痕跡

西野ゆう

第1話

 凄惨な殺人事件の現場。

 文字にしてしまえばそれだけのことだ。だが、その現場を目にした警視庁捜査一課の比嘉ひが修二しゅうじ警部は、その異様さに首を捻っていた。

「酷いですね。ゴミ同然に扱われている」

 同時に現場の入り口に立った比嘉の部下である川島翔太かわしましょうたが、マスクを着けている鼻と口を右腕で押さえながら言った。川島は比嘉とは少し違った感情を持っている様子だ。

「凶器、いや、道具の見当も付かん。どうして、こんなバラバラに」

 比嘉は過去に、バラバラ殺人事件の捜査を二度経験している。そのどちらともが、死体を遺棄する方法として、死体をバラバラにしていた。

 だが、今回の死体の状況は明らかに違う。

「これ、殺害現場もここですよね?」

 川島の呟きに、比嘉が「多分な」と頷いた。

 現場となった港区浜松町に建つオフィスビルの一室に入ることなく、入口から見ているだけの二人には、バラバラにされた死体の切り口までは見えない。この場所が殺害現場だと二人が考えたのは、天井を見て推察してのことだ。二人が見上げた天井には、切り取った四肢を振り回したかのように、帯状の血痕が幾筋も散っている。

 死体はその血痕が残る天井の下に、バラバラにされていながら無造作に集められていた。まるで箒で掃いたかのように、散らばった書類、ボールペンやハサミなど、争ったときにデスクから落ちたと思われる物も、死体と一緒に纏められている。床の血痕は、その死体を含めた「ゴミ」の塊の入り口側に多く見られた。

「まだ時間がかかりそうか?」

 比嘉は、死体の一部を入れた黒いビニール袋を持って部屋を出て来た鑑識官に訊いた。

「そうですね。全部が終わるまでは三、四日かかるでしょうね。検視だけなら、日付が変わる、ということはないでしょうが」

 その鑑識官は、現場内を振り返ってそう答えた。比嘉が腕時計に目を落とすと、時刻は午後一時を回ったばかりだった。

「そうか。川島、ここに居ても邪魔になるだけのようだ。本庁に戻ろう」

「了解です。あ、飯食ってから戻るでしょう? この近くなんですよ、この前話したカツ丼の旨い蕎麦屋」

 凄惨な現場を見た直後とは思えない川島からの提案を、比嘉は苦笑しつつも受け入れた。

 一般人の立ち入りを規制するイエローテープが張られたビルから一歩外に出ると、そこにはいつもと変わらない東京の景色がある。狭い空の下を忙しく歩く人々。年度末が近いこの日、心なしか人々の通り過ぎる速度も速い。

 比嘉はその通り過ぎる人々に目を向けていた。いや、正確には、通り過ぎる人々の中に紛れて、自分たちの動きを注視している人物の有無を確認していた。川島も同様だ。

「特に怪しい奴はいませんね」

 川島はそう呟いて「こっちです」と指を差した方向に歩き出した。その後ろに離れることなくついて歩く比嘉は、最初の角を曲がるまで周辺に目を配っていた。

「あれだけの現場にする人間だ。我々の捜査を遠目で見てほくそ笑んでいると思ったが」

 比嘉の言葉に、川島は溜息の後、「まったくです」と呟いて続けた。

「あんな殺し方ができる人間がこの近くにいるなんて信じられませんよ。いや、あんなの、人間のすることじゃない」

「そうだな」

 川島と同様、比嘉も同意の言葉を返しただけだが、互いに胸には熱い思いを抱いていた。人の命をゴミ同然に扱うなど許されるはずもない。残忍な殺害現場の残像は、二人の胸に激しい怒りと共に鋭く刻まれていた。


