第2話
――該当製品なし。
ノートパソコンに自らが打ち込んで表示されたその文字に、戸塚は嘆息した。
人体を切断できるほど大型の油圧カッターの多くは、一般的に消防が使用するような救助現場で用いられることを想定しているらしい。そのような油圧カッターに、殺害現場で採取されたような、最低限の難燃性しか備えていない作動油は、まず使われないとの回答も、複数のメーカーから寄せられている。鑑識の資料にあった「その他多数」の中に、大型の油圧カッターは含まれないということだ。
戸塚はパソコンで纏めた書類をプリントアウトし、川島と共に被害者の母親のもとへ四度目の聞き込みに出掛けている比嘉のデスクに置いた。
国東の唯一の肉親である母は、寝たきりに近い状態だ。体調の良い時であっても、長時間の話はできない。そんな状態の母親を、ヘルパーを雇っているとはいえ自宅で介護しながら企業のトップとして働く国東に、個人的な恨みを持つ人物は浮かび上がっていない。
「油圧カッターのものじゃない。だとしたら何? あの現場で使われた油圧システム。何が考えられる? 殺害と遺棄に何が必要?」
再び自分のデスクに戻った戸塚が、モニターに現場の3Dモデルを映し出して独り言つ。
「順序だてて考えてみろよ」
戸塚の背後で脇坂が声をかけた。戸塚が上体だけを後ろに向けてそのアドバイスに反応した。
「順序だててって、犯人の行動をですか?」
「いや、被害者のだよ。犯人の行動だとか、動機だとかは考えるな。何の材料もないうちに考えたら正解が見えなくなる」
「って、警部が言ってましたね」
苦笑して返した戸塚に、脇坂も口角を上げて戸塚の横のデスクに腰を下ろした。
「実際犯人の性別も分かっていないからな。行動を読もうとしても無理がある」
「性別なら男でしょう?」
「だから、そういう思い込みや決めつけを辞めろと言ってるんだよ。警部が」
捜査に失敗や間違いはつきものだ。多くの失敗を経験している比嘉や脇坂の言葉に、戸塚は初めから逆らうつもりなどない。ただ、黙って従うことと、自分の意見を飲み込むこととは違う。比嘉班に配属されて、最初に比嘉から言われた言葉だ。
「じゃあ、脇坂さんはそういう目で追ってるんですよね?」
「いいや。まだその段階じゃないと思っている」
一旦パソコンの画面に向かいなおした戸塚は、脇坂のその返答に再び脇坂の方へ身体を向けた。
「えー、なんですか、それ」
「人には得手不得手ってのがあるんだよ。行動心理学は戸塚の専門だろう?」
「それはそうですけど」
ブツブツと小言を言いながらも資料とパソコンに向かう戸塚を見て、脇坂はその肩を叩き、自分の領分へと戻った。
被害者は普段停めている駐車場ではなく、より現場に近いコインパーキングに車を停めていた。ステーションワゴンの荷室からスーツケースを取り出して、三分後にはビルの正面扉から入っている。それから間もなくケイブンのオフィスに到着しているところを見ると、少なくとも駐車場からオフィスまで寄り道はしていない。
国東が手にしていたスーツケースは、彼の死体が発見された当時、国東のデスク横に置かれたままになっていたが、中身はいくつかの折れ曲がった書類と名刺が入っていた程度だった。買ったときに入っていたのであろう、袋の破れた除湿剤も入っていたところを見ると、几帳面とは言えない性格だったようだ。いずれにしてもスーツケースで運ばなければならないようなものは残されていなかった。
国東がオフィスに来た時には、間違いなく重量のある何かが入っている。それは、スーツケースを運ぶ様子を見れば明らかだった。重たいものを運んでいる演技をしていたと考えられなくもないだろうが、その可能性は限りなくゼロに近いだろう。
「その荷物を奪うのが目的で?」
知らず知らずのうちに犯行動機の推測に思考が向いた頭を、戸塚は激しく振って元の被害者の行動へ中身を入れ替えた。
「どうして防犯カメラを切断したの?」
パソコンの画面に向けて質問するが、当然答えは返ってこない。
見られては困ることをしようとしたのだろうが、女や金絡みではなさそうだった。
IT企業のトップといえば、医者や弁護士と並んで理想の結婚相手として挙げられる。だが、国東は生身の女に興味を示していなかった。極端に奥手なのだ。
会社の経営も順調で、個人的な借金もない。悪事を見られないように、という理由から防犯カメラを切断したわけではなさそうだ。
悪事ではなく、人に見られたくないもの。戸塚は国東の立場に立って考えた。
「新製品。それか、新サービスのテスト?」
あり得る。戸塚は頷き、当日の国東の行動を想像した。
オフィスに入り、防犯カメラを切断する。そして、運び込んだ荷物をスーツケースから出す。
「もしかして」
戸塚は現場に敷かれていたシートのことを考えていた。
「国東がシートを敷いた?」
そう口にしてみると、そうとしか思えなかった。
結果として一か所に集められた死体。それは、犯行の痕跡を残さないために敷かれたと考えていたシートを取り去った結果だ。それと同じく、あらかじめ床に敷かれたシートが、結果として床に痕跡を残さなかったのではないか。
まさか犯人が国東殺害の前に「これから殺すから、その前にこのシートを敷かせてくれ」と頼むわけもない。
現場の状況を見ても、シートは少なくとも畳八枚分の広さがある。成人男性一人分の重さが乗った状態で引き抜いても、破損しないだけの強度と厚さを備えているはずだ。戸塚は自宅にあるカーペットを思い浮かべていた。折り畳まれたカーペットは、それだけで衣装ケースひとつをいっぱいにしている。
