第23話 孤独の影

 ――柄にもなくはしゃぎ過ぎたのが良くなかったのかもしれない。


「熱っ」

 右の手の甲に油が跳ねて、たちまち肌が赤くなっていく。


 うっ、ここで席を立ったりしたら、不自然な感じになるかな、どうしよう――。

 でもこれ、放っておいたら水ぶくれになりそう。


 できるだけ自然にその場を離れようと思っていたら、ぐいっと殿下が私の腕を取り、そのままお屋敷の中へと連れて行かれた。


「っ、殿下!?」

「赤くなってる。早く水で冷やせ」

「このくらい、大丈夫です」

「大丈夫じゃないだろう? 痕が残ったらどうするんだ?」


 殿下が用意してくれた冷たい水桶の中に右の手のひらを浸けると、たちまち指先の感覚がなくなった。


「ありがとうございます。しばらく冷やしてますから、殿下はみんなのところへ戻ってください」

「……」

「殿下?」

「あの時。……エレナを追い出すような真似をして、悪かったと思ってる」

「殿下は私を、追い出したの?」

「違う!」

「だったら、謝らないで」

「……」


「このくらいでいいかな」

 水の中から手を出して、とりあえず応急措置で清潔な布を当てておこうと思っていたら、殿下がポケットから見覚えのある缶を取り出した。


「っ……それ、どうして?」

「よく効くんだろ?」

「そうだけど――」

「騎士の間でも人気らしい。3Jsジースだったか? エレナの護衛騎士」

「うん」

「彼らが、レシピと一緒に配ってた。――『民間療法』などと馬鹿にして、悪かったな」

「それ、3Jsジースから貰ったの?」

「ああ。『妃様が殿下のために作られたものだと思います』と言われ、渡された」


 ――あれは、まだ私が宮殿にいた頃のこと。

 温室の中に薬草畑があるのを見つけて、殿下に使用許可を申請したのだ。


「薬草を? そんなものを採って、どうする?」

「火傷や切り傷に効く塗り薬を作ろうと思って」

「何のために?」

「何のためにって――『備えあれば憂いなし』ってこれ、帝国語の諺でしょう?」

「もしもの時には、医師に診てもらえばいいだろう?科学的根拠が曖昧な民間療法になど頼る必要はない」

「――全っ然、分かっていないのね」

「何を?」

「世間には、医師に診てもらいたくても診てもらえない人がたくさんいるってこと。それにね、民間薬には先人の知恵と経験がたくさん詰まってるんだから」


 なんだかんだでいつもの「ごり押し」で薬草畑の使用許可を貰った私は、殿下を見返してやろうと祖母直伝の塗り薬を作り始めたのだが――志半ばで帝都を去ることになり、森の離宮で完成させたのだった。


 ――殿下の瞳の色をした、丸くて小さな青紫色の缶。

 3Jsジースったら、本当に私のこと、よく見てくれていたのね。それとも、私が分かりやすいのかな?


