咬傷

紅野 小桜


 ねぇ、左手出して。

 ねぇ、この左手、私に頂戴?

 いいでしょう、ねぇ。

 たかが左手よ。それっぽっちよ。私それ以外、これまで一度だって欲しいなんて言ったことないのよ。

 だからいいでしょう、あなたのこの左の手を、私に頂戴よ。

 ねぇ、どうしてそんな風に笑うの。

 私本当は欲しいもの沢山あるのよ。それを全部取りあげてしまうのはあなたでしょう。

 ねぇ、そんな優しい顔しないでよ。私以外にも見せたことのある、そんな顔をしないで頂戴。

 嗚呼、もう、いっそあなたが明日死んでくれたならいいのに。ねぇ、どうして私、大好きなあなたが死んでくれることを願ってしまうのかしら。ねぇ、ねぇ、ねぇ。私ね、あなたが私以外の誰かに笑いかけることが許せないの。私以外の誰かの隣にいることが、私以外の誰かに触れることが、私以外の誰かのなかにあなたがいることが、私以外の誰かがあなたの心に触れることが、そんな誰かが、これまでに1人でもいたことが、全部全部全部許せないの。許せないのよ。ねぇ、どうして、どうしても、あなたは私だけのあなたになってくれないの。私はいつだってあなただけの私になるのに。だめなのよ。みんなのあなたじゃだめなの。私とあなたの2人だけがいいの。全部全部、私だけがいいの。眠そうな目も、ふわふわの髪も、甘い声も、やわい肌も、なにもかも、私だけがいいの。


 だけどね、わかってるのよ。あなたが私だけのあなたになってくれないことくらい。

 私だって、それくらい、わかってるのよ。

 でもね、仕方ないじゃない。あなたが欲しくて、欲しくて欲しくて欲しくて欲しくて、私だけに、なって欲しくて。愛しくてたまらないの。


 だからね、左手を頂戴。

 いいでしょう。どうせあなたは、私だけのあなたにならないんだもの。

 ​───────ほら、あなたは優しいから、そうやって許してくれるんだわ。ずるい人。ほんとに、あなたってずるい人よ。私の知らないところで、私にくれるって言ったこの左手で、私以外の誰かに触れるんでしょう。だけどあなたの左手は、今は確かに私のものよ。


 ​───────痛かった?ごめんなさい。だけどほら、見て。薬指のつけ根のとこ、ちゃんと噛み跡がついたわ。ね、ね、結婚指輪みたいでしょう。素敵ね、ね。素敵よね。でも、きっとすぐに消えてしまうのよね。私それが悲しいの。……ねぇ、いきましょ。私の痕があなたから消えないうちに、一緒に死んで頂戴よ。私きっと、あの世でもあなたのことだけを好きでいるわ。だからあなたも、私だけを好きでいて。だってきっとあの世には他の誰かなんていないわ。2人で死ねば、2人であの世に行って、2人だけで過ごせると思うの。だってほら、今なら結婚指輪だってある。だからお願い、いかせて。私と一緒に来てよ。ねぇ、お願いよ。そんな優しく抱きしめないで。私いつもあなたのわがままを聞いてるじゃない。今日くらい、今だけは、私のわがままを聞いて頂戴よ。いやよ、お願い、一緒に死んで、ずっと一緒にいてよ。私だけのあなたになって頂戴。私が、私の痕が、あなたから消えてしまう前に。お願い、お願い​───────。


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