第3話

 トップが突然の死で入れ替わっても、会社は死なない。天井に国東の血を残したオフィスからは移転したものの、ケイブンはこれまで通りの事業を進めていた。

 ケイブンが主に取り扱っていたサービスは、安否確認だ。東日本大震災以降に急成長している分野で、ケイブンはトップシェアを維持し続けている。

 これまでの主力製品は、心音も確認できるセンサー付き介護ベッドと、異常を知らせる通信システムとのセットだ。比較的安価でありながら高い信頼性で、医療機関へも広く導入されている。

 川島が走らせる覆面パトカーは、霞が関から西進してケイブンの新オフィスがある西麻布へと向かっていた。

「母親からは何か新しい話が聞けた?」

 日中でも薄暗い谷町ジャンクション下の信号で停車すると、戸塚が川島に訊ねた。

「残念ながら何も。見る度に衰弱しているのが目に見えて、辛いですよ。俺の両親はまだまだ若いって思ってた、というか、実際まだ若いけど。いろいろ考えさせられちゃって」

「そっか。『あの子が人に恨まれるようなことをするはずがない』ってだけ?」

「ですね。でも、競争の激しい世界でしょう? 恨まれないとしても、妬みや逆恨みってこともあるからと言っても、返ってくるのは同じ答えだけですから」

 ここまで国東の交友関係を調べた限り、母親の言う通りだった。生活に派手さもなく、堅実な暮らしは他人に妬まれるような要素も見当たらない。

「個人的な恨みじゃないとしたら、やっぱり仕事上の利害関係。だとしたら、これから聞く話が重要になるよ」

「ええ。承知してますよ」

 信号が青になり、車が走り出す。この流れる景色の中のどこかで、殺人者は迫りくる捜査の手に怯えているのだろうか。あるいは、捕まえられないと高を括ってほくそ笑んでいるのだろうか。握りしめられた戸塚の手は、ケイブンのオフィスに着いた頃には血の気を失い、白くなっていた。

「どっちが行きます?」

「最初は私が。担当者が出てきたら川島君に任せる」

「良いんですか?」

「その方が相手の仕草に集中できるから」

 車内で簡単に打ち合わせを済ませると、二人は腹に一度力を込めてオフィスへと向かった。

 昨年度十億円を超える売上を記録した企業とは思えない小さなオフィス。国東が殺害された旧オフィスも決して広くはなかったが、現在のオフィスは二十坪程度の部屋に、デスクが四つ並ぶだけだ。

 その四つのデスクに座っている従業員は、全員三十歳前後の男性だ。

「お忙しいところ恐縮です」

 カウンター越しに戸塚が一番近くのデスクに座る従業員に声を掛けた。二人がバッジを見せる前に客が何者なのか察したのか、男は自ら対応せずに「代表」と斜め向かいに座る男に声を掛けた。

 その男が、キーボードを叩いていた手を止めてカウンターに目を向けると、警視庁と書かれたバッジを提示している男女が目に入った。

 その瞬間の様子を注視していた戸塚は、男の表情の変化に対し、自身は無表情を貫いた。

 国東の死によって、一番の恩恵を受けているのは新代表の小平こだいら恵三けいぞうだろう。その小平が立ち上がり、パーティションで区切られただけの、簡素な応接室へと二人を案内した。

「何か進展がありましたか?」

 事件から三週間が経過しているというのに目立った進展が見られない捜査に対し、侮蔑を含んだ笑みを浮かべてそう口にした小平に、川島もまた表情を変えずに首を横に振った。

「なかなか難しい事件でして。申し訳ないですが、ご報告できることは何も。そこで、お忙しいとは存じますが、是非ともご協力願いたく参ったわけです」

 逮捕するまではどんなに疑わしい相手であっても、質問を受ける容疑者の方が立場は上なのだと思わせること。川島は比嘉から教わったことを実践した。丁重に、相手の反応を見ながら質問を繰り出す。高圧的に返されても、それを跳ね返さず吸収する。