 殿下は私の右手に薬を塗り混むと、清潔な包帯を巻いてくれた。


「ふふっ。大袈裟ね」

「何が可笑しい?」

「初夜のときを想い出しちゃって。ほら――親指をぐるぐる巻きにされたでしょ?」

「ふっ。そんなこともあったな」


「ねぇ。私がいなくなって、少しは寂しい?」

「――どうだろうな」

「なによ。そこはお世辞でもいいから――」

「ただ――本音を言える相手がいなくなったことには、案外、こたえている」

「殿下……?」


 アルフォンス殿下の横顔に不意に差す孤独の影には、以前から気づいていた。

 彼のことをもっと理解したいと思う一方で、それは自分の役割ではないと制する自分がいる。

 結局は、殿下から心を開いてくれるのを待つしかないのだ。

 だから私は、彼の前ではいつも正直でありたいと思っている。


 そしてたぶん、これからも。

 たとえ周囲から、「不敬だ」と批難されたとしても。



 ――それからあっという間に年が明け、明日、離宮へ戻るという日の前日。

 オーギュスト様のお気に入りだというレストランへ連れて行ってもらえることになった。

 セヴラン先生は空気を読んだのか、それとも最後に温泉を堪能したかったのか、「2人だけで行っておいで」と送り出してくれた。


「わぁー。すごく素敵な場所ですね。連れてきてくださって、ありがとうございます」

「エレナに喜んでもらえて良かったよ」

「辺境伯領って、良い所ですね」

「そうだろう?」


「そういえば、今朝、またアルフォンス殿下とシャルル様がいらっしゃったんですよ?」

「2人が? またどうして」

「そういえば、理由を聞くの忘れてました」


「変わったこともあるものだね。毎年、年末の挨拶に来てはくれるが、続けて屋敷を訪ねてくることなどなかったのに」

「暇だったんじゃないですか?」

「奥さんに会いたかったんじゃないのかな?」

「それは絶対にないですねー」

「そうなのかい?」

「そうなのです」


 それからゆっくりとディナーを楽しんで食後のお茶を飲んでいた頃、管楽器による生演奏が始まった。周りにいたカップルたちが次々に席を立ち、音楽に合わせて踊り始める。


「せっかくだから、私たちも踊ろうか?」

「はい!」


「……オーギュスト様って、立派な体躯をされていらっしゃいますよね?」

「ん?」

「皇弟でいらっしゃるのに。軍か騎士団に所属している方みたい」

「昔は剣を握っていたからね」

「今では、そういうこともなくなりましたか?」

「エレナが輿入れしてきてくれて、王国との間では平和が保たれているからね」

「そうですか」


「……アルフォンスとはうまくやっている?」

「オーギュスト様の目にはどのように映りますか?」

「うーん。……正直、絆のようなものは感じられないかな」

「ぐっ……。おっしゃるとおりです。別居婚だし」

「仮面夫婦ということ?」

「実態は、夫婦ともいえないかな」

「ん?」


「……これ、あの時の傷ですか?」

 オーギュスト様の左ひじを指さして尋ねると、明らかに動揺したのが分かった。


「――何のことかな?」

「10歳のころ、人攫いにあったんです。死を覚悟したとき、助けてくれた男性がいました。帝国軍のマントを着た、皆から『将軍』と呼ばれていた人。……オーギュスト様ですよね?」

「エレナ……」

「別に、運命を感じたからじゃありません。気づいたら、惹かれていました。もし、再婚を考えることがあったら、私のことを候補に入れてくれませんか?」


「冗談でも嬉しいな」

「冗談なんかじゃありません」

「……エレナ、君はアルフォンスの妻だ」

「1年4か月後には離縁される妻です」

「っ……そんなこと、誰が?」

「初夜に、殿下からそう言われました」

「あいつはっ! 何ということを――」

「私たちは、の結婚です」

「ん? 白色の、なんだって?」

「え、あれ?――なんだっけ? えっと、普通の夫婦がすることをしない夫婦?みたいな」

「……」


 単語帳! あれがないから、もう分からなくなっちゃったじゃない!


「とにかく、私、今よりずっと良い女になりますから、その時は――」

「エレナは今でも十分素敵なレディだよ。そして、君に相応しい男は私じゃない」

「私はっ、オーギュスト様が――」

「エレナ、これ以上は。どこに目耳があるか分からないからね」

「……申し訳ありません」


 オーギュスト様に迫っている間に気づいたら2曲続けて踊ってしまっていた。

 けれど、結局最後まで、私が欲しかった返事はもらえなかった。


 ……っていうか、私、軽く振られた?

 それでも、私を助けてくれたのがオーギュスト様だって点は否定されなかった。

 モヤモヤした気持ちを引きずったまま、新しい年の始まりとともに再び離宮へと戻った。


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