでいた場合は、その原因を突き止めて。もし殺されていたとしたら、そのホシを上げれば何とかなりますか?」

 川島の問いかけに、比嘉は即答できなかった。その一秒にも満たないで、川島は状況の厳しさを痛感した。

「こちらも最善を尽くす。小平の件、戸塚にどう話すかはお前に任せる。戸塚のことは、お前の方がよく分かっているだろうからな」

「それはそんなこと、いえ、了解しました」

 川島は、嘘が顔に出る方ではないと思ってはいたが、相手が戸塚だと自信がなかった。相手は人の心を読むプロだ。

「課長がお呼びだ。そっちのことはしっかり頼むぞ」

「はい」

 そう返事はしたものの、川島はどうすればいいのか何も考えが浮かんでこなかった。

「どうすっかな」

 店の中からは女将の笑い声が聞こえる。

「結局正面から行くしかないか」

 川島は、やや冷えてきた空気を二度深呼吸して肺の深くに入れ、「よし」と呟いて扉に手をかけた。扉を開けてすぐ川島が戸塚の方を見ると、戸塚も川島を見ていた。

 戸塚の射るような視線が川島を捉えている。川島はそれを正面から受け止めるしかなかった。

「話しなさいよ」

 川島には話しにくい何かがあると、戸塚は瞬時に悟っていた。だが、川島も話す決心が鈍ったわけではない。この状況で話すような内容ではないというだけだ。

「ちょっとすみません」

 川島は、戸塚ではなくカウンターの向こうの二人に断りを入れて、戸塚と二人で店の外に出た。

「警部からの電話のこと?」

「ゆっくり話す時間はないんで、要点だけ言います。まず、その質問の答えはイエスです」

 無言で川島を見つめる戸塚に、川島は言葉を続けた。

「松本という女が小平を車で襲ったと自首してきたそうです。瀧と名乗る男に頼まれてやったと話して。ただその女は、小平を脅すだけのつもりだった。でも、そこに俺たちが現れて動転した、と」

 戸塚にはその説明だけで充分だったようだ。それどころか、川島の予想を超えた答えを瞬時に出した。だが、戸塚はそれを口にすることなく、ただ川島に頷いた。

「分かった。急がなきゃ」

「急ぐって、何をです?」

「事件の解決。決まってるじゃない」

 言い切った戸塚の視線が、川島の背後に向いた。その視線につられて川島が振り向くと、熊本県警の本郷が二人に向かって手を上げて歩いてきていた。


 その頃、比嘉のもとに一通のメールが届いた。発信者は、小平から譲り受けた資料の解析を依頼していた一般企業に勤める開発者だ。

「脇坂、これどう思う?」

 比嘉はメールが表示されているノートパソコンをデスクの上で向きを変え、脇坂に見せた。

「光学モーションキャプチャを利用したロボット遠隔操作システム。何です、これ? ちょっと調べてみますか」

 そう言って自分のスマートフォンを取り出した脇坂を、比嘉は「いや、いい」と手のひらを向けて制した。

「メールの最後に、ご丁寧にいくつかリンクを用意してくれている。もう開いているから、それも見てくれ」

 比嘉の言う通り、ブラウザのウインドウが複数のタブをぶら下げて立ち上がっていた。

 光学モーションキャプチャは、複数のカメラで対象の動きを捉え、運動の向き、距離、速度を読み取るシステムだ。そのデータをリアルタイムでロボットに伝達することで、ロボットに同じ動きをさせることができる。

 全てのページに目を通した脇坂は、最初に投げられた質問の回答に窮した。

「この仕組みを利用したシステム、国東と瀧が内密に開発していたんでしょう? それを操作して犯行に使ったとなれば、それなりに開発にも携わっていなければ無理です。瀧で決まりじゃないですか?」

「だがその瀧は、犯行時はおろか、この数か月間九州から出た形跡がない」

 瀧の足取りについては、捜査の目が瀧に向かう以前に、熊本県警がある程度調べていた。

「だからこその遠隔操作では?」

「シートとロボットはどこに消えた? 殺害にしても、遠隔操作のロボットで格闘の末に殺害できるとは思えん。確かに最先端の技術をつぎ込めば、あるいは可能かもしれんが、国東も瀧も、その道のトップとは言えんだろう」

「そうですね、確かに。遺体を切断する意味も分かりませんし。参りましたね。何故小平が最期に瀧の名前を出したのかも分からないってのに」

「何もかもしっくりとしない。根本的に間違えているのかもしれんな」

「根本的に、ですか」

 比嘉は壁に掛けられている時計に目をやった。午後十一時五分。時間だけが容赦なく過ぎ去ってゆく。

「松本はしゃべらないままだろうな」

 小平を襲ったと自首した松本は、自分の言いたいことだけを言って以降、刑事からの質問には口を閉ざしていた。


 日付が変わっても、瀧の足取りは全く掴めなかった。しかし、失踪直後に動かなかった熊本県警を責めることはできない。予算的にも人員的にも限りがある中で、瀧の捜索に時間を費やすわけにはいかないのだ。

「それにしたって、もう少し調べていてくれれば」

 愚痴を零しても仕方がないと分かっていながら、川島はそう口にしなくては気が済まなかった。

「それでも見つけ出さなきゃ」

 川島と戸塚の二人は、本郷から仕入れた情報を基に、瀧の自宅近くのバス停に居た。

 瀧を最後に見たのは瀧の妻だ。バスで通勤する瀧は、失踪当日もいつも通り朝七時半に自宅を出て、百五十メートル離れたバス停まで歩いて向かった。

 瀧が姿を消したのは、国東が死亡した三月十七日の朝。

 川島と戸塚が、瀧の出勤時間に合わせて、瀧の自宅とバス停との間で聞き込みを繰り返す中、瀧を見かけた、あるいは話をしたという人物が複数居た。だが、いずれの証言も失踪前の話で、失踪した当日、また、それ以降には誰も瀧を見ておらず、失踪前も不自然な様子はなかったと答えていた。

「やっぱりバスには乗ってなさそうね」

「ですね」

 川島が腕時計に視線を落として戸塚に同意した。時計の針は八時を回っている。

 熊本県警もバスに乗車する前に姿を消したと考えたようで、熊本市内のタクシー会社の記録は既に調べられていたが、そちらも成果を上げられてはいない。

 瀧の携帯電話の信号は、自宅から基地局を変えることなく消えていた。自宅を出てすぐ、もしくは、自宅を出る前から電源を切っていたと見られている。誰かが連れ去ったとしたら、あまりにも手際が良い。

「水前寺公園に行きますか?」

 水前寺公園は、瀧が昼食後によく散歩していたという公園だ。十八日以降の目撃証言を得られる可能性は低いが、それ以前の様子は何か掴めるかもしれない。

「そうだね」

 曇った表情でそう答えた戸塚に、川島は嘆息した。比嘉からの電話の件を話して以降、戸塚にいつもの元気がない。だが、そんな戸塚に対して、川島には掛けるべき言葉が見つからなかった。

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