「忙しい、というのを理解して頂いているようで良かったです。何度も言っていますが、国東さんを殺したいと思ってた相手なんて、誰一人思い浮かびませんよ」

 予想通りの言葉が出てきたが、川島は「そうですか」と落胆して見せて、本題を突き付けた。「忙しい」という相手に対して、前置きを長く取る時間はない。

「何か、完成間近の新製品、なんていうものはありませんか? いや、業務上のことで、詳しくお話しできないのは重々承知しています。例えば、他社に狙われていそうな」

 刑事相手とはいえ、発表前の製品について話せることなどないだろう。ただ「新製品」という言葉に対する反応を見せてもらえればいい。そう考えての質問だったが、川島と戸塚の思惑は、小平に対してその意味をなさなかった。

「国東さんが開発中のサービスなら製品化も近かったみたいですね。ちょっと待ってください」

 新製品に対しては何も話さないと予想していた二人の前に、いったん応接室を出た小平が、バインダー三冊分の資料を無造作に置いた。

「私はそれを製品化するつもりはありませんから、好きに使ってください。ほとんど国東さんが、自分のため、というか、母親のためだけに作っていたようなものです」

 川島は「拝見します」と資料を手に取ったが、開発用の資料は数値等のデータが主で、何を作ろうとしていたのかさえ理解できなかった。

「あの、これは一体?」

「何を作っていたのかは誰も知りませんよ。設計図は国東さんの頭の中だけ。ま、ある程度想像はできますけど」

「その想像で構いません。国東さんは何を作られていたんでしょうか?」

 小平は、自分の鼻の頭を掻いて話し出した。

「介護スーツ、あるいはパワードスーツとか強化外骨格、なんてものは知ってます?」

 小平の言葉に川島は頷いた。介護する者の身体的負担を軽減するために開発された、人間の体に装着する器具だ。それを装着すれば、要介護者をベッド移動させる際にも、わずかな力で済む。

「何度かテレビで見たこともありますが。それを開発していたんですか?」

「実際のところは分かりませんけど。私たちの専門は通信の方にあるんです。なので、機械的な部分は外部に発注することが多いんですよ。国東さん宛てに、介護スーツを多く開発している業者から電話が頻繁にあったので、そう推測しただけです」

「その電話の相手、教えて頂くことは」

 可能でしょうか、と川島が最後まで言い終える前に、小平は川島が持つバインダーを取り上げ、開いていた資料に素早く文字を書き込んだ。

「この会社です。主にたきさんという方からの電話が多かったですね」

 小平は文字を書き加えたバインダーを再度川島へと渡し、自身が書き込んだ部分を指し示した。そこにはデータ測定者として書かれている「リンドーエンジニアリング」という社名にアンダーラインが引かれ、その下には「瀧」と一文字書かれていた。

「どうもありがとうございます」

 川島は小平へ礼を言って、戸塚の顔を窺った。戸塚は表情を変えず、小さく頷いた。

「本当にお忙しい中ありがとうございました。また伺うこともあるかもしれませんが」

「いつでもどうぞ、とお答えしたいところですが、ま、電話かメールで済むことならそれで。犯人逮捕の報告とかも、メールで構いませんから」

 嫌味たっぷりに返された言葉にも、川島と戸塚は表情を変えずに、ただ頭を下げてオフィスを去った。

 エレベーターに乗り、表情が崩れ始めた川島に、「まだだよ」と戸塚が小声で制する。その戸塚がエレベーターを降り、一歩ビルを出た瞬間に盛大な溜息を吐いた。

「社長が殺されてるんだよ? なんなの、アレ?」

 まるで自分が責められているような視線を向けられ、川島は頭を掻いた。

「確かに、他人事っていう感じでしたよね。でも、俺に『なんなの』って言われても困りますよ。で、どんな印象でした?」

 川島に正論を返され再び嘆息した戸塚は、施錠されている助手席のドアハンドルをガチャガチャと鳴らした。「今開けますから」という川島は、戸塚の様子に苦笑するしかない。

「真っ白じゃない。でも黒とも言い切れない。何かあるのは間違いなさそう」

「それだけなら俺にでも言えますよ」

 それぞれの座席に座り、シートベルトを引きながら、戸塚と川島は前に視線を向けたまま言葉を吐き出した。

「忙しいから、というか、刑事なんかに仕事の邪魔をされたくないって感じだった。自分は事件とは無関係。国東の開発していた製品とも無関係。それどころか、完全に国東を過去の人間扱い。心の底からそう思ってた感じ」

