第35話 学園祭
夏休みを共に過ごしてからというもの、殿下との距離を友達程度には近く感じるようになった。定期的に手紙を出しているが、相変わらず殿下は毎回、律儀に返事を書いてきてくれる。
直近で書いた手紙には、こんなことを綴った。
『秋の学園祭では、演劇を上演することになりました。オーディションで異国の王女役を射止めた私は、今、古代語を一生懸命覚えているところです』
それに対する返事はこんな感じだ。
『王女役の配役を受けたとのこと、おめでとう。公務の都合がつけば、観に行こうと思う』
まさに近況報告だけのいかにも事務的な文面だが、つい数か月前までは私の居場所さえ知らなかったという2人の関係性から比べると、すごい進歩だといえる。
その日は、学園祭での上演に向けてリハーサルをやっていたら帰りが少し遅くなってしまって、異国の王女と恋に落ちる王子役を務めるギヨームが、レオポルドに代わって寮まで送り届けてくれた。
「ギヨーム。送ってくれてありがとう! また明日ね」
「エレナもお疲れさま!」
西国からの留学生でもあるギヨームは、整った顔立ちなのに気取ったところがなく、その人好きのする笑顔で男女問わず人を惹きつける好青年だ。
寮の入り口で別れると、復習がてらブツブツと台詞をつぶやきながら部屋へと戻った。
ガチャ。
「ただいまー」
当然、部屋には誰もいないけれど、ついつい癖で挨拶をしてしまう。
無造作にテーブルの上に鞄を置くと、台所にだけ明かりを灯し、制服の上からエプロンを付けてお茶を沸かした。湯が沸騰するまでの僅かな時間も、小さな丸椅子に腰かけてセリフの練習を始める。
学園祭で披露するこの演劇のテーマは「悲恋――実らぬ恋」だ。
(ギヨーム:『王女殿下!? どうして此処へ?』)
「国を捨てる覚悟で参りました。わたくしを、貴方様の側においてくれませんか?」
(ギヨーム:『私では、貴女を幸せにすることができません』)
「貴方を愛しているのです。もう、離れたくありません」
(ギヨーム:『貴女の望みを叶えて差し上げることのできない私を、許してください』)
「今夜だけでも。今夜だけでも、わたくしを愛してくださいませんか? 一夜の想い出を胸に生きていけるように」
「――私も、貴女を愛しています」
「ひえっ!!」
いきなり相手方であるギヨームの声が聞こえた気がして驚いて顔を上げると、薄暗い部屋の中央に大柄な男性の影が見えた。
「レオポルド!! 不審者よっ!」
「っ、エレナ様!!」
すぐさま隣室の続き扉が開き、レオポルドが部屋へ入ってこようとするのを、男が片手を上げて制する。
「不審者とは心外だな。……夫の声も忘れたか?」
「私に夫なんていないわよっ!! レオポルド、この不届き者を掴まえてちょうだいっ!」
「なんだと?」
地を這うような声が聞こえて、一瞬怯んでしまう。
「ひぃっ! えっ、殿下? 何しにここへ? というか、どうやってお入りになったんです?」
「夫が妻に会いに来るのに理由がいるか?」
「えっ? いえ、そういうわけじゃ……」
「息災のようだな」
「おかげさまで」
「あ、レオポルド? ごめんなさい、下がっていいわ」
「待て! まさか、お前もここで暮らしているわけじゃないだろうな?」
「隣室に住んでおります。エレナ様の護衛ですので」
「確認だが、性別は男か?」
「――はい」
「ここは男子禁制の女子寮のはず。なぜ男であるお前が出入りを許されるばかりか、ここに住めているんだ!?」
「いえいえ殿下。出入りを許されている点は責められないでしょう? 殿下だって毎回、顔パスじゃない。それに、今日はどうやって入ったんです!?」
「――合鍵を受け取った」
「はぁー!? 誰から!?」
「それより私の質問に答えろ」
「あのですね、姉妹と同居する場合には例外的に男性の入寮も許されるんですよ! レオポルドは妹と一緒に住んでいるんです!」
