夏の雨

雨希

本編

 夏の雨を全身で浴びるたびに、幼いころに通っていた水泳教室のシャワーを思い出す。大量の冷たい水がものすごい勢いでどやどやと降り注いで、私の皮膚に付いたありとあらゆる余計なものを洗い流す。カルキのにおいも、涙も、悔しさも、誰かから投げつけられた悪意も。何もかもを私と全く無関係のものにしてくれる。

 だから、私は水泳教室のある日曜日をずっと楽しみにしていた。さっぱりとした気持ちでまた、社会という戦いの場に繰り出すことができる。

 中学受験の勉強に集中させるため、という理由で水泳をやめさせられたとき、どうして良いのか分からなかった。色々な負の感情をため込んで、私の心は限界になりつつあった。もうこれ以上生きてゆけないというラインのギリギリを超えそうになった日、雨が降った。夜の九時、塾の教室で窓際に座っていた私は、ざあっと雨粒が街を叩く音を聞いたとたん耐えきれずに立ち上がった。先生の制止を振り払い、傘も差さずに外に飛び出す。一瞬で、ずぶぬれになるワンピース。まつげをつたって水が目に入り、服の袖で雑に拭った。瞼を閉じて、顔を暗い空に向ける。心地よい冷たさが全身を包み込む。洗われて輝き始める魂。体の重ささえも、疲れ切った私を慰める。

 その日から私は、夜に雨が降るたびにこっそり家を抜け出すようになった。湿った空気のにおいをかぐだけで、全身が浮き立った。

 そうやってなんとか中学受験を乗り越え、入学した全寮制の学園では、週に一度必ず雨が降る。そのことを知ったとき、私がどれだけ喜んだか。

 学園のキャンパスは、東京の地下にある巨大なシェルターの中にあった。シェルター内の天候は全てコンピューターで管理されていた。きちんと四季が暦通りに流れ、週に一度は雨が降るそこは、将来的に宇宙空間に作る居住コロニーのプロトタイプとして作られたものだ。天候だけでなく、私たち生徒も徹底的に管理されていた。その印として、左胸の皮下に埋め込まれた赤い宝石。位置情報だけでなく、バイタルデータも常に管理コンピューターに送られる。

「今日、雨降りそうだね」

 スクリーンに動画を映しただけの空を見上げて、葉子(ハコ)がぽつりと呟く。週に一度必ず降るが、それがいつなのかはランダムなので私たちには分からない。

 本を読んでいた私は、顔を上げる。空は、普段より少し雲の多いようだった。

 制服である紺色のジャンパースカートを身に付けた私たちは、湖岸に無造作に置かれた白いベンチに並んで座って、足をぷらぷらさせている。ここは、シェルターの中でも特に植物の多いエリアだ。酸素が濃くて落ち着くような気がして、放課後は毎日ここで時間を潰している。たいてい私は読書をし、葉子はぼんやりと水鳥をながめている。

「ナオミは雨、嬉しいんでしょ」

 葉子の言葉に、私はうんとうなずく。

「わたしには迷惑なんだけどなぁ。ナオミ、自分でアイロンできないから。制服の洗濯、全部わたしに任せるもん」

「その代わり、ご飯のしたくは私が全部やってるよ」

「まあ、そうだけどさぁ」

 葉子がすごく不機嫌そうなので、私は少し考えて言葉を選ぶ。

「大学を卒業して外に出るまでに、家事は全部自分でできるようにするよ。頑張るから、葉子が教えて」

 これで機嫌が良くなるだろうと思ったのに、葉子の両目に影が落ちた。泣き出す直前みたいな、ぴんと張りつめた顔でどこか遠くを見つめている。

「……ナオミ、ここから出られると思ってるんだ」

「え、なんでそんなこと」

「別に」

 ふっと、葉子の口元がほころぶ。

「大学卒業までずっと、寮の部屋は一緒でいようね。時間はたっぷりあるよ」

 そう言うと、彼女は立ち上がってぐっと大きく伸びをした。

「そろそろ帰ろっか。売店に寄って、夕飯と朝ごはんの食材買わなくちゃ」

 私はほっとして、いつものように

「今日は何が良い? お魚、豚、牛、チキン」

とたずねる。振り返った葉子の顔には、いつも通りの柔らかい笑みが浮かんでいる。

「チキンかなぁ」

「じゃあ、チーズタッカルビにしよ」

「やった! チーズも良いの買おうね」

 立ち上がりながら、私は口の中で小さく呟く。

「ナオミ、何か言った?」

「何にも」

 私たち結婚してるみたいだね、なんてそんなことは言えない。そう思っているのは、私だけだろうから。


 その日の夜は、葉子の予想通りに雨が降った。私は制服から汚しても良いシャツワンピースに着替えて、寮の外に出る。大量の水を浴びながらぼんやりと明るい夜道を歩く。街灯が光をまき散らし、幾筋もの白い線が浮き上がっては消えてゆく。

 不意に、背中に何かが触れた。ぎょっとして飛び上がりそうになった私の両肩を、葉子が押さえた。彼女は、白いシャツとジーンズという姿だった。傘は、差していなかった。

 心臓が激しく打つのを感じながら、私は葉子を見上げる。

「何かあったの、葉子」

「雨の日は、マイクが音を拾えないから、秘密の話ができるんだ。ナオミ、わたしたちはここから一生出られないよ」

「え、なんで」

「左胸に埋め込まれた宝石のコードが、心臓に絡みついて一体化してしまってるから。手術をしても、絶対に外れない。わたしたちは最初から、実験動物なんだ。シェルターの中で一生を暮らす人間がどうなるか、データを取られてるんだよ」

 私はぱくりと口を開いた。けれど、何も言葉が見つからなくて、雨水を呑み込んだだけだった。街灯に斜めに照らされた葉子の白い肌に、鼻の黒い影がくっきりと浮かんでいる。暗い目。彼女の普段は決して見せない絶望が、じわじわとあふれ出して私に絡みつく。それを思い切り振り払って、私は笑顔を作る。

「……それなら、ずっと一緒にいられるじゃん、私たち。ここなら家族にも誰にも邪魔されずに、二人で暮らせるよ。ね、嬉しいことじゃん」

「ナオミ……」

「もしかして、葉子は外に出たいの?」

 答えは帰って来ない。彼女は目を見開いて、私を真っ直ぐに見つめている。前髪からしたたった一筋の水が、ふっくらとした頬を伝って落ちてゆく。

「当たり前、でしょ」

「そっか」

 それなら私は、彼女の願いを叶えるだけだ。

「冗談言わないでよ、ナオミ」

 無理やりみたいに、葉子が笑った。その笑顔に傷つくほど、私は弱くはない。


 学園の弓道場で、私は弓を振り絞る。狙うは、的の中心。卒業するまでに、百発百中にならなければ。葉子のために。彼女の体を一切傷つけず、左胸の宝石だけを貫いてみせる。

 私があなたを自由にしてあげる。実験体としての運命と……私の叶わない恋心から。

 ぽつり、と水滴が舞った。

「雨か」

 この夏の雨は、私のことも自由にしてくれるだろうか。

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