 言いながら戸塚が、右手の手のひらを上に、川島の方に差し出した。その手の上に乗せるものはひとつしかない。小平から渡された資料だ。それが分かっていながら、川島は自身の左手をその手に置いた。

「死にたい?」

 戸塚の鋭い視線が川島を射る。

「その言葉とこの場面だけ見たら、心中しようとしているカップル、っと、冗談ですよ。少しイラついてたみたいなんで」

 戸塚の握りしめられた左のこぶしを見て、川島は手をどかせた。

「別に、イラついてなんか」

 そう言いながら、深呼吸をして平静を取り戻そうとする戸塚を確認して、川島は資料を開いて渡し、エンジンをスタートさせた。

「どうします? すぐ向かってみますか?」

 戸塚は綴じられているファイルに視線を落とし、頷いた。

「リンドーエンジニアリング。どこかで聞いた会社名。とりあえず場所を検索してみる」

 戸塚が頷いたことで、とりあえず駐車場から車を出そうとした川島の左腕を、戸塚が掴んだ。

「待って! この会社」

「なんですか、脅かさないでくださいよ。ウォッシャー液が出てきたじゃないですか」

 川島の不満と、動くワイパーを無視して、戸塚は川島の目の前にスマートフォンの画面を突き付けた。だが、川島の鼻にぶつかりそうなほど近づけられた画面の文字など読めるはずもなく、川島はただ顔をしかめた。

「先週ベンチャー企業の社長が失踪したってニュース、あったでしょ?」

「ああ、確か熊本だったか鹿児島だったか」

「熊本。で、その会社がリンドーエンジニアリング。社長の名前が瀧おさむ

「となれば、これから車で向かうって距離じゃないですね。本庁に戻らないと。それにしても、どうして今までこのことを小平は黙っていたんでしょうか?」

「訊かれなかったから。ってとこじゃない? 小平は情が薄い反面、人を恨んだり憎んだりってことも少ない。自分は人よりも優れていると思ってる。だから他人にはあまり興味を持たない。最初から見下してるのよ」

 また苛立ちをあらわにしてそう話す戸塚を見て、川島はその原因が想像できた。過去にそういう男で失敗したに違いない。

「何よ?」

「何でもありません。車、出しますよ」

 今は余計なことを考えている場合ではない。川島は表情を引き締めてステアリングを握った。発進の後方確認でルームミラーへ視線を動かした川島は、眉間に皴を掘って上体を助手席側に捻ると、目視で後方を見た。

「戸塚さん、小平が出てきました」

 川島は戸塚にそう告げながらも、小平から目を離さない。戸塚は視線を直接後方に向けて、小平の動きを見た。

「なんだか、慌ててるみたい。さっきまでの落ち着いた感じじゃないよね。ちょっと追ってみる?」

 戸塚が人差し指を前に出して、くるくると回した。川島は頷いて、車を少し前方に見える月極駐車場へ向かって動かした。道路は車二台が辛うじてすれ違える程度の幅しかない。その駐車場でUターンをするつもりだ。

 だが、ルームミラーで小平の様子を確認しながら進む川島は、突然目の前に現れた車に急ブレーキを踏んだ。

「んだよ、危ないなぁ」

 川島が入ろうとしていた駐車場から出てきたその車の運転席を、川島は怒りの表情を露わに睨みつけたが、窓には新聞紙が貼り付けられていて、運転手の姿を見ることは叶わなかった。