「スーツケースの中身がシートだったりして」
突飛な発想ではない。ただ、そう考えればスーツケースの中身と、シートの行方、ふたつの問題がひとつになる。そういう考えで都合良く導かれた答えのような気もする。戸塚は脇坂に意見を求めることにした。
「脇坂さん、ちょっとよろしいでしょうか」
戸塚がそう言いながら振り返ると、思わぬ近さに立っていた脇坂にぎょっとした。
「ずっとそこに立ってたんですか?」
大きな目をさらに大きくして驚く戸塚に、脇坂は声をあげて笑った。
「本当に集中すると周りが見えなくなるな」
「集中していなくても後ろは見えませんよ。そんなことより、例のシートなんですが、国東が手にしていたスーツケースの中身がシートだったんじゃないでしょうか。そして、自分でそのシートを広げた」
脇坂は腕組みをして戸塚の言葉を聞き、短く言葉を発した。
「なるほど。で?」
「で? でって、なんです?」
「で、そのシートはどうして広げたんだ?」
「ああ、新製品のテストだったんじゃないかなって。ビデオに録画されるとマズい開発中の新製品」
その答えに、脇坂は人差し指で自分の顎を掻いた。不満があるときや、ストレスが掛かった時に出る脇坂の癖だ。
「小森さんたちが何を調べているかは知っているよな?」
小森はかつて一班八人体制だった時に比嘉班の副班長だった刑事だ。
「もちろん。スーツケースの中身でしょ?」
「そうだ。その小森さんと鑑識から報告があった。床から塩化カルシウムと反応してできた酸化鉄の粉末が採取されていたが、同じ構造の酸化鉄がスーツケースからも発見されたそうだ」
戸塚は化学が得意ではない。酸化鉄にいくつかの種類があることを、常識として辛うじて知っている程度だ。慣れない言葉を咀嚼しながら聞いた戸塚が眉間に皴を寄せた。
「床で採取されていたって、床のどこです?」
「オフィスの入り口近くだ。死体の場所からは三メートル弱離れた場所だな」
「えっと、ん? それってつまり」
「ああ、スーツケースの中身が、床にシートを敷かれる前に取り出されていたということだな。しかも、そのシートがケイブンの新製品で、シート自体に酸化鉄が付着していた可能性もあるか。なるほどね」
そう言って何度も頷く脇坂に、戸塚は嘆息の後首を傾げた。
「分かっていたことがあるなら、先に教えてくれてもいいのに。でも、シートがメインなんですか? 私は油圧システムを使った何かをテストするのに、床が汚れないために敷いたんじゃないかと思ったんですけど。その酸化鉄だって、過去にテストしたときに、機械のものがシートに付着していたんじゃないですか?」
「床が汚れないためだけのシートなら、何でもよさそうだが? わざわざスーツケースで運ばなくてもいいだろう」
「そっか」
「それに、あのスーツケースに、シートと機械の両方が収まるとは思えない。そこまでの容量はない」
戸塚も消防の現場で使われている油圧カッターは実物を見たこともある。確かにスーツケースに収まるサイズではない。しかし、既存の油圧カッターで使用されている作動油ではないという結論も出ている。
「脇坂さん、それこそ決めつけじゃないです? もしかしたら、機械とシートはセットなのかも」
「なんだか面白そうな話をしているな」
入り口付近で脇坂と戸塚に声を掛けた比嘉へ、二人が「お帰りなさい」と返した。
「あれ、川島君は?」
いつも比嘉の後ろについて歩いている川島の姿が見当たらず、戸塚が訊ねた。
「コンビニに寄っている。スーツケースの中身に手掛かりが出たらしいな」
「ええ、今もその話を戸塚君としていたんですが、その中身、ケイブンの新製品じゃないのかと。そのテストの様子を外部に見られないために、防犯カメラの通信を遮断したってのが戸塚君の考えです」
脇坂の話を聞きながら自分のデスクに移動した比嘉は、デスクに積まれた書類の一番上に置かれている紙を手にした。
「作動油の方は進展なしか。戸塚」
比嘉に呼ばれ、戸塚は比嘉のデスクの前までの五歩を駆け足で移動した。
「はい」
「川島が戻ったら、国東が何を開発していたのかを調べろ。脇坂は俺と残ってくれ」
「了解しました」
比嘉が二人に指示を与えると、川島が鼻歌を歌いながら戻ってきた。手にはコンビニの茶色いビニール袋が下げられている。
「川島君、お帰り。出掛けるよ」
「ただいま帰りま、え?」
川島の視線が、田島と比嘉の間を往復する。その川島に向けて、比嘉が指をさして見せた。指先は戸塚の背中を指している。それを確認した川島が、自分の鼻先と戸塚の背中を続けて指すと、比嘉は頷いた。
「何してんの。早く行くよ」
「今すぐ出掛けるんですか? 椅子に座って飯が食えると思って弁当にしたのに」
「座れるじゃない。
「心配するな、川島。俺が食べといてやるよ」
そう言って差し出された比嘉の右手に、川島は渋々弁当の入った袋を掛け、戸塚の後を追った。
「警部も意地が悪いですね」
笑みを浮かべながら言った脇坂が、コンビニ袋の中を覗き込んだ。むすびが三個と唐揚げが少し入っているだけの小さな弁当だ。
「あいつ、これだけで腹が膨れるんですかね?」
脇坂のつぶやきに比嘉は苦笑した。
「さっき牛丼の大盛り食ったばかりだからな。それで足りるんだろ」
「はっ、牛丼? これはデザートってわけですか。こりゃあ、嫁さんになる人は苦労しそうだ」
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