第19話 辺境伯
その日はセヴラン先生と年明けの編入試験に向けた勉強の追い込みをしていた。
ひと段落ついたところで、護衛や使用人も呼んで皆でお昼をいただくことにする。
「森の離宮」の主人は一応私ということになっているが、食事も休憩もみなで一緒に取ることにしている。その方が効率的だし、なにより、私の心が満たされるからだ。大勢でお喋りしながら賑やかにとる食事が、今の私を支えてくれているといっても過言ではない。
今日は、宮殿からやって来た事務吏官も一緒に食卓を囲んでいる。
「――それで皇太子妃様。年末年始は宮殿へお戻りになられますか?」
「いいえ? 殿下からも特に公式行事の連絡は来ていないし、こちらで過ごす予定よ」
「ですが、護衛は今月末をもって引き上げられることが決まっております。年明けからは、身の安全の保障ができません」
事務吏官も、どうすべきか頭を悩ませているようだ。
実は、これまで私を24時間警護してくれた護衛――3
予算削減により、森の離宮の警備体制が見直されたことが理由らしい。つまり、お飾りの妻につける警護費用など無駄金、と見なされたというわけだ。
「……それなんだけど。年明けからは、個人的に護衛を雇おうと思ってるの」
皇太子妃の予算は、変わらず毎月決まった金額が振り込まれているし、ランスロットとヴィクトリア様から連名で支払われている慰謝料もある。正直、お金は有り余っているのだ。
まるで夫――双方ともに、実態のない幻の夫だけど――が2人いるみたいなこの状況に、少しだけ笑えてしまう。それだけ、心が回復してきた証拠なんだろう。
「でしたら、私と一緒に辺境伯領へ行ってみませんか?」
セヴラン先生の提案に思わず首を傾げた。
「辺境伯領?」
「実は、現辺境伯様は私の教え子でして。
「私がお邪魔してもいいのでしょうか?」
「もちろん。先方からも、エレナ様のご都合さえよければ是非にとお返事を頂いております」
「だったら、ぜひ! 温泉なんて素敵だわ」
「それに、辺境伯領の地元料理はおいしいと評判なのですよ?」
「まぁ。それはますます楽しみだわ。誘ってくれて、ありがとうございます」
「いやいや、私も賑やかな年末になるのが楽しみです」
辺境伯領までは、離宮から馬車で1日程度の旅だった。
「ようこそおいでくださいました、皇太子妃様、セヴラン先生」
「エレナと申します。この度はご招待いただきまして、ありがとうございます。どうぞ宜しくお願いいたします」
丁寧に挨拶をして顔を上げると、宮殿の中庭で私のお弁当を『美味しい』と言って食べてくれたあの紳士が立っていた。
「貴方は、あの時の――」
「いつぞやはご挨拶もせず、失礼致しました」
「オーギュスト様、息災のようですな」
「セヴラン先生もお元気そうで何よりです」
あの時は心が折れてしまっていて気づかなかったけれど、30代半ばに見える辺境伯様は、それは見目麗しい外見をしていて、思わず見惚れてしまうほどの色男だった。
「大人の男性って感じ……」
それに敬語――ちゃんと話せる人なんだ。
「なにか?」
「っ、いえ」
「皇太子妃様には2階の客間をご用意しております。侍女がご案内いたしますので、落ち着かれたらお茶にしましょう」
「あの、私のことはどうか「エレナ」とお呼びください」
「でしたら、私のことはどうか『オーギュスト』と」
「分かりました。オーギュスト様」
「それではエレナ様。また後ほど」
「あの、「様」は抜きで。「エレナ」とお呼びください」
「ふっ。分かりました」
宮殿とは全く違う、家庭的な雰囲気がするこの屋敷を一目で気に入った。
着替えを手伝ってくれる侍女も、落ち着いた年齢の女性で優しい瞳をしている。アルフォンス殿下のお手付きを望んでいる野心を灯した年若い女官たちとは全然違う。
「オーギュスト様の奥様はどんな方なのかしら? きっと素敵な女性なのでしょうね?」
「奥様は5年前の流行り病でお亡くなりになりました」
「それはっ……ごめんなさい、不躾なことを聞いて」
「いいえ。たしかに当時はみな悲しみ塞ぎこんでおりましたが、ずっと落ち込んでいるわけにもいきませんから」
「そう。……このお洋服。私と同じくらいのご令嬢がいらっしゃるのね?」
「カミーユ様のことでしょうか。今は、西国に留学しておいでです。エレナ様にいらしていただき、久しぶりに屋敷内が明るくなった気がいたします」
「カミーユ様はお帰りにならないの?」
「そのようでございますね。ご学友の皆さんと旅行に出かけるのだそうです」
「まぁ。楽しそうね」
「家族とよりも、友人といる方が楽しい年頃なのかもしれません」
「……そう」
幼少期を家族と一緒に過ごしたくても過ごせなかった私にとっては、そういう感覚がうまく理解できなかった。
階下へ降りていくと、セヴラン先生とオーギュスト様がすでに歓談していた。
「やぁエレナ。娘の服のサイズが合ったようでよかった」
「お気遣いに感謝いたします。どうしても、普段着のドレスだと胸が苦しくて」
「はははっ。ここでは人目を気にする必要はないからね。楽な服が一番だよ」
「はいっ!」
名前で呼び合っているせいだろうか。オーギュスト様とはアッという間に打ち解けることができた。
――殿下のことも、意地なんて張らずに下の名前で呼んでたら、もう少し歩み寄れたのかな。なーんて。今更だけど。
翌朝。
冬の小鳥たちが立てる小さな鳴き声で目を覚まし、窓辺から外を眺めると、中庭で上半身だけ裸になり剣を振るオーギュスト様の姿が見えた。
引き締まった体躯に精悍な横顔。思わず胸がトクンと高鳴る。
よく見ると、左腕に深い切り傷がある。
「あれって……」
無意識に自分の額に手をやる。
「あの時、助けてくれた人……?」
額に傷を受け、奴隷商に売り渡されそうになったあの時、賊のアジトと思われる場所に帝国軍が雪崩れ込んできた。
混乱した現場で自分が切り付けられそうになった時、身を挺して私を庇ってくれた人がいた。
途端に「
「オーギュスト様……昔、帝国軍の将軍だった? まさか、ね」
そんな偶然、あるわけないか。
けれど――あの時の青年はたしか、20代の半ばくらいだったと思う。
今の辺境伯様は35歳。なくもない話だ。
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