「マズいっ!」

 あからさまに怪しいその車は、ナンバープレートにも新聞紙が貼り付けられていた。

 戸塚が赤色灯を出し、サイレンを鳴らすと同時に、マイクを握り停止を呼びかける。だが、戸塚はこれほどまでに呼びかけが無駄だと感じることはなかった。

 ナンバーを隠した白いコンパクトカーは、背後からのサイレンと叫びを追い風にしているかのように速度を上げている。

「停まりなさい!」

 戸塚の叫びに反応して制止したのは、走り去る車ではなく、その前を歩く小平だった。

 足を止め振り向いた小平は、自分に車が接近していると察知したと同時に、宙へと飛ばされた。

 低いボンネットにすくい上げられた小平が、回転しながら落下し、頭からアスファルトへと叩きつけられた。

 川島はその小平の横に車を停止させると、本庁へ無線で状況を知らせた。戸塚は助手席から飛び降り、スピーカーにした携帯を地面に置き、救急車を手配しながら小平の様子を確認した。

 落下の直前は意識があったのか、小平の両腕は頭を守ろうとしたようだ。落下の衝撃で左肩はいびつに盛り上がっていた。最初に車に衝突した両足も、関節ではない箇所で曲がっている。

「もしもし、聞こえますか?」

 戸塚が小平の右肩を叩きながら、耳元でそう呼び掛けて意識の確認をした。三回目の呼びかけで、小平は呼吸を詰まらせながらも、呻き声で呼びかけに返した。

「大丈夫ですか? お名前は言えますか?」

「うっ、……うう……」

 言葉にはなっていないが、明らかに戸塚の声には反応している。戸塚はもう一度「お名前は?」と質問を繰り返した。

「た……、た、き……」

「え?」

 小平は、それまで閉じていた両目を見開き、自分の肩に置かれた戸塚の手首を握りしめた。だが、その力は赤子が母親の指を握りしめる力よりも弱い。湿った咳を繰り返す小平は、呼吸をするのに残された全ての力を振り絞っているようだ。

「リンドー……の……瀧」

 戸塚を掴んでいた小平の手が、地面へと力なく落ちてゆく。目は開かれたままで、光が失われていた。

「小平さん! 聞こえますか? 小平さん!」

 小平の呼吸は止まり、戸塚の呼びかけにも完全に反応しなくなった。スピーカーで通話状態になったままの携帯電話から心臓マッサージの指示が出るより早く、戸塚の両手は小平の胸を規則正しく圧迫していた。