 二人が辿り着いた蕎麦屋は、昼食のピークを過ぎて空席が多くあった。

「カツ丼二つね」

 川島がテーブル席に座りながら、案内した女性店員に指を二本立てて注文した。「カツ丼二丁」という声に、厨房で作業をしている主人からの返事はない。その代わりに、仕込んでいたカツを揚げる心地良い音が聴こえてきた。

 揚がったカツに包丁が入る軽やかな音を響かせた二分後、二人の前に青磁の蓋付きのどんぶりが運ばれてきた。

「お待たせしました。ごゆっくりどうぞ」

 店員のその言葉が終わる前に、川島は蓋を開けている。その様子に微笑みを浮かべながら、比嘉も中身を覗き込むようにゆっくりと料理と対面した。

「なるほど。食う前から旨いと言っていたのが分かるな」

「でしょう? 箸で驚くほど簡単に切れるんですよ。こんなに厚いカツなのに」

 そう言いながら実践して見せた川島の箸は、ひと口大に切ったカツを口に運ぶことなく静止した。

「人の身体じゃ、こうはいかないですよね」

 食事の最中に凄惨な現場を思い浮かばせる川島の発言を比嘉が責めなかったのは、比嘉もまた、川島の箸によって引き裂かれるカツに、無残にバラバラにされた死体を重ねて見ていたからに他ならない。

「考えるのは、鑑識の結果を見てからだ」

 比嘉は川島をそうたしなめて、鰹節をふんだんに使った出汁を吸い込んだカツを口の中に放り込んだ。

「捜査事実を得る前に余計な先入観は持たない、ですよね。分かってはいるんですが」

「分かっているなら、まずは食え。旨いぞ」

「旨いのは知ってますよ」

 そう言って食事に集中し始めた川島を見て、比嘉も目の前のどんぶりを空にすることに専念した。


 事件発覚から三週間後、ようやくバラバラ殺人事件の現場となったビルへの立ち入り規制が解除されたが、その日の捜査本部には重苦しい空気が充満していた。

「こんな現場でDNAひとつ残さないなんて、人間業じゃないですよ」

 そう嘆く川島の言葉に、比嘉はただ唇を噛みしめていた。

 鑑識官が当初想定していた現場保存期間を大幅に超えた理由が、川島の嘆きに表されていた。殺害前後、現場に居合わせた人物の指紋やDNAといった証拠が何ひとつ発見されなかったのだ。

 一方で死因は予想通り、すぐに判明していた。失血死だ。被害者の頭部には裂傷があり、デスクの角に毛髪と血痕が残っていた。だが、デスクに頭をぶつけたことで意識を失った可能性はあるが、出血も少なく死亡には至らなかった。

 頭を打ち付けた後、身体を切断され、その際の出血で死亡している。解剖を担当した医師によれば、意識を失っていたとしても、切断される痛みで目を覚ましていたはずだということだ。

 管理官はまだ姿を見せていない。帳場が立って三度目の捜査会議が開かれようとしている空間で、鑑識の纏めた資料を前に、比嘉班の刑事四人が揃って嘆息している。

「『吸水性の極めて低いシートが敷かれていた模様』っていうのは警部の予想と同じですね」

 川島よりも、上司である比嘉の年齢に近い脇坂わきさかとおるが、資料に書かれていた一文を読み上げた。

 掃き溜められた死体を見た比嘉は、死体や被害者の血痕、オフィスに散らばったゴミは、目的があって一か所に纏められたわけではなく、結果としてそうなったのだと現場写真を見て考えていた。現場には足跡も古いものを除いて残されていない。あらかじめシートを敷き、その上で犯行に及び、殺害、切断後にシートを取り去った。その際に、シートの上にあったものが一か所に集まったのだ。

 床に痕跡が残っていなかった理由は、それで一応の説明がつく。だが、オフィスの机上を見ても、激しく争っているのは明らかだ。しかし、その机上に被害者以外の痕跡はなかった。

