第33話 痛み
その日は、初夜の儀を装ったあの日ぶりに、殿下と同じベッドで休んだ。
「殿下?」
「ん?」
「さっき言ってたの、本当ですか?」
「?」
「抱かれると色気が出てくるってやつ」
「っ、それは――」
「……だったら、抱いてほしい」
「何を言ってるんだ?」
「殿下は私の夫ですよね? だったら、妻を抱くことに理由なんて必要ないと思うんですけど」
「成人するまでは待とうと話しただろう?それにさっき断ったのはエレナじゃないか」
「気が変わったんです」
「……どうして?」
「色気が欲しいんです。大人の男性が振り向いてくれるようなのが」
「色気なんて出して、どうするつもりだ?」
「離縁後の生活に向けて、準備しておきたいんです。卒業まであんまり時間もないし――」
「……本気で言っているのか?」
「本気もなにも、殿下がそう言ったんじゃないですか!離縁後は私の望む相手との再婚を後押ししてやるって」
「仮にもエレナは俺の妻だぞ?」
「仮にも、じゃなくて
「俺が女性を侍らせているだと?」
「だってそうでしょう? 宮殿の敷地内に離宮があって、そこに妻以外の女性が暮らしている以上、私はそう取りますね。たとえ実態がどうであったとしても」
「っ、それは――」
「ほら。答えられないじゃない」
そこまで言うと、殿下は「はぁ――」と大きくため息をついた。
「とにかく、そういうのはダメだ」
「……どうしても?」
「愛情のない行為など、嫌だろう?」
「嫌じゃないです」
むしろその方が都合がいい。
殿下だって明後日クリステル様がこちらに来たら寝所を共にするんだろうから、色気を出すために殿下を利用したって責められる
罪悪感を抱かなくて済むぶん、私も気が楽だ。
それに、オーギュスト様だって、今頃はフォスティーヌ夫人と――。
「……ダメだ」
「私に、女として魅力がないからですか?」
「そうじゃない! とにかく、抱く気はない」
「心変わりするなんてことは――」
「ない!」
ハッキリそう言われて、心がぽっきりと折れてしまった。あぁ、もう駄目だ。
「分かりました。そういうことなら……もう失礼します」
「何処へ行く?」
「他に空いている部屋がないか聞いてきます」
「何時だと思っているんだ? 使用人たちのことも考えろ。こんな夜中に用事を頼むなど迷惑だ」
「だったら、ソファーで休むことにします」
「……勝手にしろ」
殿下はそう言うと私に背を向け、それ以上は何も言わなかった。
『迷惑だ』という言葉が、いつまでも胸の中でこだました。
普段は、人一倍、気を配り、他人の心の機微に配慮しているつもりだった。
だから余計に、殿下のその言葉が、鋭いナイフのように自分の心に突き刺さった。
「迷惑なのは、私の存在そのものじゃない……」
てっきり、カタチだけでも夫である人は、私が望みさえすれば、今夜だけでも私のことを女性として、妻として扱ってくれるものだと思い込んでいた。
はぁ――。
惨めさと羞恥心が後から後からやってきて、ポロポロと泪が零れた。
自分の中にある、フォスティーヌ夫人やクリステル様に対する嫉妬心や劣等感みたいなものが、心を真っ黒に染めていく。
ズキンズキン。
胸の痛みだけじゃなくて、身に覚えのある鈍痛が下腹部に走った。
「そっか、そろそろ月のものがくる頃だ」
再び露天風呂に入って、涙でぐしゃぐしゃになった顔を洗うことにした。
部屋で休んでいる殿下に聞こえないように、声を押し殺しながら泣いているせいか、なかなか涙は枯れてくれなかった。
オーギュスト様に玉砕したことは、残念ではあるけれど、無駄に希望を持たされなかった分、すっきりもした。
けれど――殿下に全く女として見られていないことには、思った以上に傷ついてしまった。
自分が惨めで、このまま泡みたいに消えてなくなりたいと思った。