 十分後に救急車と三台のパトカーが到着したときには、休むことなくマッサージを続けた戸塚の顔を、大粒の汗が流れていた。

「小平を襲った車は、青山通りの手前で乗り捨てられたようです」

 肩で息をする戸塚に、川島が声を掛けた。

「警部は何て?」

 戸塚の目は、サイレンを鳴らして走り去る救急車のテールランプに向いている。

「『ケイブンのオフィス近くで、車に細工をして待機していたということは、こちらが接触したのが引き金じゃない』と。だから、そんなに責任を感じなくても……」

「リンドーエンジニアリングの瀧」

「何ですか?」

 首をかしげる川島を下から見上げ、戸塚は一度唇をかんだ。

「小平の意識を確認したとき、彼がそう言った。彼自身の名前を訊いたら、リンドーの瀧って」

「小平を襲ったのが瀧だってことですか?」

「どうだろう。そうかもしれないとも思うけど、小平が瀧の顔を知っていたかも疑問だし、知っていたとしても」

「そうか。振り向いた瞬間だったですからね。運転していたのが誰か認識できなかったでしょう。だとすると、外に呼び出したのが瀧?」

 戸塚は川島の最後の言葉には考えを述べず、その足をケイブンに向けた。川島からの「俺は待機してますから」という声に手を上げて返すと、速度を速めた。

 待機していた川島のもとに、小平の受け入れ先の病院が知らされたのと、戸塚が戻ってきたのはほぼ同時だった。

「小平は、自分の携帯にかかってきた電話を受けてオフィスを出たって」

 助手席に座りながら戸塚が報告すると、川島は所轄の警官に後を任せて、すぐに車を発進させた。

「小平が搬送された病院に向かいます。警部に報告を」

 戸塚は川島に頷いて比嘉へ報告すると、そのまま次の相手にダイヤルを押した。


 病院へと向かう車内で、リンドーエンジニアリングへと電話をかけていた戸塚の表情は、言葉を発する毎に険しさを増していた。

「お手数をお掛けして申し訳ありませんでした」

 電話の相手にそう話す戸塚は、本人は意識していないだろうが小さくお辞儀している。そして通話を終了した瞬間、大きく嘆息して頭をヘッドレストに押し付けた。

「リンドーエンジニアリングの専務は、国東の事件のことも、ケイブンのことも知らないって」

「隠してるって感じじゃなかったんですよね?」

「それは間違いないと思う。元々銀行からの出向で来ていた専務で、技術的なことは不得手だって本人が言ってたし、瀧も国東と同じだったみたい。ケイブンの新製品は、瀧が個人的に手を貸していたんじゃないかって」

「機械とかコンピュータを相手に仕事してると、誰でもそんな感じになるんでしょうかね」

 川島のその言葉に戸塚が返答しなかったのは、戸塚も同じことを考えていたからだ。そして、簡単に「そういうものかもしれない」とは答えたくないという思いがあった。人間はそんなに冷たい生き物じゃないはずだ、と。

 刑事という職業を続けていると、人間がいかに感情の塊であるかを思い知らされる。だが今回の事件は、その人間らしい感情を見出すことができずにいた。それは戸塚と川島に限らず、事件の捜査にかかわった全ての捜査員が感じていたことだ。

「死なないでよ」

 流れる景色に向けて呟いた戸塚の願いは、天に届くことなく都会の喧騒に埋もれた。


 病院に到着し、緊急処置室への入室があっさりと了承された瞬間、戸塚と川島は小平の死を悟った。

「脳を含め複数の内臓へのダメージ、中でも腎臓へのダメージが大きい。骨折の数は後で纏めますが、背骨も数か所で折れています。助かっていたとしても、植物状態になっていた可能性が高いですね」

 二人の出したバッジを見て、医師の一人が血で汚れたグローブを外しながらそう説明した。その説明を聞きながら、戸塚の目は処置台の横に置かれたトレーに向けられていた。処置の為に切り裂かれた服の上に、小平のスマートフォンが置かれている。

「どうぞ」

 戸塚が断りを入れる前に、その医師は戸塚の狙いが分かったようだ。

「すみません」

 医師にそう詫びるのもおかしな話だと思いながら、戸塚は小平のスマートフォンを手に取り、二度と自分の力では動かなくなった戸塚の指を取った。その指をスマートフォンのボタンに押し当てると、ホーム画面が表示された。

「どうです?」

 川島の問いかけに、戸塚は首を横に振った。

「おかしいな。あの時間に電話の着信はない。メールも怪しいものはないみたい。業界のメールマガジンばかり」

「でも、確かに他の従業員が電話を受けているのを見ていたんでしょう?」

 戸塚は嘆息の後、スマートフォンを元の位置に戻した。衣服も併せて、鑑識が引き取りに来るはずだ。

「川島君、本庁に戻る前に現場に寄って」

「現場ですか? 今俺たちが戻っても邪魔なんじゃ」

「そっちじゃなくて、浜松町の」

「国東の殺害現場に? 今更行っても何もないですよ」

「分かってるけど、私は一度も現地を見てないから。さ、早く」

 急かす戸塚に川島は口を尖らせながらも従った。

 ビルの管理人立会いで訪れた現場は、既にそこが殺人事件の現場であったと思わせるものは何もなかった。ケイブン所有のデスクやOA機器は当然全て運び出され、血痕が付いた天井板も全て張り替えられている。

「私もずっと居た方が良いですか? できれば」

 長い時間居たくない。管理人がこの場所を離れたがるのは、仕事があるからではないだろう。死体の第一発見者は殺害翌日の朝に出社してきた小平だが、その小平から連絡を受けた管理人も凄惨な現場を目にしている。

「分かりました。では、用が済んだらまたお声を掛けさせてもらいます。良いですよね?」

 答えた川島は、最後に戸塚へ確認をし、戸塚がそれに頷くのを見ると、管理人はそそくさとその場を去った。

「あの現場を見たんじゃ仕方ないですよね。戸塚さんも実際に見てたら、また来たいなんて思わなかったかもしれませんよ」

 先に室内に入った戸塚は、何もない室内を見まわしていた。川島の言葉に反応はない。頭の中にある現場写真を、実際のオフィスの空間に描いているのだろう。時折目を閉じながら、細かく足を動かしていた。

