思い出の中のあの景色は、映画みたいに長方形だ

雨希

本編

 中学校の教室の、窓際の真ん中の席に少女が座っている。彼女は夏用の白いセーラー服と烏羽色のプリーツスカートを身に付けているが、ほっそりとした足には何も履いていない。椅子の上で立てた左膝を両腕で抱えて、窓の外を眺めている。窓の外には水平線がある。茶色がかったセミロングの髪が、潮風にさらさらと揺れる。机の上には国語の教科書が開いたままになっている。私はその開かれたページに何が書かれているのかを知っている。森鴎外の「高瀬舟」である。遠い記憶の中の私はこの後、クラスメイトである彼女に話しかける。そして、人の意識は死んだらどうなるのかについて、喧嘩になるのだ。そのころの私は天国と地獄の存在を信じていた。それに対して、彼女の方は、少し変わった死生観を持っていた。肉体から抜け出した魂は、膨張し続ける宇宙の果てに向かって永遠に旅し続けるのだと彼女は言った。その考えは決して他者から与えられたものではなかった。小さいころに大阪の科学館でプラネタリウムを見たときに、天から降って来るように「分かった」のだと言う。彼女には、彼女として生まれる前に宇宙を旅していた記憶があるらしい。その旅の途中で、偶然通りがかった地球の重力に引き寄せられてしまったのだ、と。

 私は、そう語る彼女の、熱があるように充血し潤んだ目とほんのりと色づいた頬を今でもはっきりと思い出すことができる。もっとも、その記憶が現実のものと完全に一致しているとは言い切れない。夜に見た夢や、いつか見たドラマのワンシーンや、後から付け加えた空想が混じっている可能性が高い。そうだとしても、その夏の日の教室は私の心に強烈に焼き付いた、一生失くせないであろう大切な思い出である。

 だから、今、貸し切り状態の小さな映画館でスクリーンに映った少女を、私は息を詰めて見守っている。体中の皮膚がじっとりと汗ばんでいるのを感じる。この瑞々しい白と青で構成された完璧な画面に、昔の私がひょいと乱入してしまうのだろうか。ぼさぼさ髪の垢ぬけない子どもが、天国と地獄の話をし始めるのだろうか。

 画面の端に、ふっとセーラー服の裾がよぎる。その瞬間、ブラックアウトした。透き通ったピアノの音が流れ始め、白いインクで手書きされた演者の名前がゆっくりと上って来る。エンドロールだった。

 私はほっと息を吐きだした。ゆっくりと臙脂の幕が閉じ、劇場が明るくなる。

「どうだった?」

 胸の前で腕を組み、壁にもたれかかっていた女が聞いてくる。中学生のころからの友人で、かれこれ二十年以上の付き合いになる女である。彼女は黒いハイネックのシャツの上にデニムのジャケットをはおり、タイトなジーンズをはいている。セミショートの黒髪をゆるく巻いていて、格好は若いころの藤岡弘そのものだが、その顔つきは薄味ですっと抜けるような透明感がある。昔からどうにも似合わない服装をする子だ。映画監督としてメディアに取り上げられるときに「男装の麗人」というキャッチ―な言葉で紹介されることもあるが、本人としては「女がこういう格好で何が悪いのか」というスタンスらしい。

 私は立ち上がり、監督の隣に立つ。そのすかした顔を横目で見ながら、

「どうだったも何も、これ、完全に夏鈴ちゃんとあなたの話じゃん。昔あったことを脚色すらせずに、あなたの視点でだらっと流してるだけ」

と低い声で言う。

 不思議な映画だった。主人公である中学生の少女の日常を、そのクラスメイトであるもう一人の少女が延々とビデオカメラで撮っている、その映像を無編集で流しているだけというコンセプトらしい。主人公は間違いなく私たちのクラスメイトだった夏鈴がモデルだし、カメラをかまえているのは幼いころの監督だった。画面には夏鈴以外の人々も映り込むが、カメラの子は最後まで声だけしか登場しない。時折、カメラの子がもう一人の別の子と話しているらしい場面があり、その子は声すらも出てこない。――それは多分、私だ。

 私たちは、三角関係だった。監督は夏鈴が好きで、私は監督が好きで、夏鈴は私たちのどちらのこともただのクラスメイトだと思っていた。

 だから、正直、気持ちの悪いコンセプトの映画ではあった。片思いの相手との思い出を、延々と他人に見せるなんて、ね。けれど、計算し尽された映像はただただ美しく透明で、監督の技量がいかんなく発揮されていた。

「観客、入らないんじゃない? 誰も見ないでしょ、こんなの。大ヒットを飛ばし続けてる監督のご乱心ってネットで叩かれるよ」

 憎まれ口を叩く。半分は本心で、半分は戸惑いのせいだった。この女はどうして、私にこんなものを見せようと思ったのだろう。

 監督は首を前に傾けて、視線だけを上に向ける。

「君って、不思議な奴だよな。夏鈴のことを恨んだって不思議じゃないのに、すごく仲良くしてたじゃん。わたしは正直、最悪な三角関係だと思ってたよ」

「夏鈴のことも、好きだったから。それに、あの子は絶対あなたになびかないのも分かってたし」

「なるほどねぇ」

「でもさ、なんで映画に私を全く登場させなかったの? 最悪な三角関係だったから?」

 監督が、ふっと小さく笑い声を漏らす。

「何か勘違いしてるみたいだな。ビデオカメラを持ってるのは君だよ。君には自分で自分の声が聞こえてない、それだけさ」


 映画館を出ると、いつの間にか世界はすっかり夜に包まれていた。白い街灯が並ぶひとけのない道を二人、缶コーヒーを飲みながら歩いてゆく。海へと続く道。波の音がかすかに聞こえる。

「君はわたしが好きだって言いながら、夏鈴ばっかり見てたからな」

「好きな人の好きな人だもん」

「本当にそういう理由かねぇ」

 今となっては、分からない。

 セーラー服の少女だった私たちは、あのころの鮮烈な感情を失った大人になって、腐れ縁みたいに肩を並べて歩いてゆく。ここにはもう、あの子はいない。

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