でも、そう思うってことは、「まだ生きたい」って思ってるってことなんだよなぁ。
そんなふうに思いながら、ぶくぶくとお風呂の中に身を沈めた。
お湯の中に潜って目を閉じると、傷ついて過敏になった感覚が閉ざされていく。
何も聞こえないし、何も見えない。心の痛みも、感じないでいられる。
私流の、心を落ち着かせる方法だ。
しばらくの間、そうやって身を沈めていたら、
「何をやっているんだ!?」と殿下の声が頭上から聞こえた――気がした。
気のせいであってほしい。だから、無視することにした。
今の私は、言うまでもなく丸裸。
お風呂に身体を沈めて精神統一している姿なんて、絶対に人に見られたくない。
しかも、先ほど私を「抱く気はない」と言い切った男性の前で痴態を晒すなんて、心が死ぬ……。
「今すぐここから出て行って!」という心の絶叫など届くはずもなく、殿下は私の腕を掴んで力強く浴槽から引き上げた。
たぶん、おそらく、希望的観測だけど、暗くてよく見えなかったと思いたい。
私は、エイッ!と思い切り殿下に抱きついて、裸の身体を隠そうとした。
後で気付いたのだけれど、抱きついたところで殿下の身体を濡らしてしまっただけで、何も隠せてなどいなかった。
殿下は眉間にしわをよせて、「何があった?」と低い声で聞いてきた。
全然抑揚がない。
怒っているのか、呆れているのか、心配しているのか――まったく感情が読めない。
まるで潮位差のない内海の凪のようだ。
「湯浴みは済ませていただろう? どうした?」
黙秘など許さないと言わんばかりの殿下の無言の圧力に負け、しぶしぶ口を開いた。
「実は……月のものがくる前は、下腹部が酷く痛むんです。今夜は薄着だったから、冷えて余計に痛みが酷くて。薬草茶を飲もうと思ったけど、こんな時間に使用人を起こしたら迷惑だから。仕方なく、お風呂で温まってました」
暗に、使用人を起こすと迷惑になることくらい分かっているとアピールした。
「死のうとしたわけじゃないんだな?」
「は?」
「助けた命を捨てられるとか、
殿下は私の体にタオルを掛け、ひょいっと抱え上げると、その言動とは裏腹に、丁寧にベッドに身体を下ろしてくれた。
「あの夜着じゃ、たしかに身体が冷えるな。ちょっと待ってろ」そう言って、部屋から出て行った。
その間も、心臓のバクバクが止まらない。
お風呂に沈んで精神統一しているところを見られた。
絶対に、変人だと思われた。
もう金輪際、殿下に抱かれることはないだろう。そう確信できた。
しばらくすると殿下は、薬草茶の入った湯呑を手に戻ってきた。
羞恥心で身体が動かず、殿下が寝室から出て行ったタイミングで飲もうと思っていたら、「動けないほど痛むのか?」と言った殿下に、口移しでお薬を飲まされた。
殿下はいつまで経っても出て行く気配がなくて、仕方なくごそごそと起きあがると、彼に背を向けて持ってきてくれたネグリジェに袖を通した。
「殿下」
「ん?」
気怠そうに返事をした殿下に向かって、最後の足掻きをぶつけてみた。
「セイヨクショリでも良いですから、ダメですか?」
「意味分かって言ってるのか? そんな言葉、どこで習った?」
「同級生が言ってました」
「きょうびの学生はまったく。そんなのにエレナを利用するわけないだろ」
「それと、さっきの『救った命』って、どういう意味ですか?」
「そんなこと言ったか?」
「はい」
「気のせいだろ。もう寝るぞ」
はぁ――。
学校で男子たちが「据え膳食わぬは男の恥」って、言ってたのになぁ。
それほどクリステル様を大事にしているということか。ま、誠実といえば誠実なんだけど。
だったら、口移しで薬を飲まそうとするのも、やめてほしいんだけどな。
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