「どうしてわざわざこの場所で殺したんだろ。どうしてこの場所で新製品のテストを?」

 戸塚の視線は天井に向いている。そこにはドーム型の防犯カメラがあった。

 川島は、戸塚の独り言だろうと黙って戸塚と同じものを見ていたが、次に戸塚が視線を送った先は、川島の目では鏡がなければ見ることができないものだった。

「俺に訊いてたんですか?」

「川島君以外に誰かいる?」

「ま、それはそうなんですけど。そうですね、ここで殺した理由は分かりませんけど、テストについては必要なものがここにあったからじゃないんですか?」

 戸塚は川島の目を見たまま、一歩川島に近づいた。

「そう、それかも。そもそもここで殺すつもりなんてなかったとしたら?」

「まさか、突発的に殺害したと? それはあり得ないですよ。これだけ証拠を残さないなんて、かなり用意周到に」

「あの死体と現場の状況を見たら、誰だって明らかな殺意を持って、計画的に殺人を犯したと考える。私もそう思ったし、それを疑ってもなかった。でも、ここに立ってみたら、何だか違う気がしてきたんだよね。上手く言えないけど」

 戸塚はそう言って、床を二度踏み鳴らした。

「勘、ですか?」

 川島は真剣な表情で、自身のつま先に視線を落とした戸塚に訊いた。

「そうとしか言えないかな、今のところは。よしっ、本庁に帰ろっ」

 顔を上げた戸塚は、川島の横を足早に通り過ぎざま彼の肩を叩き、出口に向かった。

「何もない部屋を見て、何が見えたんだか」

 川島は天井の防犯カメラに視線を向けて呟いた。その黒い表面に歪んで映る自分の小さな姿を犯人にのぞき込まれているような気がして、川島は鋭い視線を稼働していないカメラに残し、戸塚の後を追った。


 川島と戸塚が捜査一課に戻ると同時に、戸塚の携帯が震えた。

「おう、俺だ」

 その声は電話を通してのものではない。戻った戸塚と目が合った比嘉が、受話器を置きながらそう言うと同時に、戸塚の携帯も静まった。

「オフィスでの小平の様子はどうだった?」

「胡散臭さはありましたけど、冷静でした。私たちが帰るときも、そのまま仕事に戻るような感じでしたし」

 戸塚は自信を持ってそう答えた。比嘉の視線を送られた川島も「気になることは何も」と何度か頷きながら返していた。

「そうか」

 考える比嘉を前に、川島は周りを見渡している。脇坂は小平の携帯電話の通話記録調査に動き、他の捜査員も受話器を握っているか、外出する準備をしている。指示を待つのは、川島と隣に立つ戸塚の二人だけだ。川島は周囲を眺めつつ口を開いた。

「警部、リンドーエンジニアリングの瀧を見つけ出すのが最重要かと思いますが、どうします?」

「だろうな。お前たちで彼の行方を追ってくれ。とりあえず、熊本県警には瀧が重要参考人だと伝えておく。向こうに着く頃には、これまでの資料も纏まっているだろう。油圧システムの方はこっちに任せろ」

「向こうにって、一旦熊本へ行けってことですか?」

 そう確認した川島に不満の色はない。むしろ目を輝かせている。

「川島君、『旨い馬刺しが食べられる』って顔してる」

 呆れた顔で指摘した戸塚に、比嘉も苦笑している。

「そんなこと考えてませんよ。了解しました。すぐに準備します」

 川島が戸塚の視線から逃げるように準備を始めると、比嘉は再び川島を呼んだ。近寄ってくる川島に、手早くメモを記し、それを差し出した。

「食べ損ねた弁当の詫びだ」

 受け取った川島は、首を傾げた。広げたメモには、熊本市内の住所だけが書いてある。

「これは?」

「行けば分かる」

 比嘉の性格をよく知る川島は、心の中で「行かなくても分かる」と返して準備を再開した。

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