その後に帰宅してきたアメリが一緒に事情を説明してくれて、一応は納得したようだったが、
「皇太子妃が護衛の男と扉一つ隔てた部屋に住んでいるなど、前代未聞の大スキャンダルだぞ」
とか何とかぶつぶつ言っていたのは、スルッと無視することにした。
「それより殿下。わたし、忙しいんですけど、何か用事でもありましたか?」
「学園祭の練習か? 台本読み、手伝ってやろう」
「結構です」
「遠慮しなくていい。ほら、貸してみろ。これでも演技は結構上手いんだ」
「でしょうね。硬派代表みたいな殿下の口の悪さを知ってるご婦人や令嬢は、少ないでしょうから」
「勝手に幻想を抱いてるだけだろ?」
そう言いながら、強引に台本を取り上げられた。
「先ほどの続きでいいな?」
ほら、始めろ、とでも言うように顎で合図される。
「今夜だけでも。今夜だけでも、わたくしを愛してくださいませんか? 一夜の想い出を胸に生きていけるように」
「王女殿下――ブランシュ。私も、貴女を愛しています」
ここでキスシーンなのよね。
それにしても殿下って、顔と声だけは無駄に良いんだから。
先ほどギヨームと行ったリハーサルのロマンチックなシーンを思い浮かべてうっとりしていると、唐突に顎を掴まれて、チュッと口づけを落とされた。
「な、な、なー!! っ、何をなさるんですか!」
「演劇の練習だが?」
「そ、そ、そんな、本当にしなくても」
「妻に口付けをして何が悪い?」
「だ、だって、ファーストキスだったのに!!」
「は? 前にもしただろ。何を言ってるんだ」
「えっ!? 嘘っ? いつ?」
「……結婚式を忘れたのか?」
はっ! あまりにも悲惨な結婚式だったから、無意識に記憶から抹消されてたみたい。完全にノーカウントだったわ。
「……上演中、本当に口付けを交わすわけじゃないだろうな?」
「振りだけですよ! ……たぶん」
「『たぶん』って何だ!?」
「どうしてそんなに怒るんですか!」
「大事なことだろうが!」
「その『大事なこと』を
「ぐっ。……それより、口付け一つでこんなに赤面していて、本当に演技ができるのか?」
「うっ……痛いところを」
「付き合ってやろうか?」
「え?」
殿下が意地悪な微笑みを浮かべてにやりと笑うから、思わず後ずさりした。
「何だか、すごく嫌な予感がするんですけど」
「失礼だな。練習に付き合ってやると言ってるんだ」
「ですから、結構です」
「今さら、照れることもないだろう? 夫婦なんて、一番恥ずかしいことを共有するものなんだから」
「っ、普通の夫婦はそうなのでしょうけど、私達はそんなんじゃ――」
私の抗議は、チュッチュッという可愛らしい口付けに阻まれた。
「ちょっとっ、殿下!?」
「嫌か?」
「……嫌です」
「ふっ。嘘だな」
「はぁ? 嘘なわけ!だって私は殿下のことなんて――んっ」
再び、私の抗議があっさりと吞み込まれていく。
殿下の口づけが、だんだん食むような深いものになっていく。
頭がぼーっとしてきて、頬が真っ赤に染まる。
「――この役は今すぐ、降板しろ」
「え?」
「皇太子妃が夫以外の男と口付けを交わすなど、認められるはずがないだろう?」
「そんな、誰も私が皇太子妃だなんて知りませんよ!」
「そういう問題じゃない!」
「ただの演技に、そんなに青筋立てなくても……」
「ただの演技で、そんなに真っ赤な顔で瞳を潤わされたら困るんだよ」
「今さら降板だなんて、迷惑です」
「代役がいるだろう? 問題はないはずだ」
「それはそうですけど……」
結局、実家からキスシーンにNGが出たとかなんとか苦しい言い訳をして、せっかく勝ち取った王女役を降りることになった。
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