「防護服でも着ていたとしたら動きも制限されますよね。女とかお年寄り相手ならまだしも、被害者は若くて健康な男ですから、そんな装備じゃ制圧できないでしょうし」

 川島の先輩である戸塚とつか伊央いおが、資料をせわしなく捲りながら零した。「女とかお年寄り」と、体力的に弱いという意味合いで発した戸塚は、自身もその「女」に含まれているとは頭の片隅にもない。

 現場オフィスには、防犯カメラが設置されていた。火事や地震などの災害でオフィスが被災したとしても映像が残るよう、外部に設置されたストレージにデータを送っているウェブカメラだ。そのデータには、被害者の生前の姿がはっきりと記録されている。

 被害者の氏名は、このオフィスを利用しているIT企業の代表、国東くにさきケイブン三十四歳。本名は国東たかふみという生粋の日本人だが、仕事では海外の顧客も多いのか、自社の社名も、代表者名もCAVENとしている。

 その国東が一人でオフィスに来たのが三月十七日日曜日の午後七時二十八分。出張の帰りなのか、大きめのスーツケースを手にしていた。その時点のオフィスは整然としていて、床にシートも敷かれていない。その後防犯カメラは、オフィスに置いてある国東本人のパソコンを使い、国東本人の手によって、接続が遮断されていた。

「すまない、始めよう」

 管理官のはら弦司げんじが片手を挙げながら会議室に入ってくると、待ち受けていた二十数名が起立し、敬礼の後、一人を除いて着席した。その立ったままの一人が口を開く。

「鑑識のそのです。早速ですが、先ほど判明した事実を述べさせて頂きます」

 原が頷きつつ、胸ポケットから老眼鏡を取り出している。園枝はその様子を見て、まず一言断りを入れた。

「申し訳ございませんが、これは本当に先ほど判明したことなので、まだお手元の資料には纏められておりません」

 その一言に、会議室が一瞬ざわついた。手掛かりらしい手掛かりがなかったこの事件に、ようやく解決に導く光が差したのか。そう期待するざわめきだ。

「失礼します」

 会議室前方のドアがノックされ、入ってきた制服の女性警官が、管理官、署長、副所長の順に一枚の紙を渡し、残りを各長机に一枚ずつ手早く配った。

「今お配りしたのが、現場に数滴残されていた油分を質量分析した結果です」

 紙の最上部には、どの物質がどれだけの割合で含まれているかを示すグラフがあり、その下には、それと同じ成分を持つ商品が写真付きで印刷されている。さらに最下部には、その商品を利用している機械がいくつか文字だけで書かれているが、最後に「その他多数」という文字を認めた管理官は、嘆息の後に眼鏡を外した。

「よくやった。と、言いたいところだが、これでどれだけ絞り込める?」

 管理官の質問に、鑑識の園枝は言葉が返せなかった。分析の結果から容疑者を絞り込むのは鑑識の仕事ではない。管理官を含め、ここにいる全員がそれを承知してはいるが、「これで何が分かるというのか」という気持ちも、同じく全員が感じていた。

 現場に残されていた油分の正体は、油圧システムの作動油だった。

 比嘉は、纏められている捜査資料をひと通り眺めると、手を挙げて発言の許可を待った。

「なんだね、比嘉君」

 署長の声に、比嘉は立ち上がって口を開いた。

「捜査一課の比嘉です。見たところ、現場となったオフィスに油圧システムを使うような機械はありません。とすれば、皆さんも想像している通り、死体を切断した器具に使われたものであると考えるのが自然でしょう。資料に『切断に使用されたのは油圧カッターのようなものと考えられる』とありますから。油圧カッターのものだと考えれば、それほど多くの種類はないと思われます。これは、大きな手掛かりであると捉えて良いのではないかと」

 比嘉の発言に、園枝は感謝の目配せをした。それに比嘉も頷いて応えた。

「なるほど。では、その線の捜査は比嘉班に任せよう」

 管理官の指示に、比嘉は「了解しました」と応じて着席した。

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